9.その猫、騎士(1)
猫と騎士というと、長靴をはいたネコが頭に浮かんでくるmiaです。
祥子は高校からアパートに帰る前にスーパーに立ち寄って買い物をしていた。
ペット用品コーナーで英の餌を購入し、自分の食事の分を適当にカゴに入れてレジに向かう。
「自転車で来れば楽だったわ…」
街灯で照らされた灰色の道をひとり歩く祥子は呟いた。
買い物袋が結構な重さになっているのだ。
それに加えて鞄の中には教材やら資料が入っている。
スーパーに寄る日はいつも自転車で通勤するのだが、今朝は雨が降っていたため断念した。
今はもう雨が止んでおり、明日は晴れだというので傘は職場に置いてきた。
鞄の紐を肩に掛け直して足を進める。
華里大学付属高校から祥子のアパートまではそんなに遠くはない。
しかしスーパーに行くとなると遠回りをしなければならないため30分もかかる。
まあ仕方ない、と祥子は自宅を目指す。こういうことはよくあるものだ。
だがこの日は、いつもと違うことが起きた。
祥子がそのことに気づいたのは人通りの少ない道に入ってしばらく経った時のことだ。
…誰かに後をつけられている
気のせいではない。試しに鞄の中の携帯を取る振りをして立ち止まると、後ろから聞こえていた足音もピタリと止んだ。
静まった空間に冷や汗が流れる。
鞄の紐をきつく握り締め、なるべく自然を装って足を速める。安易に携帯は使えない。
ヒールが地面を叩く音に続き、後を追うように響く足音。
誰、誰なの…?
背筋が凍る感覚に、祥子はぞっと震え上がった。
早く、早く帰らなきゃ…
見慣れた建物の、ある部屋の窓を目にした瞬間、彼の顔が頭に浮かんだ。
どうして英ではなく、彼だったのかは分からない。
もう耐えられなくなって駆け出した祥子に、足音も速さを増して追ってくる。
嫌、ついて来ないで!
恐怖に顔を引きつらせた祥子はアパートのエントランスに入り、階段を駆け上がる。
――足音が耳にこびりついて離れない
震える手で鍵を差し込むが、上手く行かない。
気になって何度も何度も背後を振り返る。
「いやっ…!」
祥子は鍵を握った拳でドアを思い切り叩いた。
お願い、開けて!
祥子の悲痛な心の叫びが届いたのだろうか。ガチャリ、と音がした。
「どうしたの祥子。鍵失くしちゃった?」
いつもの服装に濃い茶色のシューズを履き、不思議そうな顔をして現れた彼に、祥子は持っていた荷物を玄関に落として体当たりする勢いで抱きつく。
「えっ、何……祥子?」
驚きの声を上げた彼は祥子の様子がおかしいことにすぐ気づいた。
背中に手を回してシャツを強く握る祥子を、彼は躊躇うことなく抱き締め返す。
「何があったの?」
優しく頭を撫でてくる彼の手に祥子は肩の力を抜いた。
「分からないの……誰かに、つけられて…」
「つけられた?」
すうっと彼の周りの空気が冷たいものに変わった。
「ちょっと見てくる」
「待って!」
鋭い制止に、彼はドアを開けかけていた手を止めてぱっと振り向く。
「祥子……」
スカートを皺がつくくらい握る白い手。その手は絶えず震えていた。
俯いたままの祥子が小さく口を動かした。
声には出さず、息だけを吐き出して
〈いかないで〉
彼が何も言わずに頼りない肩を引き寄せると祥子は弾かれたように顔を上げた。
今にも泣き出しそうに潤んだ瞳で彼を見る。
「どこにも行かない。ここにいるから、安心して」
そう言って彼は優しく微笑み、自分よりも低い位置にある祥子の頭を抱えて胸に引き寄せた。
「祥子のそばにいる」
ぽんぽんと頭を軽く叩かれる。
そんな彼を祥子は突き放さなかった。遠慮がちに伸ばされた祥子の手は彼の腰の辺りを彷徨い、やがて裾の部分をきゅっと掴んだ。
「ありがとう……」
ぽつりと落とされた感謝の言葉を、彼は静かに受け止めた。
警察に知らせるべきだという彼の意見に祥子は賛成しなかった。
何の証拠も無く被害を訴え出て、きちんと受理されることは困難だと思ったからだ。
『心配要らないわ。たまたま通りかかったからなのかもしれないし。大丈夫よ』
翌朝、玄関で祥子はそう言っていつも通りの時間に仕事に行った。
閉じられたドアをじっと見ていた彼は、祥子を見送った時の笑みを打ち消していた。
「――掃除しないと、ね」
今から家事をしようというには相応しくない、冷ややかな呟きが彼の唇から零れた。
……私の脳内では何が起きてるんでしょうか。ご勘弁を。




