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第29話:次の案件

 馬車の車輪が乾いた土を削り、細かな砂埃を後方へ舞い上げる。窓の外では、葉をすっかり落とした広葉樹の幹が、等間隔で後ろへと流れていく。


 ジュネーヴァは馬車の背もたれに体重を預け、膝の上に置いた分厚い帳簿を開く。右手で紙の端を摘んでページを捲るたび、乾いた紙の擦れる音が車内に響いた。


「お嬢、ローレンシアの件、終わりでんな」


 御者台に座るボリスが、小窓越しに声を落とした。その背中は冬仕様の分厚い外套に包まれている。


「ええ、終わりですわ」


 ジュネーヴァは視線を帳簿の文字に落としたまま、短く言葉を返す。車輪が石を弾いて車体が揺れ、膝の上の帳簿がわずかに上下した。


 紙片を数枚まとめて指で弾き、さらに先のページを大きく捲る。綴じ目の近くに、茶色く色褪せて表面が毛羽立った革紐の腕飾りが挟まっている。


 ジュネーヴァはページを捲る手を止める。右手の指先を伸ばし、端の擦り切れた革紐の表面を僅かに撫でた。


「お嬢、まだ持ってはりましたか」


 小窓から再び車内を覗き込んだボリスが、目尻に数本の皺を寄せて口角を上げる。


「契約に基づく成果物ですもの」


 ジュネーヴァは革紐から指先を離し、それを栞の代わりにしたまま帳簿を閉じる。硬い革張りの表紙の上に両手を重ねて座席に背を預けた。


「そういうことにしときまひょ」


 ボリスは前へ向き直り、馬の背に掛かる手綱を両手で握り直す。馬のいななきが外から聞こえた。


「何のことですの」


 ジュネーヴァは顎を引き、閉じた帳簿から窓の外へ視線を移す。


 緩やかな傾斜の街道の先、雲の広がる灰色の空を背景にして石造りの塔が現れる。屋根の上に帝国軍の黒い旗を掲げた、国境の検問所が前方から近づいてきた。


 ◇ ◇ ◇


 鉄製の大きな門が左右に開き、馬車が石畳の上を低く唸って進む。正面には石造りの本邸がそびえ、二階の窓にはミリオン家の紋章が刻まれた旗が揺れている。


 馬車の扉が開くと、白く磨かれた玄関ホールに靴音が響いた。制服を整えた使用人たちが二列に並び、一斉に腰を折って頭を下げる。


 ホールの奥からジュリアが歩み寄り、ジュネーヴァの正面で足を止めた。彼女は両腕を伸ばして娘の肩を包み、その顔を近くで覗き込む。


「ジュネーヴァ、お帰りなさい」


「母様、ただ今戻りました」


 ジュネーヴァは背筋を伸ばしたまま、肩にある母の手に自分の掌を重ねる。


 ジュリアの背後からフィオレンツォが姿を現し、一歩下がった位置で立ち止まった。彼は膝の前で指先を揃え、姉に向かって深く会釈をする。


「姉様、お疲れ様でした」


「ジュネーヴァ、もう着いたのね」


 上階から声が降り、ヴェネツィアが速い足取りで階段を下りてきた。


「姉様、お早い」


 ジュネーヴァが階段へ顔を向けると、ヴェネツィアは彼女の横に並んで腕を組む。


「あの後、私先に帰ったから」


 ヴェネツィアは顎を少し上げ、口角を横に広げて見せた。


 ジュリアは娘たちの背中に掌を添え、廊下の奥へと歩みを促す。ホールの奥にある部屋からは、香辛料の混じった湯気の香りが漂ってきた。


「みんな、お夕食ですよ」


 廊下の突き当たりにある扉が開かれ、白い布を被せた長い食卓が現れる。家族は足音を重ねながら、燭台の灯る食堂へと入っていった。


 ◇ ◇ ◇


 銀色のシャンデリアが放つ光が、白磁の皿の上で跳ねている。立ち上るスープの湯気が、卓上の燭台の火をわずかに揺らした。


 アウレリウスは席に深く腰を下ろし、手元のナプキンを膝の上へ広げる。彼は向かいに座るジュネーヴァへ視線を向けた。


「ジュネーヴァ、ご苦労だった」


「父様、ご報告いたしましたとおりです」


 ジュネーヴァは背筋を伸ばし、銀の匙を置いて父の目を見つめ返す。


 ジュリアは隣から手を伸ばし、ジュネーヴァの手の甲に自らの掌を重ねた。彼女は娘の顔を覗き込み、口元を緩める。


「ジュネーヴァ、契約に基づいて処理しただけ……それでいいのよ」


「母様……」


 ジュネーヴァは重なった母の手の熱を感じ、視線を少しだけ伏せた。


 アウレリウスはナイフを手に取り、皿の上の肉を一定の幅で切り分ける。彼は一度口を動かした後、再び娘へ声を掛けた。


「ところで、次の案件だ」


「次、ですか」


 ジュネーヴァが問い返すと、アウレリウスは切り分けた肉を口へ運ぶ。


「勇者選挙のブイヤネン候補に、選挙資金の融資依頼が来ている」


 ヴェネツィアは手元のワイングラスを持ち上げ、液体を一口含んだ。彼女はグラスをテーブルに戻すと、楽しげに眉を上げる。


「ブイヤネン君ね。私の同期よ」


「姉様、勝てそうな方ですか」


 ジュネーヴァの問いに、ヴェネツィアは迷わず頷いて見せた。


「間違いなく当確ね」


 背後に控えていたボリスが、上体をわずかに折り曲げてジュネーヴァの耳元へ顔を寄せる。


「Vやねんフラグでっせ」


 彼はごく小さな声で呟き、すぐさま元の直立の姿勢に戻った。


