序章
夕暮れ時、それぞれの部活動がそろそろ終わろうかという頃、暗い廊下の片隅にある一室で、二人の生徒が低い声で話をしていた。
部屋の真ん中で直立して、ずいぶんと緊張した様子で何ごとか話をしている男子が一人。額には冷や汗がにじんでいた。彼は合唱部の副部長だ。その向かいで椅子に座っている、メガネをかけた少し太めの男子。髪の毛は軽いくせ毛でウェーブがかかっている。目を閉じて、少し眉をひそめながら、向かいの男子の話に耳を傾けていた。
「……というわけで、次の生徒総会でぜひとも、わが合唱部の予算を増やしてもらえれば、と……」
合唱部副部長が話し終えると、部屋の中に静寂が訪れた。外から野球部の掛け声と、金属バットの無機質な音が聞こえてきた。
椅子に座っている男子、「帝王」内海憲隆は微動だにしない。
居心地の悪い静寂。
沈黙に耐え切れなくなり、副部長が何か言おうと口を開いた瞬間、内海が目を開けた。副部長は慌てて口をつぐんだ。
「それはできないな」
「えっ……」
副部長が二の句を告げないでいるうちに、内海が話を続けた。
「君に言っておくべきことは二つ。一つ、ぼくはただの放送部の部長だ。ほかの部の予算をどうこうするなんて、ぼくにはできない」
内海はここで一呼吸置いた。
「二つ、各部活の予算は生徒会が管理している。そういったことを訴えていく場はここではなく、生徒会だ」
副部長は自分の心臓の鼓動が高まるのを感じた。話が違う。
いまの生徒会がお飾りに過ぎないというのは、この学校では公然の秘密だ。合唱部の部長の話によれば、内海こそ、この桜木高校を裏で取り仕切るボスなのだ。だからこそ、わがままな部長の代わりに自分がこうして「陳情」に来ているのだ。
副部長は意を決して口を開いた。
「いや、でも……」
内海がそれをさえぎった。
「ただし」内海は副部長の目をじっと見据えながら言った。「合唱部とは長い付き合いだ。友人としてなら、聞ける頼みもある」
一瞬、副部長と内海は見つめ合った。
「それは、その、どういう……」
内海は目をそらして立ち上がった。副部長は思わず一歩あとずさった。内海はそんなことには頓着せず、そのまま窓のほうへ歩いた。外はもうほとんど暮れかかっていた。
「噂は聞いている。合唱部のいまの部長はとてもわがままだそうだ。独断専行。今日だって、部活の予算にかかわるような大事な話なのに、部の代表者が自ら来ずにほかの生徒に任せるなんていうのは、普通はあり得ない。前回の生徒総会でも、事前の相談もせずに勝手な主張ばかりしていたね……」
内海は窓を見つめながら言った。
「文化部は足並みをそろえなくてはいけない」
もう暗いので外は見えない。窓は校庭ではなく、鏡のように部屋の中を映していた。内海の目は窓に映った副部長の怯えた顔を見据えていた。
「まず、君たちで部の整理をすることだ」
口調はあくまでも柔らかだったが、それは命令だった。
合唱部の現部長を、即刻クビにせよ。
「わ、わかりました……」副部長が深々と頭を下げた。
「よろしい」内海はくるりと振り返り、にこやかに言った。今度は部屋の出口に歩み寄っていった。
「いつかぼくが、君たちの力を借りなければいけない時が来るかもしれない。そのときまでは……」
内海は部屋のドアを開け、副部長に退室を促した。
「ぼくに借りができたなんて、思う必要はないからね」
合唱部の副部長は逃げるように部屋を出ていった。
合唱部の副部長が、わき目も振らずほとんど逃げるように走り去ったあと、入れ替わりに女子生徒が一人、部屋に入ってきた。ショートボブの髪型で眼鏡をかけている。生徒会事務局の次長、麻生晴美である。
「何がお望みだったの?」きびきびした口調だ。
内海はまた窓の外を見ていた。しばらく黙っていたが、やがて麻生のほうへ向きなおりながら言った。
「合唱部の予算を二割増し。それから、部長が交代するからその手続きの準備も」
「了解」麻生は間髪を入れずに応じた。
「それと……」きびすを返して出ていこうとする麻生を引き留めるように、内海が言った。
「青野くんに見張らせて報告を受けるように。彼が約束を反故にするとは思わないけど。ただ彼らは、ぼくらに頼めば何でもできると思い違いをしているようだから」内海はため息をついた。
麻生が出ていき、ドアが閉まった。部屋には再び静寂が訪れた。屋外の部活も完全に終了したらしい。校庭の木々が風に揺れてザワザワと音を立てた。廊下にも人の気配がなく、校舎はしんと静まり返っていた。
「潮時かな……」内海がポツリとつぶやいた。
三月。校庭の桜の木々のつぼみがふくらみ始めた、ある肌寒い日のことだった。




