第九章 「天才」の帰還
永井博信は西日の差す放課後の廊下をゆっくりと歩いていた。通り過ぎる教室には人の気配がない。そのほうが好都合だった。四月に入ってからというもの、追いかけてくる女子の数がまた増えたようで永井は辟易していた。幸いなことに、永井博信はかつて所属していたあるクラブのおかげで、学校の廊下、階段、教室の配置を熟知していたので、人通りの最も少ないルートで教室に戻ることができた。
三年五組の教室も今日は珍しく誰もいなかった。五組は進学クラスの一つなので、放課後でも残って宿題や自分の勉強をしている生徒がよくいる。お互いに足りないところを補い、切磋琢磨する雰囲気が永井は好きだった。閑散とした教室を横切り、自分の席に座った。今日はどの部活からも特に助っ人を依頼されていないので、早く帰るつもりだ。
机の中に手を入れると、教科書とノート以外の何かが手に触れた。永井は盛大なため息をついた。今日はまた一段と多いらしい。永井はそれを一掴みにして一気に引き出した。やっぱり。封筒の大きさは様々だが、全部、永井宛てのファンレターだ。自分のいない間に次から次へと机の中に押し込まれて、いくつかは端がグシャッとつぶれていた。永井は一通も開かず、グッとカバンに押し込んだ。自分はアイドルじゃない。ファンレターを送りたけりゃ羽佐間にすればいいのに。だがそれはもうできない。
「そのせいか……」永井は小声でつぶやいた。そう、羽佐間にはもう送れないのだ。
今朝、新聞部の号外で羽佐間祥吾の生徒会長辞任が発表された。事実上の役職投げ出し。もともと優柔不断な奴だったが、これで学校中から決定的な不信を被り、今朝ファンクラブも解散した。副会長も同時に辞任、生徒会は大混乱だろう。そんなこと自分にはもう関係ないが、ファンレターが今日に限って普段の倍も来ている原因は特定できた。それにしても、ついさっきまでアイドル視していた男をあっさりと見限って、何ごともなかったかのように別の男に熱烈なファンレターを送るとは、女とは恐ろしい生き物だ……。
永井は気をとり直し、今度こそ教科書を片付けようと再び机の中に手を入れ、教科書とノートをまとめて取り出し、カバンに入れた。ふと、先にカバンに押し込んだ封筒の束に目が行った。けばけばしいピンク色や、くりくりした目のキャラクターが吐き気を催しそうな笑顔を振りまいている封筒に紛れて、無地の赤い封筒が一通あった。
この封筒を見るのは久しぶりだった。血のような真紅の封筒。宛名も差出人も、何も書かれていない。それはずいぶん前に永井自身も関わった取り決めの一つだった。
通称「赤紙」。クラブが緊急時に会員に送る召集令状だ。永井は椅子の背にもたれ、スラリとした足を組んだ。ゆっくりと封を開け、中の便箋を取り出した。正確には便箋ではなく、赤い画用紙である。
「今日 六時 部屋」
書き方も以前のまま。書く情報は必要最小限。日時と場所。「部屋」というのは、十五年前の校舎の大幅な建て替えの際に業者のミスでできてしまった秘密のスペースのことだ。聞いた話では、用務員の熊倉さんが学校側と業者の間に入って事態を収め、何かの時に使えるように、業者にドアを取り付けさせ、内装もほどこした上で密封したらしい。その「何かの時」は十年以上たってから訪れ、内海憲隆を頂点とする秘密結社「金曜クラブ」の本部として使われている。そこに今日これから来いという指令。
「なにやってんだよ……」
永井はため息をついた。それからすっと立ち上がり、そのまましばらく何ごとか考えていたが、意を決したかのように急ぎ足で教室を出ていった。
「金曜クラブ」の秘密本部では、麻生晴美、佐久間千鶴、古谷公平の幹部たちに野沢を加えた四人が待機していた(日高まさみは校外の料理教室で臨時講師を依頼され、「出張」しているらしい)。ひととおりの報告と情報交換がなされたあとは、四人とも押し黙っている。「貼り紙事件」の進展はいまだにない。明日から連休に入るというのに、事態が好転する気配はなかった。むしろ、羽佐間会長の突然の辞任で生徒会執行部が機能不全に陥り、押さえの利かなくなった各派閥は一触即発の状態だった。慣例によって麻生が臨時代理を務めているが、選挙を経た役員ではないために会長強権の発動はできない。麻生はクラブと生徒会の両方を立て直そうと、ある人物に協力を依頼することにした。クラブの呼び出し方法で連絡し、今はその到着を待っているところだった。
古谷が腕時計で時間を確認したちょうどそのとき、部屋のドアがノックされた。中の四人は一瞬、互いに目を見交わしたが、麻生が代表して返事をした。「どうぞ」。
入ってきたのは背の高い男子生徒だった。短髪で、きりっとした目元とすっと通った鼻筋。色白の肌が少し日に焼けていて、爽やかなスポーツマンという印象を与える。加えて校内トップクラスの学力。もうこれ以上何を望むのかという、天からすべてを与えられた男、永井博信である。
