第2章
レゼルブ
スピリタスという国は、大きな二つの山脈が触れ合うわずかな隙間に広がっている。ほとんど裾野というものをもたない、険しい山々は国の両側にそびえ、この国への他者の侵入を拒んでいると同時に、この国自体がより広い世界を求めて発展することもまた、拒んでいた。
だが、そこに住む人々はそうした環境を嫌うよりも、穏やかな気候と、豊かな大地に支えられた、この小さな国の落ち着いた生活を楽しむことの方が重要であった。同時に、この国の場所が旅する者にとって他への迂回を困難にさせていることが、この国のささやかな生活を安定させるもう一つの理由にもなっていた。
そうして、ここに国ができ、スピリタスという名をもって以来、この国に住む者はおよそ争い事とは縁がなかった。
他の様々な国と同様に、この国にも国を守護する魔法使いが、いつの頃からか険しい山の奥に一人住み着いていた。
他の国々となんら変わることなく、この魔法使いも、国王や国の人々が、何かを求めてある時は個人的に、ある時は国を代表して願い事をする時以外に、彼らが魔法使いと知り合う機会は少なかった。これらの魔法使いは、普段はまったく人と交わることはなく、何事もなければそのまま人知れず他界することも、希ではなかった。
そして、その時まで、北の大魔女レゼルブルもまた、たまたまスピリタスに住み着いただけの、そんな魔法使いの一人に過ぎなかった。
だが、ある日突然、レゼルブはこの国のささやかな王宮に現われると、驚く国王夫妻を始め、城の主だった者と王家の人間をことごとく石に変えてしまった。
この世界のこの時代、俗に魔法使いと呼ばれる超常力を持つ者達は三つのグループを作っていた。
すなわち、魔術師・魔道師・祈祷師であり、それらは独自のルールと世界観に支えられた別々の制度と組織を持っていた。ただ、この時代の区別はそれほど明確ではなく、魔術師の弟子が師匠から離れて魔道師を名乗ったり、行く先々でそれらの名を使い分ける者も少なくなかった。
ちなみに、魔道師の女性を魔女と呼び、祈祷師の女性を巫と呼んだが、なぜか魔術師には女性と男性の区別はなかった。
そして、それぞれのグループにはその住んでいる場所から、東西南北のに分けられる四人の長がいた。
ニッカは南の大魔術師バランタインの弟子であったが、大魔術師と呼ばれる者は、この他にもそれぞれ北と西と東に後三人づついることになる。
そして、その四人の大魔道師の一人、北の大魔女レゼルブは、スピリタスの王宮で部下の報告にいきり立っていた。
「たかが小娘一人に、何を手間取っておる!」
ただ一人、魔女の前に片膝をついてその叱責を浴びていた兵士は、魔女の周囲にうごめく奇怪な影におびえながらも、恐る恐る抗弁した。
「し、しかし、姫、いやあの娘は、手ごわい助っ人を求めまして‥‥‥」
「言い訳は止さぬか!その方ら、よもや王女と思って手心を加えたのではあるまいな?」
「めッ、めっそうもない!そのようなことは決して‥‥‥」
「ま、よかろう。その方らの手に余るというなら、我が僕達に直接手出しさせるまで‥‥‥さて、王女はどれほど正気を保っておられるかな?」
シューシューと、まるで蛇の呼吸音のような不気味な音を立てて、レゼルブの周囲を取り巻く影のような物が、一段とその暗さを増し、辺りに広がっていった。
その威圧感に毒気すら感じて、兵隊の隊長は脂汗をジットリとかいていた。
「なんとしてでも、あの娘とあの娘の持っている短剣がいる‥‥‥よいか、今一度チャンスをやる。こんどこそ、あの娘を捕らえるのだ。王とその家族、そして何より自分達の身が可愛いのであればな!」
隊長はただちにレゼルブの前から姿を消し、兵士達をまとめて場外へと飛び出して行った。
正直なところ、こんな禍々しい女の傍にいるよりは、城の外で走り回っていた方が良いというのが、この隊長の本音であった。
「さて、そうは言ったものの、あの剣士、なかなかの手だれと見える。兵士十数人が、一度にやられた上に、全員が気を失うだけとは‥‥‥やはり、あの者達にはチト荷が重いか‥‥‥」
そう言いながら、レゼルブは自分が手で撫でていた影に、うなずいてみせた。
「そうかい、そんなに行きたいのかい、いいよ行っといで。だけど、あの娘だけは生かして連れてくるんだよ。後は、お前の好きにしていいからね‥‥‥」
その言葉に答えるように、影の一つがスルスルと伸びて彼女の体にまとわりつき、その頬に触れるようにして外へと離れた。
