18.優しいあなた(4)
早く家に着いて欲しい。
いつもだったら鼻で笑う立場だったが、今だけは文月を馬鹿に出来ない。
本気で“どこでもドア”が欲しい
「祥子、足痛くない?大丈夫?」
「え、ええ…」
顔が近い。こっちを向かないで
肩越しに振り返った彼を、祥子は真っ赤な顔で見下ろしていた。
なぜ見下ろしているのかという疑問に対する答えは単純明快。
彼におんぶされているからだ。
体が密着し過ぎていて落ち着かない
彼の首に回した手の行き場をどうしたものかと持て余す。ひとまず彼がシャツの上に羽織っているカーディガンでも掴んでおこう。
「ごめん。ちょっと揺らすね、っと――」
抱えなおす振動にいちいち身を硬くしてしまう。
負ぶわれている立場で動くなとも言えないし、耐えるしかない。
「ごめんなさい。私、重いでしょう…」
「重くなんかないよ。むしろ軽すぎるっていうか……もっと食べた方がいいんじゃない?」
肉料理のレパートリーも増やさないとなぁ、と1人ぼやく彼。実の母親より母親らしいと祥子は思った。
「私は胃が小さいの。それに、あなたが作ってくれているおかげで栄養も偏っていないから十分健康的よ」
「んー、そうだね。思ってたよりも大きくて柔らかいし…」
「は?」
何の話をしているのだろうか
「あっ…いや、気にしないで。うん」
歯切れの悪い彼の耳は赤い。
祥子は頭に浮かんだ疑問を反芻した。
そういえば先日、休憩中に文月がこんな事を言っていた気がする。
『男の人におんぶしてもらう時は気をつけた方が良いですよ。この前、私酔っ払って優紀に寝室まで運んでもらったんですけど――』
その後に出てきた言葉が衝撃的で、思わず文月の口を手で塞いでしまった。
まずい。すっかり失念していた
文月の夫と彼が同類なのかは分からないが男であることに違いはない。こうして照れている分、彼の方がまだ無害そうだが。
『見事に喰われました』
やっぱ三次元でも起こりうるんですねぇ、としみじみしている文月を呆れた目で見ていた自分が恨めしい。
「祥子、階段上るからじっとしてて」
あれこれと悩んでいるうちに、彼は軽々と階段に足を乗せていく。
夜遅いこともあってアパートの住民と出くわさなかったことがせめてもの救いだ。
祥子を背負ったまま、自分専用のスペアキーをカーディガンのポケットから取り出し、鍵を開ける。
玄関に入った彼は感慨深げに「…ただいま」と呟いた。
もうこの部屋に帰ってこれないのではないかと、思っていたのだろう。
彼の目に映るもの全てが、かけがえのない大切なもの。
でも彼にとって一番大切で、何よりも守りたかったのは――
「おかえりなさい」
彼は後ろから掛けられた優しく甘い響きに酔いしれた。
その場で背負っている祥子を押し倒してしまいたい衝動に駆られたが、怪我をしている彼女に理性が勝った。
「取りあえず、ソファに座らせるよ。何かして欲しいことあったら何でも言って」
居間の電気を点けた彼はそう言って祥子をソファに下ろし、キッチンに向かう。
ヤカンに水を汲み、火にかけて戻ってきた彼は祥子の隣に腰掛けた。
唐突に会話が無くなる。
祥子は膝の上に置いた手を弄び始めた。
何か言わなければいけない
けれど何を言えばいいものなのだろうか
下手なことを口にしたら余計気まずくなるし
……どうすればいいのかしら
悶々と脳内で会議を行なっていた祥子はふと、距離を取って座っている彼の右手が、自分の太ももに触れるか触れないかの位置にあることに気づいた。
ちらりと彼を伺うと、ただ前を見ているだけだ。
無意識?というより無自覚?
変に意識するのもひとりで舞い上がっているみたいで恥ずかしい
でも――
じっとその手を見つめていた祥子は彼が抱えている不安と寂しさを垣間見たように思え、自らの左手を重ねた。
彼は驚くこともなくその温もりを握り返す。
自然と指を絡めあう繋ぎ方になり、どちらからともなく目を合わせる。
この流れは果たしてどうなるのだろうか
恋愛初心者の私には予測不可能すぎる
行く末を想像してガチガチに固まっている祥子に彼は口元を緩める。
「祥子は面白いほど分かりやすいよね」
「…英、あなた私を馬鹿にしてるでしょ」
「してないよ。そういう所も可愛くて好きだなぁって思っただけ」
直球で返ってきた言葉と、はにかんだ笑顔に射抜かれた。
卑怯だわ。純粋さも度を越すと凶器だ
「そんなに怖がらないで。祥子が嫌がることは絶対しないから。そばにいられるだけで、それだけでいいんだ」
それでも少し淋しそうに微笑んでいた彼に、祥子は頷くことしかできなかった。
本当にそれだけでいいの?
そう尋ねたら、結果的に彼を困らせると分かっていたから
次は初デートの予定です。ただの散歩じゃありませんよ。ええ。




