第25話 『強襲』
ひとしきり泣き終えた阿久津は目を開けた。
突然現れた少女、立花。
そんな少女の口から語られた、“死神”の正体について。
突拍子もない真実。
日本で今、人知れずに起こっている出来事。
影人という存在や、それと対峙する“影狩り”の存在。
そして阿久津が長年悩ませた、“死神”……影人を見ることの出来る力、“影耐性”について。
信じがたい説明の数々。
しかし何故かその事が阿久津には腑に落ちて、……頭の中のぐちゃぐちゃだったピースが合わさって、足りなかったピースまでもが綺麗に納まって、パズルが完成した様な……そんな不思議な満足感、納得感を味わった。
それは少女の語る勢い、話を信じ込ませようとする技術、力量のなせる技か。
或いは、阿久津が深層心理に持つ罪悪感を和らげる……新たな言い訳、自己保身の口実を手に入れたからなのか。
その答えを阿久津は導くことが出来ないが、しかしそれでも……立花の語って聞かせた真実は、阿久津に圧し掛かっていた大きな重りを無くす事に役立った。
だからだろうか。
ひとしきり泣ききって、いつの間にか眠ってしまっていたようだった。
胸のつかえが取れ、わだかまりが無くなった。
そんな安らかな気持ちに、久しぶりになった結果かもしれない。
こんな晴れやかな気持ちで眠れた事など、いったい何年以来の事だろう。
今は物凄く、身体が軽い。
肩の荷が下りて解放された人間は、ここまで心が軽いのか。
そういった感想さえ湧いて出る。
時計を見て、時間を確認する。
現在時刻は19時前。
どうやら一時間近く寝てしまっていたらしい。
果たしてそれだけの時間、立花は何をしていたのだろうか。
話を終えたと思えば泣き出して、気が付けば寝てしまい、随分と困らせた事だろう。
安心して泣いて寝て、気が付けばこんな時間。
心なしかお腹もすいた。
19時という事は、そろそろ夕食の支度を始める頃合いだ。
でなければ、いつになったら食事が取れるのか分からない。
阿久津は急いで飛び起きる。
そういえば、冷蔵庫には今何が入っていただろう?
昨日の残りは無いはずだ。
ちょうど余り物を使い切り、食材が何もなかったような気さえする。
もしも何も無いのなら、今から買い出しに行く必要があるだろう。
立花にも、お礼をしなければなるまい。……やる事が沢山だ。
思考がクリアになり、と同時にやる事が頭に羅列されていく。
まずは冷蔵庫の確認だ。
そんでもって立花を捜して……それから、それから。
慌ただしくバタバタと、阿久津は行動を開始する。
そんな時だった。
阿久津は、鼻腔をくすぐる良い匂いに気が付いた。
その匂いは、何やら台所から漂って来たものだ。
よく耳を澄ますと、何やら人の気配と一緒に何かを炒めるような音まで聞こえてくる。
泥棒か?
そんな考えが頭を過る。
阿久津は瞬時に音を殺して息を潜めると、恐る恐る台所へと近づいた。
深呼吸をして意を決すると、勢いをつけてバッと台所を覗き込む。
すると……、
「あ、……お、起きました、か?」
しきりにフライパンをかき混ぜる立花の姿が、そこにあった。
「あ、え……?」
「す、すいません……勝手に台所をお借り、しまして……」
一体何をしているのか?
いや、何かしらの調理をしている事は分かるのだが、では何故今ここで料理をする必要があるのか、などと色々思考を巡らせる。
その間僅か0.1秒。
見れば立花の足元には何やら大きめのレジ袋が置かれており、その中には色々な食材が入っていた。
「その、えぇと……、元気付けようと思いまして、りょ、料理を……」
何故そんな思考に至るのか。
阿久津には理解出来なかったが、どうやら泣いていた阿久津に振舞う為の料理を作っているとの事らしい。
一体全体、何が何やら?
