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続・帝國連合艦隊〜世界最終戦争〜  作者: 007


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軍縮下の軍事力

『1947年、大東亜共栄圏の設立と東西冷戦の幕開けを迎えた頃、大日本帝国海軍は第二次世界大戦終結後の大規模軍縮の影響を最も直接的に受けていた。山本五十六総理大臣兼海軍大臣が主導した軍縮方針は、帝国の国力を経済復興へと集中させるための大胆な選択であったが、帝國連合艦隊の戦力再編成は決して単なる縮小ではなかった。表向きの[平和の軍縮]の裏で、質的向上と次世代への備えが着実に進められていたのである。

まず空母戦力である。第二次世界大戦の最大の功労者たる空母群も、その膨大な規模から大幅な整理を余儀なくされた。正規空母長門級(長門・陸奥)、金剛級(金剛・榛名・比叡・霧島)、赤城級(赤城・加賀)、蒼龍級(蒼龍・飛龍)、大鷹級(大鷹・沖鷹・神鷹・隼鷹・龍鷹・千鷹)の全艦が予備役に編入された。また正規空母扶桑級(扶桑・山城・伊勢・日向)は戦没しており、金剛級は戦時中から既に予備役となっていた。これにより帝國連合艦隊の主力空母は以下の27隻だけに集約された。

超弩級空母大和級3隻(大和・武蔵・信濃)

重装甲空母秋津洲1隻

正規空母雲龍級10隻(雲龍・海龍・天龍・神龍・轟龍・雷龍・地龍・黒龍・昇龍・赤龍)

軽空母千歳級10隻(千歳・千代田・姫路・神戸・仙台・函館・高松・下関・大分・博多)

超弩級空母大鳳級3隻(大鳳・神鳳・天鳳)

[だけ]と表現するにはあまりにも強大な戦力であった。超弩級空母6隻を中核に据え、依然として世界最強の空母艦隊を維持していたのである。水面下では、既に原子力推進艦の研究が密かに開始されていた。

次に巡洋艦戦力である。戦時中に活躍した旧型艦——重巡洋艦愛宕級、妙高級、青葉級、軽巡洋艦名取級、北上級——は予備役に編入された。一方、戦時急速建造計画で量産された艦級等は以下のように維持され、戦後すぐにミサイル巡洋艦への統一改装が進められた。

重巡洋艦黒姫級20隻

軽巡洋艦音羽級30隻

重巡洋艦翔鶴級23隻

軽巡洋艦阿賀野級26隻

これにより巡洋艦は約99隻の現役戦力を保持し、対空・対艦ミサイルを主力兵器とした[浮かぶミサイルプラットフォーム]へと進化を遂げた。

駆逐艦戦力も同様の再編が行われた。旧型の陽炎級、朝潮級、白露級、初春級、吹雪級、睦月級は予備役に編入。一方、戦時量産型の松級(60隻以上)と秋月級(約35隻)は現役を維持し、約95〜100隻の強力な水雷戦隊を形成した。これらは防空・対潜・護衛任務の要として、近代化改装(ミサイル搭載、レーダー強化など)が重点的に施された。

そして、唯一軍縮の影響をほとんど受けなかったのが潜水艦戦力であった。戦前建造の伊400級潜水艦80隻は全艦現役のまま維持された。全長125メートル、最大幅12メートルの巨艦は、第二次世界大戦中に全艦が43式弾道弾6発搭載の改装を受け、世界初の戦略型潜水艦として位置づけられた。核時代における最強の抑止力として、帝国の海洋戦略の要石となったのである。

この大規模軍縮と再編成は、帝国海軍の[量から質への転換]を象徴するものであった。表向きは多数の艦艇が予備役旗を掲げ、軍港は静けさに包まれたが、水面下では新型兵器開発と既存艦の近代化が着実に進行していた。経済成長の果実を背景に、帝國連合艦隊は冷戦の長期化を見据えた[静かなる再武装]を始めていたのである。


大日本帝国陸軍も海軍と同様に大規模軍縮の波を受けた。第二次世界大戦中、帝国陸軍は総勢126 個師団(機械化歩兵師団80個、機甲師団40個、空挺師団5個、近衛師団1個)を擁する、文字通りの世界最強クラスの陸上戦力を有していた。しかし戦後復興と経済優先政策により、軍事予算の大幅削減は避けられなかった。

