7.癒してあげる(3)
彼に何かさせよう、何かさせようと考えていたら思っていたよりも長くなりました。結果、とんでもないことになりましたが。
色々大丈夫かな、これ…。
祥子は息を潜めている。
脱衣所に行き、風呂場の扉が少し開いたままであることに気づく。
落ち着かなくて視線を巡らせていると、浴室から――
「にやっ…!」
え?
今のはどう考えても猫の鳴き声だ。
しかも焦りを帯びたもの。
まさか…!
「英!?」
祥子は僅かに開いていた扉を素早く開けた。
そこで目にしたのは――
「……何をしているの」
「……にゃぁ」
英は項垂れていた。
泡だらけの桶の中で。
祥子は持っていたタオルを洗濯機の上に置き、浴室のタイルに足を着けてしゃがみ込んだ。
鼻の先に泡が乗っているのを指で掬い取ってやると、灰色の瞳がすがる様に見つめてきた。
これはつまり…
彼でなく英が独りで身体を洗っていたということ
「お風呂、使っていいって言ったわよね?猫のままで洗えるわけないって分かるでしょう?」
「…にゃ」
弱々しく応える英はすまなさそうに顔を落とす。
これは彼なりにペットとしての立場を考えての結果なのだろうか
…しょうがないわね
祥子は軽く息をついて寝巻きの裾を折り返し、タイルに膝をついた。
しょんぼりしている英の頭の後ろを泡立てながら揉み込む。
「にゃっ?」
「大人しく洗われてなさい」
さほど時間も掛けずに体全体を洗い終わり、シャワーで泡をすすぎ落とす。
その間、英は気持ちよさげに目を細めていた。
彼がお風呂に入ろうとしないんだから仕方ないのよ
そう自分に言い聞かせながら、祥子はあまり意識しないように努める。
「はい。終わったわよ」
桶の中に、濡れそぼった英が座っている。
拭いてあげないと
先ほど自分が持っていたタオルを取ろうと立ち上がりかけた祥子だったが、身を震わせた英に水を掛けられてしまった。
「もう…」
運悪く水滴が目の中に入り、こすると別の違和感を感じた。
「…やだ、まつげが入ったのかしら」
更にごしごし擦っていると――
「祥子、大丈夫?」
……え?
顎を掴まれてぐいっと上に向かされる。
その先には、黒いというよりは灰色がかった瞳が間近にあった。
「うーん、何も無いみたい。きっと擦りすぎたから痛くなったんだよ」
真剣な表情で祥子の目を覗き込んでいた彼は、ほっと一息ついて
「ごめんね。水飛ばしちゃって」
謝りながら祥子の乱れた前髪を整える。
祥子が銅像のごとく膝立ちの体勢で固まっていることに気づいていない。
近い!
「は、離して!」
ようやく起動回復した祥子が、まだ掴まれている顎を振り払おうとすると
「動かない方が良いよ」
今度は両頬を大きな手で挟み込まれて動きを阻まれた。
「何するのよ、離してってば…!」
腕を掴んで引き離そうとする祥子に、彼は困ったように笑う。
「別に俺は見られても構わないんだけど…」
何の話?
眉間に皺を寄せた祥子は、彼が下を見せないようにしている理由にようやく気づいた。
彼は何も身につけていないのだ。
明るい茶色の髪から滴り落ちた雫が彼の首筋を辿り、綺麗な形の鎖骨に流れ落ちる。
そして服の上からでは見えなかった、予想以上に男らしい逞しさのある胸元が――
駄目!見ちゃ駄目だわ!
「だから動かない方が良いって言ってるのに」
顔を真っ赤にして目線を天井に向けた祥子を、彼は少し笑って見ていた。
笑いごとじゃないでしょ!
「どうして何も着ていないのよ!服は!?」
浴室に思いの外反響した自分の声に慌てて口を噤む。
彼はそんな祥子を可笑しそうに見つめていた。
「上手く説明は出来ないんだけど、意識の違いっていうのかな?風呂に入る時に服を着たままなのは気持ち悪いから、俺の意識の中では脱いでるんだよね。そのままの気持ちで人間になると――」
「…何も着ていない、ということね」
「その通り。風呂以外で全裸になることは無いから安心して」
爽やかな笑みで言われたが、祥子は顔を引きつらせるしかない。
今自分が置かれている状況を深く考えないように、祥子は別の質問を投げ掛ける。
「だったら着ている服はどうしているの?あなた洗濯機も使ってないでしょう?」
「洗ってるよ、ちゃんと。祥子が仕事でいない時に手洗いしてるから」
手洗いって…
それに服を乾かしているということは、その間の彼は……
「裸のままで部屋をうろついたりはしてないよ。猫に戻ってる」
祥子の心を見透かしたように、彼が言った。
「そ、そう」
何か不埒なことを考えていたと思われているみたいだ
居たたまれなくなった祥子は視線を落としかけて、直前で止める。
彼が全裸の状態だと、改めて脳に情報を送りなおしてしまった。
「そこの洗濯機の上にタオルがあるわ!か、隠して!」
指さす方を見た彼は開けたままの浴室の扉の向こうにあるタオルを見つけたようだが、気まずそうにしたまま動こうとしない。
「早くしてってば!」
「いや…祥子が目を開けてる限り、俺立てないよ」
確かにそうだ
顔から火が吹き出るとはこのことだ。
「こ、これでいいんでしょ…?」
ぎゅっと目を閉じた祥子だが、彼はまだ手を離さない。
「何をして…」
目を開けた祥子は思わず言葉を失う。
…どうして、そんな悲しそうな顔をしているのよ
「…ごめん。普通のペットじゃなくて」
ひどく落ち込んだ声色の彼。
初めて見せる顔をしていた。
彼はあくまでペットであろうとしている
だったら私も――
「明日からは私が洗うわ。飼い主として、当然の事なんだから」
祥子は思わず、そう口に出していた。
驚いた顔で祥子を見た彼は「…本当に?」と遠慮がちに尋ねる。
「ええ。でも勘違いしないでちょうだい。私は“あなた”でなく、“英”を洗うのよ」
つっけんどんに言った祥子だが、彼を取り巻く空気が柔らかなものに変わったことに心の中で安堵する。
気が緩んで逸らしていた視線を彼に向けると――
「……駄目、見ないで」
彼の手に目を覆われてしまった。
「戻るから、そのまま目を閉じてて」
どこか上擦った声の彼に疑問を抱きつつも、祥子は大人しく従う。
目を閉じた祥子から手を離した彼は前髪をかき上げて息をついた。
立ち上がって脱衣所にあるタオルに手を伸ばす。
彼の目元が赤く染まっていたのは、湯気の所為かそれとも――。
「にゃあ」
聞こえた鳴き声に、祥子は目をそっと開ける。
目の前には、頭からタオルを被った英がいた。
英の謎が更に深まってしまいました。墓穴ほりました。