「あまり、悠長なことはしていられない。西と東に気付かれない内に、何とかしなくては‥‥‥」
不安気な彼女を慰めるかのように、残りの影達が彼女にまとわりついて行った。
スピリタス
およそ、生身の人間が相手であれば、その血を見ない限りグレンは何の心配もしていなかった。
事実、彼らを街の城壁の外で待ち伏せていた十数人の兵隊は、白馬に乗ったグレンにアッという間に蹴散らされていた。
「殺したのですか?」
やや顔をこわばらせて尋ねるシェリーに、グレン皮肉っぽく答えた。
「それができりゃ、苦労はしてない!」
「なんだ、もう終わっちまったのか」
そう言いながら、小さな茶色い馬でトコトコと駆けつけたニッカは、言葉ほどがっかりした訳ではなさそうだった。
「何言ってやがる!終わったから出てきた癖に!!」
「あッ、そりゃーひどいな、それは言いがかりだよ」
「ふんッ、どーだか、魔法使いの弟子はズル賢いからな!」
いつもなら、グレンの悪口など毎度のことと受け流すニッカであったが、今日はいつになく歯切れが悪く、なにやら口の中でモグモグと抗議らしい言葉を発してはいたが、結局妙に顔を赤らめて馬の首を城門の方へ向けた。
「なんだあいつ、何かテレてやがる、いつもながら変な奴だ」
「あの、あなた方って仲が悪いの?」
「そりゃまた、遠慮のない質問だな」
「素朴な疑問よ」
「そうか、だがな、俺達の仲が良いのか悪いのかなんて、俺達に分かる訳ないだろう!?」
「そうね、無意味な質問だったわね」
「おーい、なにごちゃごちゃ言ってんだ?城門が閉まっちまうぞ!」
城門の門番に、簡単な睡魔の術をかけたニッカが二人を呼んだ。
「さーて、ハデなお迎えをしてくれた上は、どんな歓迎が待っているやら‥‥‥ともかく、行ってみますか!」
グレンが白馬を駆けさせ、とにもかくにも三人はスピリタスの街に入ったのだった。
城門を入ると街道が真っ直ぐに伸び、左右に街が広がっていた。
人の往来は多く、街道に面した店先には活気が満ち、そのようすはどこにでもある田舎の城下町の姿と、なにも変わるところはなかった。
「いいえ、表通りの賑わいは、すべて通りすがりの旅人と、その旅人を相手にする、これも他国の商売人達のおかげです‥‥‥」
そう言うシェリーは、グレンとニッカを街道から離れた裏通りを、この国の住人が住む家並へと案内した。
その街は、文字通りゴースト・タウンと化していた。
「こいつは‥‥‥一体‥‥‥」
人っ子一人、いや、猫の子一匹と言えど動く生き物のないその光景は、吹き抜ける埃っぽい風と一緒になって、既にそれだけでニッカとグレンの心をうそ寒くさせた。
だが、彼らが心から怯えたのは、それだけが理由ではなかった。
「おいッ、グレン!その像に触れるな!!」
何気なくもたれようとしたグレンの動きを、ニッカが鋭い口調で封じた。
「なんだ、どうした!?」
「よく見てみろ、その像だけじゃないぞ!」
言われてグレンは、よくよく周囲を見回した。確かに、まるで博物館か美術館のように、そこかしこに人の姿をした石像が立っていた。
いや、それらの石像は、単にそこに置いてあるのではなかった。まるで、在りし日の街の一日を、忠実に再現するかのように巧妙に配置してあるのだった。
「こいつは、まさか‥‥‥」
思わずグレンは、自分が手を置こうとした像から後退さった。だが、ちょうど彼が下がった先に、家のベランダが張り出していた。
「痛てッ!なんだこいつは!?‥‥‥ひょっとして、猫か?」
ぶつけた頭を押さえて振り向いたグレンは、そこに今まさに何か見つけたのか、大きな口を開けて飛びかかろうとしている、猫の姿があった。
「足元を見てみな‥‥‥」
ニッカの口調は、淡々としていた。グレンが足元に視線を落とすと、そこには粉々に砕けた石の塊があった。よく見ると、その中の一つは明かに小鳥の頭の形をしていた。
「こいつが、そうなのか?」
あえて具体的な描写を省いたグレンの言葉は、それだけで充分に他の二人に通じた。
「石化の術だ‥‥‥やったのは、間違いなくレゼルブだ。他の下級魔導師じゃ、この術はムリだ‥‥‥」
ニッカの言葉に、シェリーは力なくうなずいていた。
「この事を知っているので、街の人達は裏通りに入ろうとしないのです‥‥‥あなたは魔法使いでいらっしゃるのでしょう!?なんとか、ならないのですか!」
「ムチャ言わないでくれ、格が違いすぎる‥‥‥気持ちは、わかるけど‥‥‥」
「では、レゼルブを倒せば、元に戻るのですか?」