しかしそれでも、悪意があるわけではない様だ。
完全な善意からくる行動に、阿久津としては文句も言いにくい。
結果としてされるがまま。
事の成り行きを見守る以外に他にない。と、そう結論を付けざるを得ない状況となっていた。
「あの……、もう少しで出来るので、その……少々、お待ちくだ、さい」
「は、はぁ」
阿久津は言われるがままに頷くと、台所を後にするのであった。
……
それから十分程経過した後の事。
「お、お待たせしました……」
と言って立花が出来た料理を運んで来た。
先程まで阿久津が蹲って泣いていた部屋に、数種類の料理が並べられていく。
野菜炒め。焼きそば。チャーハン。ハムエッグ。
何故そのチョイスにしたのかは分からなかったが、しかしどれもこれも美味しそうに出来ており、その良い匂いが阿久津の空いたお腹を刺激する。
「好物が、分からなかったので……買えた食材で適当に作りました。なので……もし食べれないものがありましたら、その……そのまま残しておいてもらえれば」
オドオドと自信なく、立花はそう言って割り箸を渡してくる。
「えぇ……っと」
阿久津は言葉を詰まらせた。
確かにお腹は空いている。
今すぐに口にかっこみたい。
しかしまずは、言う事があるはずだ。
(まずお礼を言わないと……)
それは“死神”についての事。
そして、この料理についても。
長年の悩みを打ち明けて、慰めてもらったのみならず、こうして手料理まで作ってもらえるなどとは思ってもみなかった。
まさかこんな状況になるなどと、これっぽっちも想定していなかった訳である。
ああ言えばいいのか?
こう言えばいいのか?
あっちの言葉のがいいんじゃないか?
それともこっちを先に言うべきなんじゃないのか?
そういった“お礼の言葉”を脳内で浮かべては訂正してと繰り返す。
仕舞には、何を言うべきかも段々分からなくなってくる。
「あっ、と……えっと……」
どういった言葉をしゃべれば良いのか。
なんとお礼をしたら良いのか。
と、考えて考えて考えて……、思考がパニックになってくる。
考えが纏まらず、固まっている阿久津を見て取って。
立花は、
「お腹、空いていませんか……?」
そういった質問を投げてくる。
その表情は、心なしか悲しそうにさえ見えた。
ブンブンと、阿久津は勢いよく首を振って否定する。
折角作ってもらった手料理をこんな形で無下にするなど、それこそ一生の恥である。
何故食べなかったと後悔する。
後悔してもしきれない。
まずは、「いただきます」と言って食べるべきか。
お礼などはこの際置いといて、まずは食事にありつく事が先決か?
そういった思考をグルグルと巡らせて動かない阿久津を見てとって、立花は合点がいったという顔をした。
立花は立ち上がり、パタパタと急いで台所へと駆けていくと割り箸を持って戻って来た。
そうして阿久津の前に並べた料理から一口分、箸で掴むとそれを立花は口に放り込む。
もぐもぐと咀嚼して飲み込んで、
「ほ、ほら、……毒とか入っていないので……食べても問題ない、はずです」
と、そんな事を言ってくる。
「えっと……私の味覚が、死んでない前提……ではありますが」
自信なく、メシマズ料理ではない事をアピールする立花。
そんな少女を見て「そんな定番のオチみたいな……」と内心ツッコミを入れつつも、流石にそこまでさせてしまっては立花にも悪いだろうと思いつつ、意を決して早急に食べる事を選択する。
「あ、いえ……すいません。女の子の手料理は初めてだったものでして……その、いただかせてもらいます!!」
「ふぇ!?」
素直に頭を下げると、阿久津は手を合わせ「いただきます」と食事にありつく。
その表情は緊張が解け、非常に柔らかな笑顔を作っていた。
その表情を見て、初めは何と言ったらいいのか分からないといった風だった立花も、阿久津の食べっぷりを確認し「マズくなかった」のだと安心すると、
「あ、慌てなくても!! 全部食べて大丈夫ですので、その……あ、後これ、スープ。これも飲んで下さい。インスタントなので味も心配ないと……」
そういって、わかめスープを出してくる。
阿久津はそれを受け取ると、すぐに流し込む。
「あっつ!?」
「わ、わぁ、あ、ごめんなさい!!」
騒がしく。
しかし笑い合う、賑やかな食事の時間。
それは、阿久津にとって……非常に懐かしい。
それこそ両親との思い出を彷彿とさせる、数年ぶりのひと時となった。
……
阿久津が料理を全て食べ終えて、一息ついていた時の事だった。
ガヤガヤと、やたらと外が騒がしい。
人が集まってくる様な、そんな気配があった。
品の無い男達の話声。笑い声。
時折金属バットの様な物で地面を叩く、カンカンとした乾いた音。
ぞろぞろと歩幅も合わせず乱暴に地を蹴って歩く足音達。
しかしそれでも、自分等には無関係な出来事だ。
アパートの中にいる阿久津と立花には関係の無い外の事。そんな風に考えていた。
気が抜けていたという事も、少しはあったかもしれない。
……家に、侵入者が来るまでは。
「本当にここで良いのよねぇ?」
そう言って、阿久津の家。
103号室の扉を蹴破る、人影があった。
ドゴォン!!!!
