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続・帝國連合艦隊〜世界最終戦争〜  作者: 007


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大日本帝国の混迷2

『1993年の世界的な大規模軍縮以後、平和が到来する筈だった。それは東西両陣営の対立構造から、和解に発展した事で表れていた。1993年12月4日には、ヨーロッパ連合コール大統領が史上始めて大日本帝国を国賓として訪問した。これは東西冷戦の終結を更に象徴するものになり、石原慎太郎総理とコール大統領による首脳会談のみならず、コール大統領の天皇陛下への謁見も実現した。共和主義の国家元首が、立憲君主制の国家元首に謁見するという事が東西冷戦時の主義思想を、乗り越えた瞬間だと世界に知らしめたのである。

そして翌1994年1月20日には、石原慎太郎総理によるヨーロッパ連合国賓訪問が実現した。この東西両陣営盟主による相互訪問は世界平和を打ち出すものだったが、世界は大日本帝国の超大国としての地位確立と受け取った。

何と言ってもも相互訪問による首脳会談で大日本帝国とヨーロッパ連合は、経済協定と貿易で合意したのである。一部軍事技術と宇宙技術に関連する先端科学技術に関しては、未だに完全非公開でありそれを利用または応用可能となる民生品等が輸出規制されたままの為に、自由貿易とはならなかったが経済が崩壊状態のヨーロッパ連合にとっては大日本帝国との経済が関係の構築は救世主であった。

大日本帝国の行動により大東亜共栄圏加盟国以下東側諸国も、ヨーロッパ連合以下西側諸国との経済協定と貿易に合意した。これにより世界は社会的あるいは経済的な関連が、旧来の国家や地域などの境界を越えて、地球規模に拡大してさまざまな変化を引き起こす現象である[地球規模化(グローバル化)]の時代を迎える事になった。

地球規模化は電子電脳網インターネットの普及や情報技術と大きく関連しており、電子電脳網が同じ時期に世界的に普及し始めた事も大きな要因になっていた。

電子電脳網は科学技術宇宙省所管の特殊会社である帝國電子(第二次世界大戦後、旧海軍技術研究所系を母体に設立。4話目に描写。)が実用化した。帝國電子は戦後早くから半導体および電子計算機の基礎研究を国家主導で推進し、かぐや計画で培われた高度な演算技術を応用して電脳基本機構(OS)の開発を進めた。その早期着手による技術的優位性により、1980年という早い段階で[電脳窓(ようはこの小説世界のWindows)]を実用化することに成功した。

電脳窓を電脳基本機構として搭載した電子計算機は、東京芝浦電機・富士通・日本電気・日立製作所・東京通信工業などによって製品化され発売された。大東亜共栄圏加盟国を中心に急速に普及し、1990年代には事実上の世界標準となっていた。ヨーロッパ連合やアメリカ合衆国などの西側諸国も、互換性・性能・多機能性・既存ソフト資産の豊富さに押され、最終的に電脳窓を採用せざるを得なくなったのである。

話を戻す。





冷戦終結、南米戦争、ヨーロッパ共同体崩壊によるヨーロッパ連合成立、世界的大規模軍縮、石原慎太郎総理とコール大統領による相互訪問は世界平和の到来と、大日本帝国の唯一無二の超大国化を印象付けた。そしてそれは第二次世界大戦中から大日本帝国の絶対的な与党であった、旭日尊皇党に対する風当たりが大きく変化した理由になった。

1991年10月25日に石原慎太郎内閣が成立時旭日尊皇党は帝国議会衆議院定数500議席の内350議席を占めており、過半数を遥かに上回り安定した政権運営が可能だった。その中で石原慎太郎総理は1993年5月に、ヨーロッパ共同体で保守派と軍部のエリートがミッテランを打倒し、失敗していた改革をクーデターで止めようとした、クーデター未遂を受けて1993年7月18日に執行予定だった、帝国議会衆議院議員総選挙を戒厳令の部分的発令により、1年延期としていた。併せて帝国議会には衆議院議員の任期延長の特措法が成立しており、その任期延長期間も当然1年であった。