軍縮方針の下、陸軍は大胆な再編成を実施した。総師団数を33個師団(機械化歩兵師団20個、機甲師団10個、空挺師団2個、近衛師団1個)にまで圧縮したのである。これは戦時規模の約4分の1という大幅削減であったが、単なる人員整理ではなかった。戦時改革で培われた機械化・近代化の成果を集中させ、質的向上を図るための戦略的再編であった。

特に機甲師団は軍縮の影響を逆に活かし、戦力の集中と近代化を加速させた。全10個師団に配備された主力戦車は、四式重戦車に統一された。この戦車は全長10.45メートル、全幅3.42メートル、最大速度55キロ、武装として120ミリ砲1門と8ミリ機銃2門を有し、最大装甲厚160ミリ、乗員4名というスペックを誇る。

四式重戦車は、大日本帝国陸軍がロシア人技術者と協同開発し、第二次世界大戦末期に投入した新型重戦車である。特筆すべきはその主砲で、砲兵装備の120ミリ榴弾砲を改造して採用した。これにより50口径120ミリ砲は、従来の三式重戦車の最大装甲厚170ミリをも貫通可能な絶大な破壊力を発揮した。装甲厚は三式の170ミリから160ミリに10ミリ薄くなったが、これは戦訓を活かした避弾経始形状の最適化によるもので、過剰装甲を削減しつつ防御力を維持した結果であった。

さらに800馬力の新型エンジンを搭載し、戦車重量を50トンに抑えたことで機動性も大幅に向上。海軍の艦載型10センチ両用砲と同様の射撃指揮装置を装備したことで、射撃精度は従来の戦車砲を格段に上回った。走攻守のバランスが極めて高く、戦車兵からは[理想的な重戦車]と称賛された。

戦後現在、四式重戦車の後継となる新型主力戦車の開発が進められているが、その完成度の高さから「大日本帝国陸軍の四式重戦車を事実上世界初の主力戦車と呼ぶ場合もある」と評価されるに至っている。軍縮により師団数は大幅に減少したものの、1個師団あたりの戦闘力は逆に戦時を上回るレベルにまで向上したのである。

機械化歩兵師団と空挺師団も同様に、装備の近代化と精鋭化が図られた。旧式装備の整理と最新車輌への更新により、少ない兵力で高い機動性と打撃力を発揮できる体制が整えられた。

また近衛師団はこの大規模軍縮により廃止が検討されたが、『世界に冠たる立憲君主制国家に近衛師団が存在しないのは問題』となり廃止は撤回された。だが第二次世界大戦時までよりも『儀仗部隊』としての面が強調され、戦場には投入する事が無い宮城固定配備部隊とされた。




第二次世界大戦終結後の大規模軍縮において、最も画期的な成果の一つが空軍の独立・設立であった。従来、大日本帝国では陸軍航空隊と海軍航空隊がそれぞれ独自に運用されており、基地・整備・指揮系統の重複が軍事予算の無駄を生んでいた。戦後復興と経済優先政策の下で予算が大幅に削減される中、この非効率を解消するため、1946年から1947年にかけて陸海軍航空隊の全面的統合が断行された。こうして新たに誕生したのが大日本帝国空軍である。

空軍の設立は、単なる組織再編ではなく、近代戦における航空優勢の重要性を象徴するものであった。軍縮により総兵力は大幅に削減されたが、逆に装備の集中と近代化が加速し、質的飛躍を遂げた。

空軍の主力は何といっても戦略爆撃機富嶽改であった。正確には第二次世界大戦中に開発された超大型戦略爆撃機富嶽を、戦後にジェットエンジンへ全面換装した改良型である。全長50メートル、全幅75メートル、最大速度880キロ、武装として20ミリ機関砲20門を搭載し、爆弾搭載量25トン、航続距離28000キロ、実用上昇限度13500メートル、乗員12名という、文字通りの超大型戦略爆撃機であった。