とおおよそ人間が出せぬ轟音、衝撃音を響かせて、くの字に曲がった扉が部屋の中にまで飛んでくる。
「おっっ邪魔ぁ~~」
土足のまま、ズカズカと部屋の中へとやって来る侵入者、改め襲撃者。
それはウェーブがかった金髪を腰まで伸ばした一人の女性であった。
見たところ二十代後半といった所か。
スラリとした細い身体。
白みがかった綺麗な肌。
おおよそ扉を蹴破る力など持ち合わせていない様な……そんな女性。
そんな人物が、襲撃者の正体であったのだ。
ゴガンガンッと音を立てて床に倒れ込んだ曲がった扉。
その折れ曲がった扉の中心。
蹴りを受けたであろう一番ダメージを受けたその箇所は、女性が履くヒールと同じ形に凹んでいた。
「あら~、あらあらあら~。はっけぇ~ん。まさか本当にいるなんてぇ~」
女性の視線が立花の存在を捉えると、くつくつとその表情を歪ませる。
瞬間、爆発でもする様に黒いモヤが身体から噴出する。
しかもそれだけではない。
女性の身体が黒いモヤに包まれて、その形さえも変えていく。
(――フェ、“フェイズ4”!?)
突然の襲撃。
それに加えてその相手は、影人の“フェイズ4”。
そんな状況を目の前に、立花は顔を引きつらせた。
しかしそれでも立花のする事は明白だ。
押しのけるように目一杯の力で阿久津を部屋の奥へと追いやって、阿久津に被害が出ない様に、守る様に立花は前へ出る。
例え阿久津が“影耐性”を持っていようとも、守るべき一般人に変わりない。
「アンタ“影狩り”よね」
その直後だった。
女性の前へと伸ばした右腕が、槍の形に変化する。
「――死になさい」
回転を加えた影の槍が射出する。
それを見て、立花はリュックに付けられた『猫の面』に手を伸ばす。
……しかし、その行動はどう見ても遅すぎた。
或いは、阿久津を後ろに追いやるより先に、面を取りにいったなら間に合ったのかもしれないが、しかしその選択が……致命的なミスとなる。
「――ッが、あっ!?」
周りの空気さえも削ぐ勢いで放たれた影の槍。
その殺意のこもった一撃が、立花の脇腹を抉り取る。
その後、影の槍は勢いのまま突き抜けて後ろの壁に深々と突き刺さると、バリバリバリッと壁に大きなヒビを作って停止する。
その余波で、削られた壁の粉末が土煙のようになって舞い上がる。
ベシャリッと、音を立てて力無く床に倒れる立花は、その脇腹から鮮やかな赤い血を垂れ流す。
その出血は、誰が見たってただでは済まないと分かる程のものだった。
「――あ、ぅ……」
血の海を作り上げ、苦痛に歪む口元を噛みしめて、それでも立花は『猫の面』へと手を伸ばす。
ズルズルと身体を引きずって渾身の力で前に進むが、それでも『猫の面』には届かない。
前が見えていないのか。
視界が、意識が、朦朧としている為なのか。
その伸ばした手は明後日の方向を向いていた。
「あれ、何? 影で防御しなかったの? ……まあいいや」
女性は立花の伸ばした腕を無造作に踏みつけると、加虐的な笑みで顔を歪ませる。
立花の脇腹から広がる血の海を眺めながら、弱っていく姿を観察する様にまじまじと見続ける。
「ねぇ痛い? 苦しい? 早く殺してほしいでしょ? まさかこぉんなに簡単に“影狩り”を始末出来るなんてぇ~、私って本当にツイてるわぁ~」
勝ち誇ったように笑うと、壁に突き刺さった影の槍を霧散させる。
そうして再び手元に影の槍を作り出すと、それを立花の頭に向けて構え直す。
ツンツンと槍の先端で、弱る立花の頭を何度も小突いて、既に抵抗する力も無い事を確認し、
「まぁそれも、こんなガキじゃ仕方ないかぁ」
といってトドメとばかりに影の槍を回転させる。
「バイバ~イ」
立花の頭蓋を目掛けて。
影の槍が放たれる。
――その寸瞬前の事だった。
「うわぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
阿久津の決死の突進が、女性の横腹に突き刺さる。
「……はぁ?」
あまりにも唐突な一撃。
警戒すらしていなかった存在から受けた全体重を乗せたタックルが、女性の身体を――すり抜ける。
「――ッ、!!??」
「あは、……残念」
ズドンと、阿久津が前のめりに倒れ込む。
そうしてそのまま正面の壁に顔面を勢いよくぶつけると、痛みで身体を丸め込む。
「……い、ぎぎ」
「あははは、……ダッサ」
女性は失笑する。
その行動が、阿久津の決死の覚悟でなされた行為であったにも関わらず。
何をバカな事をやっているのか?