野沢は例によって永井博信の人となりを聡史に聞いていたが、そのときの反応は予想外なものだった。聡史は腕を組み眉間にしわを寄せ、珍しく難しい顔をした。
「んー、あんまり知らない。去年の秋まではバレー部でエースを張ってて、そのチームはインターハイも狙えるくらいだったらしいけど、突然辞めたんだって。理由がはっきりしないんだよね。成績はいつもトップ3に入ってるから早めの受験対策って言われてるけど、今でもいろんな部活で助っ人してるから、ちょっと信憑性に欠けるというか。ま、天才には天才なりの悩みがあるんじゃないの?」
「おひさしぶりね」麻生が話しかけたので、野沢も永井に注目した。永井はそれには答えず、部屋の中を見まわして幹部の顔を一人ひとり見たあと、野沢のところで視線が止まった。永井は野沢をじっと見た。思いがけず強烈な視線を向けられて、野沢は額に汗がにじむのを感じた。麻生が咳払いをし、佐久間が「とにかく、お掛けになっては?」と声を掛けたところで永井はようやく野沢から目を背け、すたすたと部屋の奥に向かい、一番奥にある一つだけ背もたれが高い椅子の左隣に座った。麻生の真向いだ。きっと最高幹部だった時の定位置なのだろう、と野沢は思った。
「何か用か?」永井はため息交じりに言った。
麻生と佐久間は互いに目を見交わした。古谷は静かに成り行きを見守っている。
「実は、お願いがあって……」と麻生が言いかけるのを、永井はさえぎった。
「ことわる」断固とした響きがあった。古谷の目がチラリと麻生に向いた。麻生は少しムッとしたようで、居住まいを正して改めて言った。
「永井くんの力を借りたいの」今度は単刀直入だった。
永井は麻生の目をじっと見た。麻生は珍しく頬を少し赤らめたが、永井が何も言わないので、再び咳払いをして話を続けた。
「言うまでもないけど、いまは学校の危機なのよ。黙って見過ごせないでしょう?」
永井はなおもしばらく黙っていたが、小さく息を吐きだし、麻生を憐れむような目で見ながら言った。
「クラブに戻るつもりはない」
麻生晴美にとってそれは想定内の反応だった。しかし、かつての同志であり、内海の親友であるはずの永井が、学校の危機に何の行動も起こさないことに無性に腹が立った。なんで? どうしてそんなに無関心でいられるの? 隣に座る佐久間も同じ思いのようだった。
「よろしければ、理由をお聞かせいただけますか?」いつもと変わらず丁寧な言葉づかいだったが、珍しいことにその口調には怒気がこもっていた。佐久間が怒りをあらわにしたことに永井も少し意表を突かれたらしかったが、すぐに落ち着いて応対した。
「もうタカと話し合ったことだ。いまさら……」
「私たちにもそれを聞く権利くらいはあると思います」いつになく激しい口調で佐久間が遮った。永井は気分を害した様子で、少しのあいだ佐久間にしかめっ面を向けていたが、大きく深呼吸をしてから話し出した。
「おれはもう、この学校に『クラブ』は必要ないと思ってる」
麻生は耳を疑った。必要ないですって? 隣の佐久間に目を向けると、こちらも目を見開いていた。
「おれたちが入学したころは確かに誰かが行動を起こす必要があった。でももう、今は平和なんだ。それなのにいまだに生徒会と『クラブ』の二重構造が残ったままだ。おかしいと思ったことはないのか? いつまでタカが仕切る? もう『クラブ』を作った当時の目的は達成されてるんだ」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ」麻生は論点がずれていると思った。「いま『クラブ』の存在意義の話は関係ないでしょ?」
「いや関係ある!」永井は声を張り上げながら立ち上がった。背が高いので麻生はのけぞるような格好になった。
「関係ないわけがない。去年おれが辞めた時にそのまま『クラブ』も解散してしまっていれば、滝口や青野が傷つくことは無かった。タカがいわれのない嘘で傷つけられることもなかった。放っておいた結果がこれなんだ!」
「どういう意味よ、それ」麻生は永井の言葉が信じられなかった。「じゃあ、あんたは、今回の事件は内海くんやわたしたちの自業自得って言いたいの?」
「そんなこと言ってない!」
「いいえ、言ってるわ!」麻生も立ち上がった。「『天才殿』はご存じないようだからこの際はっきり言いますけどね、あんたが出ていったとき、内海くんがどれだけ辛い思いをしたかわかってるの? 内海くんがどんなに悩んだか、一度でも考えてみたことあるの? 自分のことばっかり優先して、残された者の気持なんかあんたにはどうでもいいんでしょう? そういえば、『天才殿』はあのときエース張ってたバレー部もお辞めになりましたわね。全国大会出場間違いなしとまで言われたチームをあっさり見限って、今じゃ気の向くまま『助っ人』ですってね。なにが『助っ人』よ。『永井さん』『永井先輩』ってもてはやされて、さぞかし良い気分でしょうよ!」