最大野党の立憲政治同盟もヨーロッパ共同体でのクーデター未遂という事態に、衆議院議員総選挙の延期には賛成していた。国民世論もまさかを危惧して、石原慎太郎政権を支持した。

その後ヨーロッパ共同体崩壊によるヨーロッパ連合成立、世界的大規模軍縮、石原慎太郎総理とコール大統領による相互訪問を受けて世界平和が到来し、大日本帝国が唯一無二の超大国として君臨する事になると最大野党の立憲政治同盟は、石原慎太郎政権に、「衆議院議員総選挙延期を何時までするのか」と批判した。

それは立憲政治同盟の土井たか子党首自らが先陣を切って批判を強めた。当初は立憲政治同盟が騒いでいるだけで国民世論も静観していたが、浜田幸一国防大臣が出演したテレビ番組にて「煩い女は嫌われるよ。大和撫子はおしとやかじゃないと」と発言した。これが国民世論を爆発させる切っ掛けになった。

女性蔑視発言であり性差別だと、浜田幸一国防大臣のみならず石原慎太郎総理と旭日尊皇党への批判が高まったのである。これにより一気に空気が変わった。

立憲政治同盟は国民世論を味方に付け、一気に石原慎太郎政権への批判を強めたのである。政権支持率も低下し、旭日尊皇党の支持率も低下した。あまりの事態に石原慎太郎総理は政府与党連絡会議を開催し、帝国議会衆議院議員総選挙のこれ以上の延期を止めて1994年5月18日に行うと決定した。

これにより立憲政治同盟の批判は弱まると想定したが、弱まる気配が無く寧ろ更に批判は強まり土井たか子党首はテレビ番組に多数出演し、石原慎太郎政権と旭日尊皇党を批判した。それにより石原慎太郎政権支持率と旭日尊皇党支持率は低下を続け、1994年5月1日には史上始めて旭日尊皇党と立憲政治同盟の支持率が並ぶ事になったのである。

この事態にようやく石原慎太郎政権と旭日尊皇党は危機感を強め、政府与党総力を挙げた選挙戦を強力に推し進めた。だがもはや手遅れだった。風は立憲政治同盟に吹いており、旭日尊皇党の長年に及ぶ金権政治や汚職に対する嫌悪感が露わになったのである。

そして1994年5月18日の第40回帝国議会衆議院議員総選挙に於いて、定数500議席の内立憲政治同盟が300議席を獲得する歴史的大勝利を果たした。旭日尊皇党は350議席から100議席と壊滅的に議席を減らし、1942年5月30日の第21回帝国議会衆議院議員総選挙以来52年間も政権与党を維持して来たが、遂に野党に転落したのである。

立憲政治同盟党本部では土井たか子党首が開票作業終了後、議席確定を受けた記者会見で「山が動いた」と語り、歴史的転換点を象徴する名言が残された。

それに対して旭日尊皇党党本部での記者会見はお通夜のような空気となり、石原慎太郎総理は旭日尊皇党総裁辞任を発表した。閣僚も浜田幸一国防大臣を始め半数が落選しており、党勢に与えた影響は甚大だった。

そして1994年6月30日の臨時国会での首班指名選挙に於いて、立憲政治同盟の村山富市が内閣総理大臣に選出された。土井たか子党首は衆議院議長となり、非旭日尊皇党政権が成立したのである。何故総選挙勝利の立役者である土井たか子党首が内閣総理大臣では無く、衆議院議長になったのかには理由があった。

それは土井たか子党首が政府首班では無く、帝国議会衆議院議長として帝国議会改革を行う、からというものだった。だがそれは後付けの理由だった。

立憲政治同盟内部でいざ首班指名選挙となった時に、大日本帝国史上初の女性総理は前例が無いとの意見が出たのである。浜田幸一国防大臣のテレビ番組での発言で国民世論が爆発したにも関わらず、結局は立憲政治同盟も似たようなものだったのである。

