5-1 母の指輪
これはまだ、フィルメイルという少女が喋る長い杖メフィストと出会ってから二年、まだ六歳だった頃のお話。
彼女にとって大切な出会いの話である。
舞台となるのは、フィルの生まれ故郷である王国端の田舎村。
まだ花のつぼみの様な小さな小さなフィルは、家の倉庫で暇そうにしていた喋る杖メフィストと出会った後も、祖母とメフィストに見守られながらすくすくと育っていた。
四歳から五歳、五歳から六歳とフィルが成長するにつれ、彼女は村の者達から『うそつき』と呼ばれなくなっていった。
だがそれは、彼女がふわふわ宙を浮かぶ青い何かを見なくなったわけでもなく、空に流れる緑のにょろにょろが消えたわけでもなく、闇よりはい出る黒いうにょうにょが影に溶けたわけでもない。
自分のことを信じない人に『本当のこと』を語るのをやめた。
ただ、それだけの事であった。
不思議な事を言わなくなった『うそつき』に対し、村長の息子を筆頭にした子供たちの嫌がらせは相も変わらず続いていた。だが、メフィストと出会ってからのフィルは、嫌がらせの数々に対し反撃を――分かり易く言うならば、飛び蹴りを喰らわせるようになっていた。
仲良くすることを放棄した少女にとって、嫌がらせをしてくるだけの近い年頃の子供たちなど、ただの敵でしかなかったのだ。
そしてそれは、大人たちも変わらない。
そう。この田舎村は、彼女にとって敵だらけの村であったのだ。
そんな村の中でも彼女が真っ直ぐに育ったのは、ひとえにフィルにとって唯一無二の友であるメフィストのお陰であろう。
友の声で目覚め、友に見守られながら食べ、友と共に祖母の畑仕事を手伝い、友と共に本を読み、友と語らい……友の側で眠る。
何をするにもフィルは、自分よりも大きな、大人程に長い杖を抱き締め、ずっとずっと一緒にいた。
その頃のメフィストは未来である今とは違い、ゆっくり動くかその場で浮かぶ程度の事しか出来ず、今も変わらぬ子供っぽい声はフィルにしか届かなかった。
おしゃべりするだけの杖。
特に何か役に立つわけでもない杖。
だがそんな杖こそ、彼女に最も必要であったことは、語るまでもないだろう。
とある事件が起こったこの日は、窓から差し込む日差しが温かな、トラブルとは無縁に思えるありふれた日であった。
そんな日の穏やかな昼下がり。
はしゃぎ遊ぶ子供達の高い声が薄っすらと聞こえる中、フィルは杖メフィストと共に自室にこもっていた。
フィルは別に暗い少女ではないし、当然、引きこもっているわけでもない。
その日は、魔術師の老人が村の子供たちに魔法を教えに来る日であった。
フィルも参加した魔法の授業は午前中に終わり、今は彼女が日課としている『魔法の練習』の時間である。
フィルは自室の真ん中に立ち、今日聞いた老人の声を、長い白髭を蓄えた『ほっほっほっ』と笑う老人の声を思い出しながら、大きく息を吸っては吐き、吸っては吐きを繰り返していた。
『まずは体に満ちる魔力を感じ取るのじゃ』
自分の中の魔力を感じ取る。
それは、生来魔力に対し鋭敏な感覚を持っていたフィルにとって、朝飯前なことであった。
「よぉーし。やるぞー」
フィルは、側で見守る友メフィストに宣言するかのようにそう呟くと、すっと右手を前に突き出し、子供らしい大きな瞳を閉じた。
軽く握り拳を作る彼女の右手の指には、赤い一粒石の施された指輪がはまっており、窓から差し込む光を受け美しく輝いていた。
それはただの綺麗な指輪ではない。魔法を扱う者にとって大切な道具、魔法発動の要となる魔鉱石『発動体』である。
『次は、発動体に意識を集中させるのじゃ……そう、急がずゆっくり、ゆっくりでよいぞ』
「ゆっくりぃ……ゆっくりぃ」
教わった通り、右指の発動体に意識を向けるフィル。
彼女の脳内に、老人の声が響く。
『あとは、どんな魔法を使うか思い浮かべ、呪文を唱えるだけじゃ。原初魔法なら面倒臭い魔法式なぞいらんいらん。さぁ、わしと共に風を呼ぼうぞ』
フィルは老人の声に合わせ、自らの白いキャンバスに流れる緑を鮮やかに描き、ハキハキとその高い声を部屋の中に響かせた。
「『≪ウインド≫』」と。
シーンと静まり返った部屋の中、遊ぶ子供の声が遠くから響く。
部屋に差し込む日差しは変わらず温かい。
そして、換気の為に開け放たれていた扉から窓へ、緑のにょろにょろが『お邪魔しました~』と言わんばかりに流れていく。
そう。呪文を唱えたフィルから風が生まれることはなかった。
魔法は失敗したのである。
「んー。≪ウインド≫。≪ウインド≫ォ、≪ウインド≫ぉぉ」
何度唱えても何も起きない。変わらず何も起きない。
魔術師の老人がやって来るのは月に一度。魔法を教わり初めてから早一年。
練習は毎日。
しかしながら残念なことに、今までフィルの魔法が成功したことは一度もなかったのである。
フィルは今日もあきらめず、何度も何度も練習を行う。魔法の先生である老人の教え通りに。繰り返し、繰り返し。
フィルは、その後も小一時間ほど練習を続けた。
だが当然ながら、一年間出来なかった事が昨日今日で出来るはずもなく、今日もまた、フィルの高い声が虚しく部屋に響くだけに終わってしまった。
フィルも、自分が突然魔法が使えるようになるだなんて思っていなかった。だがしかし、失意から彼女の肩がガクリと落ちてしてしまうのも、無理はなかろう。
