第15話:愚者の帰還
高い窓から差し込む冷ややかな光が、ナルキスの居室に並んだ銀器を白く照らしていた。絨毯の上には、銀器や書類が散乱している。
扉が勢いよく開かれ、三人の取り巻きが足早に入ってきた。筆頭格のオクタヴィウスが先頭に立ち、恭しく頭を下げる。
「殿下、ようやくお戻りでございますね」
ナルキスはソファの背に深く身を沈めたまま、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「父上はどうした」
「ご療養中でいらっしゃいます」
オクタヴィウスが淀みなく答えると、ナルキスは不遜な笑みを浮かべ、窓の外へ視線を投げた。
「ふん、ご老体だ。仕方あるまい」
ナルキスは身を乗り出し、卓上の書類を無造作に払いのけた。
「政務は俺が執る。この王国は俺のものだ」
ファビウスが両手を合わせ、笑みを浮かべて追従した。
「殿下、お見事なご決断でございます」
シルウィウスが低い声で一歩踏み出し、進言を重ねる。
「あの金貸しの令嬢、我々が排除いたしましょう」
ナルキスは金杯の縁を指先でなぞった。
「焦るな。順番にやればよい」
◇ ◇ ◇
石造りの廊下を歩くダフネの靴音が静かに響く。彼女は執務室の扉の前で足を止め、重厚な木板を二度叩いた。
「兄上」
机の上の書類を散らかしていたナルキスが、億劫そうに顔を上げた。
「ダフネか。何の用だ」
ダフネは机の数歩手前で立ち止まり、背筋を伸ばした。
「父上のご病状を、ご存じですか」
ナルキスは手元の羊皮紙を無造作に放り出した。
「ああ、ご療養中だろう」
ダフネは動かずに、兄の瞳を見つめた。
「兄上、政務を執られるのなら、まずは父上のお見舞いを」
「俺は忙しい」
ナルキスは不機嫌そうに鼻を鳴らし、再び書類に目を落とした。
「兄上、ミリオン家への債務、いかがなさるおつもりですか」
ダフネの声が室内に低く響く。ナルキスは金杯を手に取ると、中のワインを一口煽った。
「フン、何か手を考えておるところだ」
「無理な徴税は、もうやめてください」
ダフネは一歩踏み込み、兄を真っ直ぐに見据えた。
「兄上、それは王国を売るのと同じです」
ナルキスの顔が急速に赤く染まり、金杯を机に叩きつけた。
「黙れ! 女が政務に口を出すな!」
傍らに控えていたオクタヴィウスが、僅かに首を振って声を落とした。
「殿下、ダフネ様は王女のお立場。お言葉が過ぎるかと」
ファビウスが遮るように前に出ると、冷ややかな視線を王女へ向けた。
「いや、女の口出しは無用」
ダフネは静かに深々と頭を下げた。
「失礼いたしました」
彼女は踵を返し、一度も振り返ることなく部屋を去った。廊下には再び、一定のリズムを刻む靴音だけが残された。
◇ ◇ ◇
ナルキスは乱暴に椅子を引き寄せ、窓の外へ視線を投げた。
「あの女ども。妹も、ジュネーヴァも、揃って俺に説教か」
シルウィウスが書類の束を整理しながら、伺うように声を上げる。
「殿下、ミリオン家への借金、いかがなさいますか」
ナルキスは金杯に残った滴を飲み干した。
「何か手があるはずだ」
オクタヴィウスが静かに一歩前へ出た。
「貴族たちの個別の借入を、王国がまとめて引き受けては」
ナルキスは顔を上げ、オクタヴィウスを凝視する。
「まとめる、とは」
「貴族の借金を国庫が肩代わりし、貴族からは別途徴収する形に。一本化すれば、交渉がしやすくなりましょう」
ナルキスは口角を吊り上げ、机を叩いた。
「……ふむ。妙案ではないか」
オクタヴィウスは一度視線を伏せ、再び顔を上げた。
「殿下、もう一つ、ご提案がございます」
「何だ」
「貨幣の品位調整、というご手段がございます」
オクタヴィウスは懐から一枚の書類を取り出し、机の上に滑らせた。
「ディナールの金含有量を、現行の十分の一に」
ナルキスは書類を一瞥し、興味深そうに眉を上げた。
「十分の一……」
「契約書の文言は、変えずに済みます。一億八千万ディナールという数字は、そのまま」
「ですが、貨幣そのものの価値が下がりますゆえ、王国の実質的な負担は十分の一に圧縮されます」
ナルキスは机を強く叩き、椅子に深く座り直した。
「ふむ、二段構えか」
「左様でございます。借り換えで集約し、品位調整で実質を削る」
ファビウスが手を叩き、深々と頭を下げる。
「殿下、ご慧眼でございます」
ナルキスは満足げに頷くと、一同を見回した。
「次の御前会議で提案する。準備しろ」
◇ ◇ ◇
夕暮れの王都は、灰色の影に沈み始めている。石造りの外壁には、乱雑な筆致の落書きが並んでいた。
「金貸し令嬢に国を売った王太子」
「お帰りなさい、自爆王太子」
足を止めた男たちが、落書きを指差して声を潜める。
「王太子、戻ってきたってよ」
「また何かやらかすな」
隣の男が鼻を鳴らし、地面に唾を吐いた。
「金貸し令嬢に国を売った王太子、お帰りなさい、ってか」
低い笑い声が路地に響き、男たちは背を向けて薄暗闇へと消えていく。
王宮の長い廊下を、ダフネが独りで歩いていた。彼女は高い窓の前で足を止め、眼下の街並みに視線を落とした。
遠くの広場では、街灯が点り始めている。ダフネは窓ガラスに映る自身の蒼白な顔を見つめ、静かに呼吸を整えた。
兄上にはもう求心力がない。
父上のお言葉が、現実になりつつある。
私が……継ぐ覚悟を、もう固めるべきか。
ダフネは窓枠に両手を置いた。石の冷たさが掌に伝わる。彼女は視線を街の灯りへ戻し、そのまま動くことはなかった。