ただの一般人ごときが、“フェイズ4”となった影人に触れるわけがなかろうに。
そういった侮蔑を含んだ笑みを浮かべて見下す。
「……はぁ可笑しい。馬鹿って罪よねぇ。どれだけ必死に頑張った所で、眼中にされてないって事も分からないんだしねぇ、それなのに馬鹿やって……本当、アホみたい」
眼中にない。
それは、脅威とさえ思ってない。
“いる”という数にさえ含んでない、という事だ。
……にも関わらず、“そう”である事にも気が付かないし気付けない。
そんな馬鹿で愚かな存在が、彼女のトドメの邪魔をする。
鬱陶しい事この上ない。
それはまるで、眼前を飛び回るコバエにさえ等しい行いだ。
眼中に無いからこそ、何もしなければ良いものを。
邪魔さえしなければ、こちらから害す事も無かったであろうに。
……そういったチャンスさえ無駄にする。
本当の本当に、馬鹿な奴。
女性は構えた槍を立花から阿久津へと変更する。
この攻撃は避けられまい。
何せ影で作った槍である。
ただの一般の人間には、影の槍を認識する事さえ不可能だ。
何が起きたか分からずに、槍に貫かれて死ぬがいい。
「……う、ぐ」
阿久津は痛みを堪えて立ち上がる。
何とか目を見開いて、視界の状況を確認している。
しかし何をしても無駄である。
馬鹿で愚かで無力な存在。
影の変化も認識できない人間に、この攻撃は躱せない。
「わぁぁぁぁぁあああああああああああああああ!!!!」
馬鹿の一つ覚え。
先程と同様に声を上げて真っ直ぐに向かってくる。
影の槍があるとも分からずに、馬鹿正直に向こうからやって来る。
絶好のカモである。
「オラァ、――死ねぇ!!」
勢いをつけて打ち出された影の槍。
しかしそれを、阿久津は身体を捻って回避する。
「…………え?」
突然の出来事に女性の思考が一瞬停止し、その身体が固まった。
奇跡的に躱したか?
或いは、偶然脚でももつれたか?
そんな思考が女性の脳を巡るが、しかし……なんて事は無い。
偶々まぐれで躱せたところで、女性の勝利は揺るがない。
そもそも阿久津には、影人を害する手段が無いのだ。
「ああぁぁぁぁぁぁああああ!!!!」
同様のタックル。
そしてそれを、女性の身体は同様にすり抜ける。
それ見た事か。
結局何をしても無駄なのだ。
馬鹿にはそれが分からない。
……しかし、少し遅れて女性は気が付く。
阿久津のタックルの目的が、女性への攻撃では無かった事に。
「……あ、しまっ」
女性の足元で倒れていたはずの立花が消えている。
そして女性の身体をすり抜けて、尚も真っ直ぐ走り去っていく阿久津が大事そうに抱えているそれが……消えた立花である事に。
「くっ!!」
一体いつの間に立花を?
