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「人助け」の暴力  作者: 小島 剛
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『書く』ことの暴力

 しかしある意味では、これはひどいことではないだろうか。というのもいくら和歌山県日置川流域住民が度重なるダム水害に見舞われていて、危険な状態にあったからと言って、勝手に「科学技術弱者」などと名指し、社会から切り取り、社会学的方法という、もっぱら私がこれまた勝手に選んだ方法によって分析し、構造化し、論文にまで仕立て上げ、これまた鬼がでるか蛇が出るかという科学・権力の場に引きずり出し、さらし者にするのである。これは手放しでほめられることか。




 いじめられている子供は、自分がいじめられていることを、なかなか、認めたがらないという。学校という科学・権力を叩き込む場で、公式に誰の目に見ても正しい形で、自分が劣位に置かれる者、弱者、と名指され、特定されることを嫌うのである。当たり前であろう。だが、私は、水害被災者に対しては、それを堂々と行うのである。水害被災者という、ひどい目にあい続ける人々を「科学技術弱者」などと勝手に名指し、資料やその他見聞きした知識、社会学的理論などとも合わせて構造化し、周到に科学・権力の場に引きずり出すのである。それは東京大学での発表であったり、博士論文としての京都大学への提出であったり、お茶の水書房からの出版であったりするわけである。誰がこんなに構造化された科学・権力にやすやすと反論を加えることができるだろうか?

私自身自信をもって言うが、私の議論は堅い。そうやすやすと反論を加えることは許さない。だが、それは同時に私以上に本当は日置川殿山ダム水害についてよく知っているであろう、日置川流域住民をさしおいて行われるのであり、彼らも私の議論に口をはさむことをやすやすとは許さないことをも意味するのである。流域住民を勝手に「弱者」と名指したある学徒が事象を勝手に切り取り、勝手に分析を加え、勝手に発表するのである。肉の力を使って殴りつけるのではない。しかし、ここにはある種の暴力性が潜んでいると言わざるを得ないのではないだろうか。




 私が、取材した対象は水害訴訟である。和歌山県日置川中流域住民が、関西電力という関西一の大企業と和歌山県という巨大権力に対して起こした訴訟である。初めから、科学・権力の分配に著しい不均衡が存在する。




 住民原告側は、データについては、ダムを実際に管理・操作している関電が発表したものを使う以外ない。弁護士も学者の数も限られ、彼らは皆給料をもらわず、手弁当で訴訟を行っている。それに対し、被告は、大企業の資金力にものを言わせた法務部が動き、弁護士を雇い、税金を使って、住民を黙らせにかかるのである。以前書いたように、データは関電・和歌山県が専管的に出してくるものだから、改ざんもし放題である。御用学者を子飼いにしているものであるから、芦田和男京都大学名誉教授などというエラそうな肩書を持った学者を証言台に立たせることができるし、その芦田からして自分で調査をするのではない。ニュージェックという関電の子会社のコンサルの書いた鑑定書の内容を上なぞりするように証言するのである。要するに権威づけである。裁判官は権威主義的だから、権威のみ見る。内容に関しては全く無知である。『科学技術とリスクの社会学』が長大な本になっているのは、こういった点を詳細に、具体的に明らかにして行ったからである。





 大体、裁判所の言語の使いからして汚い。水害訴訟であるから、被告側は河川水害訴訟で初めて最高裁が出した、大東水害判例を常に参照しながら判決を組み立ててくる。ここでは、この判決が、建設省の圧力を受けた最高裁事務総局民事部の会同(秘密会議)のもと、統制を受けた不当なものであるという事は措いておこう。