 執事が足音を消して歩み寄り、ジュネーヴァの脇で銀のトレイを差し出す。その上には、青い封蝋の施された厚手の封筒が置かれていた。


「お嬢様、新女王国からのお手紙でございます」


 ジュネーヴァは封を解き、中から二つ折りの便箋を取り出す。そこにはダフネの筆跡で言葉が綴られていた。


『ジュネーヴァ嬢、無事のご帰国、お喜び申し上げます。父が亡くなる前に、あなたのことを「最も信頼できる債権者」と仰っておりました。』


 ジュネーヴァは手紙の余白に指を添え、紙の感触を確かめながら読み進める。


『父の言葉が、今ようやくわかります。ローレンシア中央銀行は、あなた様のお父上のもと、運営が始まっております。』


 ヴェネツィアとフィオレンツォが、静かにジュネーヴァの手元を見守っている。


『当家と方伯家、共に新時代の金融機構を育ててまいります。契約の通り、お返しいたします。』


 ジュネーヴァは紙の折り目に沿ってゆっくりと便箋を畳み、封筒の中へ戻す。彼女は顔を上げ、正面に座る父へ向き直った。


「……父様、ブイヤネン候補の件、明日詳細を伺いたく」


「うむ、明朝に資料を渡そう」


 アウレリウスは短く応じ、再びカトラリーを動かして食事を再開する。食堂には、銀食器が皿に当たる硬い音だけが規則正しく響いた。


 ◇ ◇ ◇


 ビリヤード室の天井に吊るされたランプが、深緑色の羅紗の上に円い光を落としている。四隅の暗がりには火の消えかけた暖炉があり、わずかに白い灰が爆ぜた。


 ジュネーヴァは木製のキューを握り、指の背でチョークを削る。青い粉が卓の縁に散り、彼女は前傾姿勢を取って手球に狙いを定める。


 右腕が水平に動き、革の先端が球の中心を弾く。乾いた衝突音が室内に響き、的球は羅紗の上を直線に走った。


 球はクッションを二度叩き、対角線上にある穴へと吸い込まれる。底で硬い音が鳴り、網の中で球が静止した。


「綺麗に落ちましたわね」


 ジュネーヴァは上体を起こし、手首に掛かった後れ毛を指先で払う。扉の隙間から廊下の明かりが差し込み、ボリスが音を立てずに室内へ入ってきた。


「お嬢、まだ起きてはりますか」


「考え事ですわ」


 ジュネーヴァはキューを壁の棚へ戻し、卓の縁に腰を下ろした。


「ダフネ殿下のお手紙のことでっか」


 ボリスが歩み寄り、ジュネーヴァから数歩離れた位置で足を止める。


 ジュネーヴァは答えを返さず、懐から銀の煙管を取り出した。刻みたばこを詰め、火を点けて紫煙を天井の闇へと吐き出す。


「お嬢、いいんとちゃいまっか。契約に基づいた成果ですよって」


 ボリスは帽子の鍔に手を掛け、上体をわずかに折って見せた。


「そういうことにしておきましょう」


 ジュネーヴァは煙管の吸い口を指でなぞり、一つだけ頷いた。


 執務室の壁を埋める本棚には、革表紙の帳簿が隙間なく並んでいる。ジュネーヴァは手元の厚い帳簿を手に取り、空いた空間へとそれを差し込んだ。


 背表紙には金のインクで「ローレンシア記録 完」と記されている。彼女は棚から手を離し、執務机の上にある真新しい帳簿を開いた。


 ジュネーヴァは今しがた棚に収めた帳簿を再び引き出し、ページの間から一本の革紐を取り出す。それは幾度も指で触れられたために、表面の毛羽立ちが失われて黒ずんでいる。


 彼女は手のひらの上で革紐を転がし、数秒間だけ視線を落とす。指先で結び目の跡をなぞり、革の硬さを確かめた。


 真新しい帳簿の最初のページを開き、その中心に革紐を横たえる。表紙を閉じると、背表紙の隙間から革紐の端がわずかに顔を出した。


「お嬢、それ、新しい帳簿に?」


 後ろに控えていたボリスが、その手元を覗き込んで声を出す。


「栞ですわ」


 ジュネーヴァは感情を削ぎ落とした声で応じ、ペン立てから羽ペンを抜き取った。


「お嬢……」


 ボリスはそれ以上の言葉を飲み込み、帽子の位置を深く直す。


 扉が叩かれた。


 執事が両手に書状を捧げ、机の脇に置いた。


「お嬢様、ダフネ殿下から、追伸の書状でございます」


 ジュネーヴァはペンを置き、封蝋を解いた。


 便箋は一枚だけだった。


『一つだけ、お伺いしてもよろしいですか。

 コンスタンティン兄上を、愛していらっしゃいましたか。』


 ジュネーヴァは便箋を閉じ、ボリスの方へ滑らせる。


 ボリスは便箋に視線を落とし、文面を追う。


「変なことを聞くのね」


 彼女は帳簿の新しい頁に、視線を落とす。


「私が愛しているのは、お金だけですわ」


 ボリスは便箋を机に戻し、深く頭を下げた。


「そういうことにしときまひょ」


「では」


 ジュネーヴァはインク壺の蓋を開け、ペン先に黒い液体を含ませた。


「次の案件ですが」


「へい、お嬢」


最後までお読みいただきありがとうございます。

この話はここで完結ですが、他の編を書こうとも考えています。

もしその時は是非またお付き合いいただけると幸いです。

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