いや、それは“あの時”以外に無いだろう。
攻撃だと思わせて、彼女の身体をすり抜けたその時に、倒れる立花を抱えて逃げたのだ。
「クッソ、やられた!!」
阿久津が走って向かう先。
それは出入り口の玄関だ。
……
阿久津は靴も履かずに外に出る。
血まみれの立花を抱きかかえ、命からがら必死の思いで声を出して呼びかける。
「誰か、お願いします!! 人が倒れて、血が!! 血が!! 誰か、誰か救急車を!! 救急車を呼んで下さい!! どうか彼女を、彼女を助けて!!」
阿久津が出た先。
そのアパートの周りには、何故か不良達が集まって囲っていた。
しかしそれでも構わない。構わずに声を出す。
助けてくれるなら、その相手が不良だろうと関係無い。
それにそれら不良達の後ろには、野次馬根性の様にして集まった一般人も見て取れた。
不良の集まりに顔を顰める年寄りや、塾帰りの子供らも。
彼らの内の誰か一人がでも救急車を呼んでくれたなら、それで助かるはずなのだ。
ここで恥ずかしいなどと考えている余裕は無い。
どれだけの醜態を晒そうと、この命には代えられない。
「お願いします!! 誰か、誰か!!」
阿久津の訴えに、周囲がざわつく。
何せ、突然家から飛び出してきた男が叫び出し、しかもその男が抱えるのは血まみれの少女である。
これで何かしらの事件も疑わない、なんて事はないはずだ。
周囲に集まる人達からの視線が集まる。
事態を見て取って、人々は各々の行動を開始する。
阿久津の奇行に笑う者。
立花の血を見て騒ぐ者。
携帯端末を片手に動画や写真撮影を始める者。
SNSで、この事を嬉々として友人や知人に知らせる者。
少し近づいて、立花の傷口をまじまじと見つめる者。
顔を顰める者。逃げだす者。無視する者。
全く関係無い事をしだす者。
……その反応は様々だった。
しかし、そうにも関わらず。
いつまでも救急車を呼んでくれる素振りがない。
誰もが携帯端末を構えているものの、阿久津の声を聞く気配がない。
それは、驚くべき事だった。
いわゆる……“傍観者効果”というものだろう。
集団心理の一つであり、傍観者が多いほどより強力に起こり得る現象だ。
発生する要因は主に三つ。
『責任の分散』、『評価の懸念』。
そして『多元的無知』だとされている。
が、詳しい説明などはこの際、省こう。
簡単に言うのなら要するに『これだけの人がいるのなら誰かがやってくれるだろう』。『別に俺がやらなくても良いはずだ』。……そういった考えが集団に蔓延する事である。
阿久津がどれだけ叫んでも、その“声”が集団に届くなら、届いた一人一人の人間が『きっと俺以外の誰かしらが救急車を呼ぶだろう』といった考えにたどり着き……結果、誰も何もしない。
そういった悲劇が起こるのだ。
もしもこういった現象を避けたいのであるのなら、それはAEDで助けを求める際と同様に、誰か一人を指名して『救急車を呼んで下さい』と頼む必要があっただろう。
しかしそんな事態を、阿久津は想定していない。
そして同様に集団も、まさか自分達が“傍観者効果”などといった現象に陥っているなどとは考えない。
結果、事態の収拾を誰もが望んでいるはずなのに。
社会全体として他人への無関心さ。無責任さが増加している訳でもないのに。
こうやって、……簡単に地獄は発生する。
「誰か、誰かぁ!!」
泣いて叫ぶ。
しかしそれでも結果は無い。
事態は何も変わらない。好転しない。
今この瞬間、阿久津はこれほどまでに“自分が携帯を部屋に置いて来てしまった事”を恨んだ事は無いだろう。
「お願いします!! お願いします!!」
腕の中で、立花が弱っていく。
衰弱し、生気を無くしていくのがよく分かる。
それなのに、阿久津には泣いて叫ぶ事しか出来ない。
他人に状況を委ねて、ただ事態が好転してくれる事を願う事しか叶わない。
何故。
どうして。
自分にはこれほどまでに力が無いのか。
これほどまでに無力なのか。
……これほど恨んだ事ない。
「なぁぁんでだ、よぉぉぉぉおおおおおおお!!!!!!」
そんな滑稽な阿久津の姿を見て、影人の女性が笑いながら顔を出す。