 問題にしたいのはその異様な文章の難解さである。要するに、「河川整備進捗率は100%でなくても、同じような河川と同等に進んでいればいいという事」なのだが、これを妙に長々と小難しく「説明」するのである。いわくつきでおかしな、あからさまに行政有利な判例だから、分かられたくないのである。そのくせして、法廷の証言台の上に置かれている宣誓文には中学生にも読めるように漢字にルビがふってある。こういう漢字が読めない人だっているのだ。そしてそういう人だって宣誓をする。法の客体になるのである。彼らにも判決は本来であるなら、分らなければならないはずである。だが、裁判所は分かられたいことは分からせるくせに、分かられたくないことは分かせないようにするのである。かくして本来、ある種の「正しさ」を生産するはずの裁判所は、科学・権力の伏魔殿となりはて、これを肯んじぬ気骨ある少数の法曹関係者によって辛うじて支えられている有様なのである。





 このような伏魔殿に「裁判で正直に話せば、裁判官もわかってくれる」とナイーブに信じる、愛すべき純朴な人々を引きずり出したらどんなことになるかはすぐに想像はつくであろう。私がフィールドに入ったころには、住民の皆さんは半ばあきらめ顔であった。長い訴訟で、ダムは発電を止めたし、水門が作られて、洪水は抑止されることになった。訴訟の勝ち負けはどうでもよくなっていたのである。それでも、第一次訴訟の控訴審で、充分に科学戦を戦い、関電・県の瑕疵をつまびらかにした後の敗訴の時には、住民の方々は大いに狼狽し、「一体なんでなんや!!」と訴え、それを説明するのに弁護士の方々も大変な思いをしたという。その弁護士さんからしてが手弁当で動いているというのだから、どうにも救いようがない。





 今まで、つらづらと議論をしてきたが、奥﨑謙三以外はこれと言って物理的暴力を使っていない。ダム水害は確かに物理的暴力であるが、このダムというものからしてが、総合土木の成果であり、くだんの殿山ダムも竣工時の1957年には最新の形態をした、アーチダムであった。いわば理性の産物なのである。そして私がやっている社会科学というものも、理性の産物であり、ここまでさんざんに問題点を指摘してきた法律というものも理性の産物である。これら理性の産物が「科学技術弱者」を「科学技術弱者」と勝手に名指し、彼らを法廷に引きずり出し、またそうでもしないと、危機的状況にある彼らを救うことができない。まさに、科学・権力=暴力のジャングルの中で危機にある人を救うためには科学・権力=暴力のジャングルをかき分け、まさにこの科学・権力=暴力を使うより他がないという救いようのない状況を招来しているのである。




 もともと、社会調査や文化人類学的研究にはある種の暴力的性格が潜んでいることについては早くから反省がなされていた。昔、宣教師たちが「未開の奥地」で宣教を行う。するとそこで見聞したことを、報告書にまとめ、本国に送る。すると本国からは軍人や移民たちが当該の「未開の奥地」にやってきてそこを植民地化することが円滑に行われる。それが宣教師たちの望むところであったか否かに関係なくである。時代が移り変わり、宣教師は文化人類学者や社会学者に、軍人や移民は開発系金融機関や総合商社、大手ディベロッパーに成り代わり、「開発」の名のもと、相変わらず、「未開の奥地」の植民地化が進んでいる。日本とて例外ではない。日本で本格的にフィールドワーク研究の研究手法を、日本人社会学者が学んだのは、戦争直後、GHQからであり、フィールドワークというのは、日本の占領政策を円滑に行うための手段として成長を遂げたという経緯がある。理性によって明らかにするということには、ある種の対象を征服し、服従させ、飼いならすという暴力的性格が潜んでいるのである。




 もとより私の著書『科学技術とリスクの社会学』のかような暴力的性格から完全に逃れている訳ではない。マスメディアの取材が「知る権利」を盾に取り、立場の弱い人々の生活圏に土足で入り込み、情報を掠め取っていく様は以前から批判されているところであるが、このような暴力性と似たものが私の著書にも潜んでいるし、あらゆるノンフィクションやルポルタージュに多かれ少なかれ潜んでいるのではないだろうか。



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