自らの党内も結局は同じだった事に失望した土井たか子党首が、首班指名選挙は村山富市を推薦したのである。その代わりに自らは帝国議会衆議院議長になれるように求めた。帝国議会衆議院議長も大日本帝国史上初の女性議長となるが、史上初の内閣総理大臣よりは許容出来るとして決定したのである。

こうして村山富市政権が成立したのであった。成立直後の政権支持率は85%という驚異的な数字を誇った。非旭日尊皇党、立憲政治同盟政権成立は世界中に衝撃を与えた。唯一無二の超大国である大日本帝国に於いて、まさかの革新政権(作者注:この小説世界ではソ連は存在せず社会主義も忘れられた政治思想になっており、土井たか子や村山富市といえども社会主義者ではありません。旭日尊皇党が保守で、立憲政治同盟が革新ですが、明確に二極構造に分かれているとも言い切れず、アメリカ合衆国の二大政党制の構造みたいなものですかね。)が成立したのだ。

そして村山富市総理は所信表明演説に於いて、「中央省庁再編による、各種予算見直しにより、人にやさしい政治、安心出来る政治を第一にします。」と語った。

その所信表明演説を受けて村山富市総理は中央省庁再編などの行政改革を議論する、[行政改革会議]を1994年8月1日に総理府に設置した。行政改革会議には野党になった旭日尊皇党からも小渕恵三が参加したが、立憲政治同盟が進めようとする中央省庁再編案があまりにも革新過ぎるとして旭日尊皇党の小渕恵三は反対した。これにより事態は一気に政争へと発展した。行政改革会議による中央省庁再編案が表沙汰になると、旭日尊皇党は一気に反対を強めた。




立憲政治同盟が提示した行政改革会議による中央省庁再編案は、内務省の解体による分割と各種省庁の統廃合を行うものだった。それに旭日尊皇党が、大日本帝国の政治形態の根本を揺るがすとして、反対したのである。それは石原慎太郎総裁の後を継いだ旭日尊皇党橋本龍太郎総裁も先頭に立ち、大日本帝国の政治を混乱させると糾弾した。その反対は国民世論にも広がり、僅か数カ月前には熱烈な支持で総選挙を圧勝させたにも関わらず、村山富市政権の支持率は低下していったのである。

不毛な政争はその後の臨時国会延長を招き、1994年12月10日には1995年通常国会を1月20日に招集する事になり、臨時国会は1995年1月19日までの延長が決定された。これにより帝国議会は1995年と年を跨ぎ、それでも政争は終わらなかったのである。

そんな中で1995年1月17日5時46分52秒に兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16 km)を震源として、マグニチュード7.3の兵庫県南部地震が発生した。[阪神・淡路大震災]と呼ばれる事になった地震により近畿圏の広域が大きな被害を受け、特に震源に近い神戸市沿岸部(東灘区、灘区、中央区、兵庫区、長田区、須磨区)の被害は甚大で、近代都市での災害として大日本帝国国内のみならず、世界中に衝撃を与えた。犠牲者は6434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、この時点では史上最悪のものであった。

なかでも阪神高速道路公団阪神高速道路3号神戸線(延長39.6km)の倒壊は、震災の甚大な被害を象徴するものとして世界中の新聞の一面に大きく掲載された。橋脚1175基のうち637基、橋桁1304径間のうち551径間が損傷したが、中でも東灘区(深江地区)では全長635mに渡って高架橋が横倒しになる(17基の橋脚が倒壊)という極めて衝撃的な光景が見られた。

あまりにも甚大な災害に政府の対応は遅れた。政府が非常災害対策本部の設置を決定したのは、午前10時(地震発生から4時間14分後)からの閣議中であった。それに対して国防省は早くも午前6時には大日本帝国陸海空軍に大規模な災害派遣を命令した。関西一円の陸海空軍を中心に部隊が派遣され、特に海軍連合艦隊は空母打撃群を大挙して神戸沖合に派遣し、原子力空母や中型空母・強襲揚陸艦から回転翼機を発艦させて、被災者の救助や物資の搬送を開始した。