さらに派生型として掃射機型が存在した。これは爆弾倉に100門もの20ミリ機関砲を密集搭載し、対地掃射攻撃に特化すると同時に、敵戦闘機の護衛任務も兼ねる多用途機であった。また輸送機型は人員300名を搭載可能で、四式重戦車1輌を含む陸軍重装備の輸送も可能であり、物資輸送量も最大30トンに達した。これにより戦略爆撃から兵力投射、物資補給までを一機種でカバーする柔軟性を獲得した。

戦術爆撃機としては、重爆撃機連山改と重陸上攻撃機深山改が主力であった(全長26メートル、全幅38メートル、速度720キロ、武装13ミリ機銃14門、爆弾搭載量9トン、航続距離9100キロ、実用上昇限度13500メートル、乗員8名)。連山は元来陸軍航空隊向け、深山は海軍航空隊向けであったが、空軍統合により機体を共有・統一運用する体制が整えられた。

戦闘機部門では、ジェット戦闘機火龍改と震電改が主力となった。

火龍改は全長14メートル、全幅16メートル、速度960キロ、武装30ミリ機関砲4門・13ミリ機銃6門・50キロ噴進弾14発、航続距離3850キロ、実用上昇限度12000メートル。

震電改は全長13.55メートル、全幅12.95メートル、速度990キロ、武装35ミリ機関砲4門・13ミリ機銃6門・50キロ噴進弾12発、航続距離3980キロ、実用上昇限度12000メートル。

第二次世界大戦中には総数10万機を超える航空機を保有していた帝国航空戦力であったが、戦後軍縮により2万機にまで削減された。しかしこの縮小は逆に大きなメリットを生んだ。旧型プロペラ機を全て退役させ、全機種をジェット機に統一したのである。さらに戦後実用化された新型ジェットエンジンへの全面換装により、速度・航続距離・搭載量・信頼性は戦時を大幅に上回る水準に達した。

最終的に空軍は4個航空軍・80個航空群という編成となり、戦略爆撃・戦術支援・防空・輸送の全てを高い効率で担う体制が完成した。陸軍や海軍と同様に[数は減ったが、力は増した]典型例となったのである。



戦後大規模軍縮における最大の成果、そして帝国軍制史上最も画期的な改革は、国防省の設立であった。第二次世界大戦中、大日本帝国は陸軍省と海軍省がそれぞれ独自の指揮系統を持ち、戦略の調整に多大な非効率を生んでいた。この構造的欠陥を根本的に解決するため、山本五十六総理大臣兼海軍大臣は戦後処理の最重要課題の一つに[軍制の近代化]を位置づけた。

1946年後半から本格的に検討が進められ、1947年4月1日、大日本帝国国防省が正式に発足した。陸軍省と海軍省は廃止され、全ての軍事行政が国防省に一元化されたのである。これにより、軍事予算の配分、兵器開発、人事、補給、後方支援が統合的に管理される体制が完成した。

国防省の傘下には、統合幕僚作戦司令本部(通称:統合幕僚本部)が設置された。これは第二次世界大戦中に浮上した統合司令部の必要性を現実化したものであり、冷戦期における複合的な脅威に対応するための中枢機関となった。

統合幕僚作戦司令本部のもとに、以下の機関が置かれた。

海軍軍令部(帝國連合艦隊の運用指揮)

陸軍参謀本部(陸上作戦の計画・指揮)

空軍統合司令部(戦略・戦術航空戦力の統括)

これら三軍の最高司令部は、統合幕僚作戦司令本部の統制下に置かれ、共同作戦計画の策定、緊急時の迅速な兵力投入、資源の効率的配分が大幅に改善された。従来の陸海軍対立や縄張り意識は排除され、[帝国軍全体としての一体運用]が徹底されたのである。

この改革により、大日本帝国軍は真の意味での統合軍へと生まれ変わった。軍縮により総兵力・師団数・航空機数・艦艇数が大幅に削減されたにもかかわらず、指揮系統の効率化と情報共有の迅速化によって、実際の戦闘力は戦前・戦時を上回るレベルにまで高められたと評価されている。

