18.優しいあなた(2)
緊迫した空気の中、颯爽と現れたオーナーは持っていたタオルを明るい茶色の頭に叩きつけて後ろに押しのける。
「な…!」
憤りを含んだ灰色の瞳を無視して、麗菜に笑顔で会釈した。
「申し訳ありません。すぐに片付けさせますから」
くるりと彼の方に振り返った琳は笑みを崩さないまま
「仔猫ちゃんを更衣室に連れて行け。そのまま放置しておくつもりか?」
反論の余地も与えない眼差しの鋭さに彼は口を引き結び、椅子に座っている祥子を抱き上げた。
「……すいません」
彼は琳に詫び、厨房の奥へと歩き出す。神城がその後に付き添う。
厨房の横の通路を通り向けた休憩室に行くと、ちょうど管理室から出てきたオーナーの姉である蘭と鉢合わせた。
蘭は彼と、彼が抱えている祥子を一瞥して目を細める。
何も言わずに横を通り過ぎる蘭を目の端で見送った彼は更衣室のドアを開けた神城に氷嚢を頼んだ。
「私の大事なギャルソンに水をぶっかけたのは、どこの糞女かしら?」
冷ややかに落とされた声を背に受け、彼は休憩室へと入っていった。
彼は棚にあった救急箱から湿布を取り出し、パイプ椅子に座っている祥子の足元に片膝をついて屈んだ。
見ていて痛々しい患部に触れると、祥子は襲い来る痛みを我慢して拳を握った。
湿布を貼り終え、神城が持ってきた氷嚢をあてる。強張っていた表情がわずかに和らいだ。
「ごめん。俺の所為で、こんな目に遭わせて…」
後悔と自責を織り交ぜて呟いた彼は顔を上げる。黒みがかった灰色の瞳が惑うように揺れている。
祥子は彼の肩にずり落ちてしまっているタオルを取り、頭に被せて拭いてやる。
「あなたは何も悪くないわ。足を挫いたのは私の不注意だし、彼女を怒らせたのも私なんだから」
アパートにやって来た麗菜に話があると言われ、彼が働くこの店にまでついてきた。
店の中に入って早々、他の客たちがいる前で祥子は派手に転んだ。麗菜に足を引っ掛けられたのだ。
離れた所で一部始終を見ていた神城は素早く祥子を助け起こし、麗菜に何か言おうとした。だが、祥子に止められて渋々と引き下がった。
『踵の低いパンプスを履いて来て良かったわ』
麗菜がわざと足を出したことには気づいていた。それでも祥子は何も言わなかった。
その時から既に麗菜は苛立っていたのだろう。
祥子が麗菜といることを神城に知らされた彼は焦りの表情を浮かべ、もどかしげに様子を伺っていた。
注文を受け付ける間にも、頻繁にこちらに視線を向ける。祥子は仕事に集中できないのではないかと思い、気にしないでと伝えるために顔を彼の方に一瞬だけ向けた。
その短い間に、麗菜は見つけてしまった。
肩で切りそろえられた黒髪に隠されていた首筋に薄い赤色の痕が刻まれているのを。
『――庶民の分際で秋様に媚を売るだなんて、汚らわしい!』
麗菜は激情のまま手元にある水が入ったグラスを掴み、祥子目掛けて腕を振る。
周囲の客が驚愕と悲鳴の声を上げた。
ぎゅっと目を瞑った祥子は予想していた冷たさとは程遠い温もりに包まれて目を開ける。
祥子には、一滴の水もかかっていなかった。
「守ってくれてありがとう、英」
柔らかい茶色の髪の水気を取りつつ、祥子は感謝の意を述べた。
彼はまた黙り込んでしまう。
誰よりも優しいあなた
きっと自分を責めている
「前にもこういうことがあったわね。覚えてる?あの時は二人ともずぶ濡れだったけど、今度はあなたが風邪を引きそうね」
からかうように言った祥子に彼が恐る恐る目線を上げて見つめる。
私は大丈夫だから
そんな顔をしないで
「もし風邪を引いたら、学校を休んで看病してあげるわ」
こんなこと言って、教師失格ね
…でも教師である前に私はただの人でありたい
あなたを好きで、大切に想う、ただひとりの人間として
彼は泣きそうな顔をした。辛くて痛いからではなく、嬉しくて切ないから。
「祥子――」
パイプ椅子が軋んだ音を上げた。腰を上げた彼は背もたれに手を置き、もう一方の手を頼りなく華奢な肩に添えていた。
捻挫をした足に障らないよう気を配って、目を閉じた彼はじっと待つ祥子の艶やかな唇に、自らの唇を這わせる。
「んっ…」
上唇を吸い上げ、俯いている祥子の顔を上向かせ、頬にかかっていた髪を耳にかける。
露になった白い首筋を飾る痕に目をやり、彼は耳のつけ際に熱い口づけを繰り出す。
頬を上気させながらも自分にしがみついている祥子を、彼はこの上なく愛しいと思った。ずっと離したくないと思った。
突如、閉じられた休憩室のドアの向こうが騒々しくなりだした。
月島家について
姉の蘭は経営管理者、弟の琳は店内装飾・レシピ考案・調理補佐、父は料理長を務める。
母は現役の弁護士で、旧姓は天月。
神城家とは家族ぐるみで仲が良い。