午前6時10分には被災地上空は制限空域に指定され、陸海空軍と警察・消防・海上保安庁の回転翼機と航空機しか飛行出来ないとした。それでも一部報道機関は回転翼機を飛ばして報道を行おうとした為に、陸軍は48式戦闘回転翼機八岐之大蛇を飛ばし、警告射撃を行い追い払い強制着陸させて陸軍憲兵隊が逮捕した。あまりの強硬姿勢に一部報道機関からは軍への批判が出たが、その批判は報道機関が人命よりも自らの利益しか考えていない姿勢だとして、国民世論から激しく批判される事になった。

陸海空軍が中心となり警察・消防・海上保安庁による救助が行われていたが、政府による対応は遅れた。特に有名なのが村山富市総理が帝国議会衆議院本会議での代表質問で、政府による軍出動命令の遅れを責められて「なにぶん初めての事ですので」と釈明した。

大日本帝国での指揮系統では内閣総理大臣からの命令が無くても、国防省つまりは国防大臣の命令で災害派遣に関しては出撃可能であったが、村山富市総理つまりは立憲政治同盟の危機管理能力の欠如について徹底的に批判された。


だが「前例のない未曾有の災害で、かつ法制度では国防省独自で対応可能な為に、村山富市総理以外の誰が内閣総理大臣であっても迅速な対応は不可能であった」という証言もあった。

そして当初復興計画は、おおよそ4年、早くて3年は難しいと思われたが、村山富市総理は「ただちに復興だ。金に糸目はつけない。2年計画でやる」と断言した。それだけではなく、「復興にあたっては元の港にするのではない。新しい大型の港にする。」とも語った。

壊れたものを元に戻すのではなくもっといいものに作り変えてしまおうというのだ。村山富市総理は担当をすべて任せて、責任は自分が取るという覚悟を持っていた。その為にその後の復興ぶりを見れば村山富市総理の功績は明らかであったが、対応に遅れたのは事実であり国民世論も批判を強めた。

そして橋本龍太郎総裁以下旭日尊皇党が立憲政治同盟への批判を強めるが、帝国議会衆議院貴族院では2月25日には、激甚災害に対処するための特別の財政援助等に関する法律に基づく激甚災害に、阪神・淡路大震災は指定された。これは政争を行いながらも、大日本帝国の震災復興に対する対応の早さを見せ付ける事になった。

これには政治学者も「争う所もありながらも、対処するべきものは一致団結して対応するという、大日本帝国の高度な政治姿勢である」、と評価していた。

だが政争が続いていたのは事実であり、1995年3月20日に大日本帝国帝都東京都でカルト宗教による化学テロ事件である、地下鉄サリン事件が勃発した。帝都高速度交通営団の営業運転中の地下鉄車両内において、カルト宗教の信者らが神経ガスのサリンを散布し、乗客および職員、被害者の救助にあたった人々に多数の死傷者が出た。人類史上平時の大都市において無差別に化学兵器が使用されるという、世界でも稀に見る大都市圏における化学兵器を利用した無差別テロ事件であった。



1995年3月20日午前8時ごろ、帝都東京都内の帝都高速度交通営団丸ノ内線、日比谷線で各2編成、千代田線で1編成、計5編成の地下鉄車内で、化学兵器として使用される神経ガスのサリンが散布された。乗客や駅員ら14人が死亡、負傷者数はおよそ6300人とされる。営団地下鉄では、事件発生に伴い日比谷線の運転が不可能となり、霞ケ関駅を通る丸ノ内線・千代田線については同駅を臨時に通過扱いとして運行することにしたが、一時的に部分運休した。運転再開後はほぼ所定通りのダイヤで運行したが、終電まで霞ケ関駅を通過扱いする措置を執った。

3月20日は月曜日で、事件は平日朝の通勤時に発生した。これは実行犯が乗客数および官公庁の通勤の最高潮が8時10分ごろであると考えたためである。各実行犯は500〜600グラムの溶液(うちサリンは35%程度)の袋詰めを2つ又は3つ運び、犯人は各々に命じられた列車に乗り込み、乗降口付近で先端を尖らせた傘を使い、袋を数回突いて下車した。そしてそれぞれの犯人が共犯者の用意した自動車で逃走したのである。これらの路線の車内は通勤時には非常に混雑するため、危険回避のために乗客が車両間を移動することは困難であったと推測されている。