大声で、腹を抱えて笑っているはずなのに……周りの誰もが彼女に反応を示さない。
それはまるで、“彼女が誰にも見えていない”かの様である。
「……なんで、こんな酷い事をするんだよ」
阿久津は女性を睨みつける。
いつまでも好転しない鬱憤まで乗せて、グワンッと女性のいる方向へと振り返る。
しかし、それを彼女は意に返さない。
それどころか寧ろ、阿久津の反応を受けて更に口角を吊り上げた。
「まさか、とは思ったんだけど……本当に“今の私”が“見えている”なんてねぇ~」
くつくつと思わぬ収穫に目を輝かせ、女性は手を細い槍に変化させると、それを阿久津の顔に向けて射出する。
「……!?」
しかし、その速度は阿久津の目でも追える程。
しかもその射出された槍でさえ、阿久津が顔を軽く捻れば当たらない様なものだった。
当然、阿久津はその槍を難なく躱す。
が、阿久津が槍を躱した事を女性はしかと確認して頷いた。
「やっぱり~。……アンタさぁ、“影耐性”を持ってるね」
女性が顔を歪めた――その瞬間だった。
阿久津が躱した影の槍が変形し、阿久津の首元へと絡みつく。
「……!??!」
突然の影の動きに、阿久津の思考は白くなる。
加えて、ギチギチと影の締め付けが増すにつれ、今度は酸欠で視界までもが点滅する。
「ツイてる、ツイてる、超ツイてる!! 私ってば超強運!! “真城晴輝”がこの街に来たと思ったら、まさかのまさかで“影耐性”持ちまで見つかるとかぁ~、キャ~、これは“黒点”様への貢ぎ物に事欠かない!! 新世界での私の地位は、約束されたも同然かしらねぇ~~!!!!」
女性は自身の肩を抱きしめ身体をくねらせる。
阿久津には分からない言葉を吐きながら、恍惚の笑みで阿久津へと目を向ける。
その表情はさっきまでの無関心さとは程遠く、打って変わって興味の対象へと一転する。
……正直何も嬉しくない。
「ぐ、ぎぎ……」
首元へと巻き付いた影を必死で取り払おうと試みるも、阿久津の手は空を掴むのみ。
どれだけ必死に藻掻いても、影に触れる事が叶わない。
このままではマズイ。
気絶する。
そうしたらどうなるか?
立花は死ぬまでこのままか?
……それだけは出来ない。
もしも周りの人達が使えないというのなら、阿久津が地を這ってでも立花を病院へと連れて行かねばならぬのだ。
こんな所で終われない。
意識を絶やす訳には……。
阿久津の視界が激しく点滅する。
もうこれ以上の意識が保てない。
「――く、そ……ぉ……」
「てめぇら、一体何してる!!」
突然の事だった。
一人の男が、空から降ってくる。
そうして影人の女性へ向けて蹴りを放つと、次いで近くの人間を指さした。
それは、エプソンを付けた主婦だった。
「救急車を呼んでくれ!!」
「え、でも……もうきっと誰かが」
「どうせ誰も呼んでねぇんだろうが、早く呼べ!! じゃねぇと俺が『血まみれの少女を見殺し』つって、てめぇらの顔写真拡散すっぞ、ゴラァ!!」
男は言い切るだけ言い切ると、蹴り飛ばした女性の方へと目を向ける。
女性は既に立ち上がっていた。
しかもそれだけではなく、その男の顔を見て“影狩り”が来たのだと察すると、影の触手を動かして、捕らえていた阿久津を自身の手元へと抱き寄せる。
突然首を引っ張られ、潰れた蛙のような呻き声を出しながら、阿久津の身体が宙を舞う。
その身体を女性はすぐにキャッチすると、小脇に抱えて逃走を開始する。
「待てや、てめぇ!!」
女性を、男が追いかけて消えていく。
それは珍妙な光景であっただろう。
影人の女性を一般人は見れていない。
故に、騒いでいた阿久津が突然藻掻き苦しみだしたと思ったら、別の男がいきなり乱入して『救急車を早く呼べ』と怒鳴りつけ……、その後に阿久津が宙を舞う様に行動を起こしたと思ったら、不思議な体勢で滑る様に移動していく阿久津を男が追いかけて消えていく。
という一連の流れであったのだから。
後に残ったのは少しの静寂。
そして、その後にザワザワとどよめきが広がって……その中には、救急車を手配する主婦の姿があるのだった。