成果のない練習の疲れを示すのは肩だけでなく、ぷにっと柔らかな唇の間からも「ふへー」と落胆の息がこぼれてしまっていた。
「う~~~……やっぱり駄目だぁ……」
「お疲れさん。あんま根詰めんなよ、フィル」
声変わり前の少年のような声が、壁に立てかけられた長い杖メフィストからフィルへと届く。
ふらふらゆらゆらと動き出したフィルは、そのまま杖の横にペタンと座り込んでしまった。その顔は下へと向いてしまっている。
「ねーメフィちゃん……なんで出来ないんだろう……」
「正直わかんねー。前にも言ったけどよ、こと魔法に関しては俺様からっきしだからな……わりぃ」
「いいよー。メフィちゃんにもわかんないなら、しょーがないよねー」
明るく声を出すフィルに、のそりのそりと動いたメフィストが身を寄せる。
まるで慰めるかのような友の仕草に、丸っこい顔がふにゃりと緩む。
「焦ることねぇさ。あの爺さんも『君には類まれなる才能がある!』なんて目ぇ血走らせてたからな。お前の婆ちゃんも母ちゃんも魔法の才能あったんだろ?」
「うん。そう聞いたよ」
「なら大丈夫だ。ゆっくりいこうぜ」
「うん!」
フィルは、根拠のないメフィストの言葉に元気に頷くと、右手を前に突き出し手の平を広げた。
フィルの青く真ん丸な瞳が、キラリと輝く指輪を映し出す。
祖母から貰った大切な宝物を。
それは昔、フィルの母パーラが大人になるまで使っていたという赤い発動体であり、フィルにとっては、ぼんやりとしか憶えていない母との数少ない繋がりでもあった。
「よーし。もうちょっとがんばろー」
よっこいしょっと立ち上がったフィルであったが、フィルを待っていたのは魔法の練習ではなく、外で土をいじる祖母の快活な声であった。
「フィルー。ちょっと手伝っておくれー」
「はーい」
元気な返事と共に廊下へ飛び出したフィルを「ちょっと待てフィル」とメフィストが止める。
素直に急停止したフィルは、両手で握るメフィストへ小首を傾げた。
「どーしたの?」
「土仕事するなら指輪外しておけよ。汚れちまうぜ」
「おー。うっかり」
フィルは友の助言に従いトコトコと部屋に戻ると、戸棚の引き出しを開けた。
そこには、祖母に作って貰った木のおもちゃやそこら辺で拾った綺麗な石、自分で作った押し花のしおり等、フィルにとって大事な物が入っていた。
当然、フィルは宝物を取りに来た訳ではない。
フィルは外した指輪が傷つかぬよう白いハンカチで挟み込み、それを引き出しの中へそっと安置した。
そして揺れぬよう、ゆっくり、ゆっくりと引き出しを閉める。
母の指輪を大事そうに扱うフィルを見てか「へへっ」とメフィストもどこか嬉しそうに声を弾ませていた。
「それじゃ、婆ちゃんの所に行こうぜ」
「うん。メフィちゃんも一緒にやろーね」
「浮くぐらいしか出来ねーけどな」
自虐的にも思える友の言葉に、フィルはニコリと明るく笑いかける。
「だいじょーぶ、ぷかぷかお手伝いがあるよ」
「……ぷかぷか? 俺様、何やらされるんだ?」
「わーい。一緒におってつだいー」
そう言いながら、フィルは元気に部屋を飛び出していく。勢いのまま外へ飛び出した彼女が、メフィストの疑問に答える事はなかった。
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温かな日差しも、外で動けば少々暑くなるものである。
変わらぬ日の光の中、フィルは麦わら帽子をかぶり、畑の中にいた。
今の青空を思わせるフィルの青い瞳は、葉が青々と育ったお野菜たちへ――ではなく、野菜の脇で無造作に生えるお邪魔な雑草へと向けられていた。
野菜の生育を妨げる憎き奴らを駆逐する事が、本日祖母から彼女に与えられた大切なミッションなのである。
地面すれすれまで伸びた手袋入りの小さな手が、雑草の根元をむずりと掴む。
すっと持ち上がった雑草から、ちょろちょろとした細い根があらわになった。
フィルの目には、草の根から落ちる土と共に、白いぽわぽわとした何かが落ちるのが映った。その白いぽわぽわは、そのまま地面へ溶け込む様に消えていく。
他の者からすれば異常な光景なのだが、フィルにとってはいつもの事である。
白いぽわぽわを気にもせず、フィルはむしった雑草を横でぷかぷかと浮く袋へと放り込み、次の獲物へと手を伸ばす。
せっせ、せっせと、次々に。
草をむしり、むしり、汗をぬぐい、むしり続ける。
そんな頑張るフィルを、メフィストは側でぷかぷか浮きながら見守っていた。
雑草を入れる袋を、その長い体にぶら下げながら。
「『ぷかぷかお手伝い』って、ただの袋持ちかよ……まぁいいけどな」
「んー。メフィちゃん、いやだった?」
「むしろ安心したぜ」
「ん? よくわかんないけど、よかったー」
屈んだままメフィストを見上げるフィル。彼女の子供らしい丸っこい顔に浮かぶ笑みは、野菊の様に素朴で、そして愛らしかった。
ついついメフィストも、クツクツと笑ってしまう。
すぐに雑草むしりに戻ったフィルを、メフィストは最大速度で追いかける。
のっそり、のっそりと。
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祖母の手伝いを終え、自室に戻ったフィルを待っていたのは、母の指輪が消えたという……そんな悲しい事実であった。