この人類史上類を見ない無差別テロは大日本帝国のみならず、世界を震撼させた。阪神・淡路大震災の初動対応に批判を受けていた村山富市総理は、首相官邸に即座に非常災害対策本部を設置し、陸海空軍・警察・消防に対して出撃を命令した。

時間が経過するにつれて情報が集まり、人為的な無差別テロだと判明すると事態を憂慮した村山富市総理は9時30分には、戒厳令を発令した。そして阪神・淡路大震災の初動対応で旭日尊皇党が批判を強めている事から、過ちを繰り返さないように村山富市総理は橋本龍太郎総裁に「事実上の内戦に匹敵する国難である」として、挙国一致での対応を要請した。

それに橋本龍太郎総裁も依存は無く、地下鉄サリン事件と阪神・淡路大震災については旭日尊皇党が全面的に閣外協力する事になった。

阪神・淡路大震災は自然災害であったが、地下鉄サリン事件はカルト宗教による人為的攻撃だった。その為に大日本帝国の威信を掛けた捜査が行われた。

1995年3月20日の地下鉄サリン事件発生から2日後の3月22日には早くも、カルト宗教の活動拠点である山梨県西八代郡上九一色村(現・南都留郡富士河口湖町)など25の施設へ公証人役場事務長逮捕監禁致死事件実行犯の逮捕などを目的に強制捜査が開始された。その後カルト宗教幹部が続々と逮捕され、取り調べにより事件が解明されていった。


5月16日には教団教祖であり事件の首謀者とされた人物を逮捕するために第6本拠一帯の強制捜査が行われた。この際に指揮を執ったのは陸軍憲兵隊であり、海軍警邏隊・空軍保安隊の軍警察が主力を担った。戒厳令下による事もあり、陸軍機械化歩兵師団も出撃し4式歩兵戦闘車や48式戦闘回転翼機八岐之大蛇が示威行為を行った。

高空には空軍の早期警戒管制機や、海軍連合艦隊の空母艦載機である47式艦上戦闘攻撃機極光改と45式艦上攻撃機閃光改も展開し、示威行為を行った。

内務省警保局も特殊武装戦術部隊(通称:特戦隊)を派遣し、周辺県庁警察部から警察を派遣し一帯を全面的に封鎖した。そして付近住民を避難させ、カナリアを入れた鳥かごを持つ陸軍憲兵隊を先頭に本拠内の捜索を開始した。

建物に近付くまでは何事も無かったが、突入直前にカルト宗教は信者達が銃撃を仕掛けてきた。内務省警保局は当然ながら帝国国防情報局や、帝国情報保安局からカルト宗教は旧ヨーロッパ共同体の武器を密輸している、と情報があり銃撃戦を想定して完全武装で軍警察と内務省警保局は捜査を行った。

だが想定以上にカルト宗教は重武装であり、負傷者続出という事態に陥った。死者が出るのも時間の問題となり、陸軍憲兵隊指揮官は48式戦闘回転翼機八岐之大蛇に対して、35ミリ多銃身機関砲による攻撃を命令した。これにより48式戦闘回転翼機八岐之大蛇は35ミリ多銃身機関砲による攻撃を開始し、本拠の建物はズタボロにされた。

あまりの攻撃に銃撃が止んだ事から、軍警察と内務省警保局は内部に突入し教祖以下幹部を逮捕した。この強行突入による逮捕劇によりカルト宗教は壊滅状態になり、大日本帝国は一応の安堵を取り戻した。

だが国民世論の立憲政治同盟に対する風当たりは強くなり、村山富市政権支持率と併せて立憲政治同盟支持率の低下は留まる所を知らなかった。』

小森菜子著

『帝國の聖戦回顧録』より一部抜粋

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