特に東西冷戦の長期化を予想した山本総理は、統合幕僚本部の設置意義を次のように語ったと記録されている。

「我々は軍縮によって軍を弱くしたのではない。一つにまとめることで、真に強靭で柔軟な国防体制を築いたのだ。陸海空の壁を越え、帝国の剣は一枚岩となる。」

国防省と統合幕僚作戦司令本部の誕生は、単なる組織再編を超えたものであった。冷戦下での代理戦争、核抑止戦略、将来の総力戦に備えるための、帝国軍の根本的な近代化であった。この体制は、2000年代に勃発する世界最終戦争において、帝國連合艦隊をはじめとする三軍が驚異的な連携を発揮する基盤となった。

表向きは[平和のための軍縮]と喧伝されながら、水面下では国防省主導による次世代兵器開発(原子力推進、ミサイル技術、ジェット航空機のさらなる改良など)が着実に進められていた。こうして1947年、帝国軍は新たな時代への準備を整え、冷戦の激流に身を投じていったのである。



戦後軍縮と軍制改革の流れの中で、もう一つの重要な変革が進められた。それは諜報・情報分野の抜本的改革である。1947年初頭、フランス共和国とオランダ王国によるヨーロッパ共同体(EC)設立の動きを、大日本帝国は事前に十分に察知できなかった。この情報遅れは、帝国首脳部に強い衝撃を与えた。第二次世界大戦で核兵器と空母艦隊による優位を築いたにもかかわらず、敵対陣営の国家規模の統合という重大事態を見逃したことは、深刻な反省材料となったのである。

山本五十六総理大臣は直ちに[情報戦の敗北]を認め、諜報機関の根本的改革を指示した。これが国家安全保障法制定の直接的な契機となった。同法は1947年7月1日に施行され、国防省の設立もこの法律に基づくものであった。

国家安全保障法の主な柱は以下の通りである。

まずは国家安全保障会議(National Security Council:NSC)の設立だった。総理大臣を議長とし、国防大臣、内務大臣、外務大臣、経済産業大臣、統合幕僚作戦司令本部長らを常任メンバーとする最高意思決定機関を新設した。定期的に(原則として毎月)国家安全保障に関する全情報を共有し、迅速な政策決定を行う体制を構築した。これにより、これまで散在していた陸海軍・内務省・警察などの情報が一元管理されるようになった。

次に帝国情報保安局(Imperial Intelligence Security Bureau:IISB)の創設だった。

従来の陸軍参謀本部第二部(情報)、海軍軍令部第三部(情報)、外交情報部門などを統合・再編し、新たな中央諜報機関として設立された。通称は[保安局]または[IISB]と呼ばれるこの機関は、国外諜報活動、秘密工作、対外工作員の育成、暗号解析、敵対勢力への潜入工作などを一元的に担うこととなった。

長官は総理大臣直属とし、国防省および国家安全保障会議に直結する独立性の高い組織とした。人員は当初約8000名規模でスタートしたが、冷戦の激化とともに急速に拡大していった。局内には[戦略情報部][工作部][技術解析部][経済情報部]などの専門セクションが置かれ、特に西側(EC+アメリカ)に対する長期潜入工作と、第三世界諸国への影響力工作に重点を置いた。

この改革により、大日本帝国は単なる軍事力だけでなく、情報戦・諜報戦においても冷戦を優位に戦う体制を整えた。国家安全保障会議の定期開催は、ECの動きを最小限に抑え、大日本帝国の外交・軍事・経済政策をより一貫したものにした。

山本総理は国家安全保障法施行に際して帝国議会でこう演説した。

「我々は核と空母で戦争に勝利した。しかし平和を守るためには、目に見えぬ戦場でも勝利し続けなければならない。国家安全保障法は、帝国に真の見えざる盾を与えるものである。」

こうして1947年、戦後軍縮は単なる兵力削減ではなく、帝国全体の国防システムを根本から近代化・統合化する一大改革となった。国防省、統合幕僚作戦司令本部、国家安全保障会議、そして帝国情報保安局——これら一連の新機構は、冷戦という長期戦を戦い抜くための、帝国の強固な骨格となったのである。

表向きの軍縮と経済成長の華やかな時代の中で、水面下ではこの[静かなる改革]が着実に進行していた。やがてこの体制が、2000年代の世界最終戦争で如何なる力を発揮するのか——歴史はまだ、その結末を知らなかった。』

小森菜子著

『帝國の聖戦回顧録』より一部抜粋

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