永井の顔からさっと血の気が引いた。麻生は相手の痛いところを突いたとわかったが、一度しゃべりだすと今まで鬱積した感情が一気にあふれ出るのを止められなかった。佐久間と古谷の心配そうな目が自分に向けられているのがわかった。だが、この男には言わねばならないことがある。
「生徒会と『クラブ』の二重構造、そりゃいつかはなくさないといけないわ。でもわたしたちのボスである内海くんが、まだその時じゃないって判断したのよ。生徒会だってまだまだ組織や人員が整ってない。『クラブ』がサポートしてるから上手くいってるんじゃない」
「問題はそこじゃないんだ!」永井は一歩も引かなかった。「なんで『裏から』サポートする必要があるんだ。これだけ能力のあるヤツが揃ってるのに、どうして誰も生徒会の役員にならないんだ。表から堂々とやればそれで済むことじゃないか! おれたちはもう三年になった。隠れながらでないと何もできなかった一年のころとは違うんだ!」
「それだって何度も話し合ったことじゃない! 『生徒には皆それぞれ得意分野があるし、やりたいこともある。それでかまわないから、学校に平和を取り戻す力になってほしい』。内海くんはそう言って会員を集めたのよ。皆が皆、生徒会の役員になる必要なんかない。一度きりの高校生活をお互い悔いの無いようにするために、みんながそれぞれの立場から協力する、それがわたしたちの『金曜クラブ』よ。内海くんは敵対する連中の反感を全部自分の方へ向けて、わたしたちを守ってくれたんじゃない!」
麻生は永井を睨みつけていた。目には涙がたまっている。冷静沈着で聡明な麻生が取り乱すのを見て、野沢は唖然としていた。この場に自分がいることがまたもや信じられなくなり、「金曜クラブ」幹部たちのやり取りをただ黙って見守っていた。麻生の目に光るものを見て動揺したのは永井も同じらしく、言うべき言葉を探して一瞬、黙りこんでしまった。そこへ、今まで沈黙していた古谷が静かに発言した。
「永井の言いたいことはわかるよ」古谷は穏やかに、麻生を諭すように言った。麻生はゆっくりと椅子に座った。麻生が座るのを見届けてから古谷が続けた。「詳しくは知らないけど、永井がクラブを出ていったのもその辺の意見の違いが理由なんだろ? でも、内海くんはまだ解散すべき時ではないと判断した。だからおれたちは、お前が出て行ったあと、内海くんを支え続ける誓いをしたんだ。確かに学校は平和になった。でも、去年の時点でクラブを解散するわけにはいかなかった」
「野球部の残党がまだ卒業してなかったからか?」永井は立ったままだったが、声は落ち着きを取り戻していた。「でも生徒会が本来の権威を取り戻すためにも、野球部の扱いは生徒会に任せるべきだとおれは言ったんだ」
「でもな、永井。十二月の選挙に立候補したのは羽佐間だけだったんだ。あいつに全部任せるのはさすがに危険が大きすぎる。それは今回の件でもよくわかったじゃないか。内海くんの直感は結果として正しかった」
佐久間が小さく息を吐き出しながら言った。
「内海くんは悩んでいました。年明けからずっと『クラブ』の存続について考えていらっしゃいましたが、結論を出す前にこんなことになってしまって……」
全員が黙り込んだ。聞こえるのは麻生が小さく鼻をすする音だけだった。
永井は椅子に座り直し、目をつぶって大きく深呼吸した。
「なあ、麻生……」
静かに涙を流したままだった麻生は目をぬぐい、呼びかけた相手を見た。
「おれがバレーをやめたのは嫌になったからじゃない。夏の大会で肩の関節を痛めた。もうバレーはできない。ほかのスポーツも長い時間はできないんだ」
永井の顔は苦渋で歪んでいた。大好きなスポーツが思う存分できなくなる気持ちはインドアな野沢には分りかねたが、それでも永井の辛さは伝わってきた。ふと、聡史の言葉が頭をよぎった。「天才には天才なりの悩みがあるんじゃないの?」野沢が他の面々を見ると、全員が一様に驚いた顔をしていた。
「それは……初めて聞いたな……」古谷がゆっくりと言った。
「おれが黙っててくれって頼んだからな。知ってるのはバレー部の中でも顧問とレギュラーだけだ。みんな良いヤツらだ。でもタカには話した。それで、おれなりにこの学校に貢献する方法を考えた。それが助っ人だ。」
幹部の三人は神妙な面持ちで耳を傾けていた。永井が続けた。
「でも今日ここへきて、今おれがすべきことが分かった」それを聞いた麻生の左の眉がピクリと上がった。
「どうするつもりよ?」
永井は一呼吸おいて、衝撃的な発言をした。
「おれは次の会長選挙に出る」