スピリタスの末の姫は、すがるような眼差しで魔術師の弟子を見つめた。残念ながら、彼にとってその表情は眩し過ぎた。
「理屈では、そうなるはずだけど‥‥‥」
「では‥‥‥」
だが、恐れを知らない姫君は、自分の願いを口にすることはできなかった。グレンが、乱暴に二人の会話を中断したのだった。
「オイッ!気を付けろ、囲まれたぞ!!」
そう言って、グレンがスラリと剣を抜くと同時に、バラバラと兵士達が現われた。
「これはこれは、シェリー姫様にはごきげん麗しく‥‥‥」
その声の主を、この国の王女はキッと見据えた。
「衛兵隊長!そなた、裏切ったのですか!?」
「裏切ったなどと聞こえの悪い。私に任務は王宮の主をお守りする事、私はその任務に忠実であるに過ぎません‥‥‥」
うら若い、根が正直なだけで苦労知らずの娘に、国王を始め王宮と国そのものを人質にとられたこの隊長の秘められた苦悩など、分かるはずもなかった。
「世迷い事を‥‥‥そのような詭弁、聞く耳があると思うか!」
しかし、王女の強がりもここまでだった。だいたい、そう言うシェリー自身が剣を構えるグレンの背中に隠れながらでは、迫力がないことおびただしかった。
「姫は殺すな!」
隊長の命令は、簡潔にして要領を得ていた。敵の出鼻をくじこうとするグレンの気配を感じて、ニッカが制した。
「グレン、ここで戦うな!」
「えッ!?」
そこに一瞬の隙を感じて、兵士がグレンに踊りかかった。しかしグレンは、シェリーの身をかばいながら器用にその攻撃をかわした。
兵士の一人が、勢い余ってグレンが背にしていたベランダにぶつかった。そのショックで、大口を開けていた猫の像が音もなく落下し、地面にぶつかって粉々に砕けた。
「ヒィーッ!」
シェリーが、声にならない悲鳴を上げた。
とっさに、グレンは周囲を見回した。そこかしこに置かれた、人、人、人の像‥‥‥ここで戦う限り、それを避けて動くことは不可能だった。
「じょ、冗談じゃない!どうしろって、言うんだ!?」
グレンが叫び、兵士達が一斉に飛びかかってきた。
ニッカは、一歩前に出ると水晶玉を地面に向かって投げつけた。
「火炎と煙!」
その鋭い気合いを耳に出来たのは、恐らくグレン達だけであったろう。一瞬、あたりは炎と煙に覆われ、兵士達はニッカ達に襲いかかるどころか、自分の身をかばうのが精一杯であった。
「恐れるな!目眩ましだ!!」
隊長の声に、兵士達が我に返ると、あたりは元のうそ寒い街並のままであった。ただ、彼らが狙う三人の姿だけがなかった。
「まだ、遠くへは行っていないはずだ!急げ!!」
隊長の叱咤に、兵士達は街並中を駆け抜けて行った。
彼らに踏みつけられて、砕け散った猫と小鳥の像は、どちらとも見分けのつかない砂の塊となり、吹き抜けた風によって、お互いに交じり合いながら舞い上がった。
「遅かったか‥‥‥」
いつの間に現われたのか、その砂塵を片手に受けとめた人影は、口の中でそうつぶやくと、意味不明の呪文を唱えた。
頭からスッポリとフードを被り、マントで全身を覆ったその人影の肩に、砂塵は舞い上がった。そして、それは再び一つの形になった。
「ミャーオ!」
自分を再生してくれた人の肩に止まり、一声高く鳴いたそれは、猫の体に鳥の翼と尾を持っていた。
「待っておいで、お前達をそんな風にした仇は取ってやるからネ‥‥‥」
「ミャーオ!」
そんなつぶやきは、その肩口に止まった鳥猫にしか聞こえなかった。
そして、それに対して答えた鳴き声があたりに響いた後には、ただ埃っぽい風だけが街並の中を吹き抜けるだけであった。
まるで、はじめからそんなものは存在しなかったように、マントとフードを被った人影も、鳥猫の姿も、その景色の中のどこにもなかった。
水晶の剣
石と化した人影の中を、懸命にニッカ達の乗る馬は駆け抜けていた。
「じゃ、ありゃ火竜じゃねェのか?」
「精霊の力を借りない、あれが本当の魔術さ!もっとも、俺が覚えられたのは、あれ一つだけだけど‥‥‥」
「そんなことはどうでもいい、つまりありゃ単なる目眩ましで、兵隊はすぐに気が付くわけだろう!?」
「そう言うこと」
「なーにが、そう言うことだ!これじゃ、らちが明かないじゃないか!!なんとかならんか!?これじゃ、街を抜ける前にとっ捕まるのは間違いないぞ!」
「私をおいて行って下さい。そうすれば、あなた方に危害は加えないはずです‥‥‥」
グレンの腕の中で、シェリーが健気に訴えた。グレンは、自分の馬の速度を落とすことなく、隣を走るニッカを振り返った。
「どうする?」
「いい案だな。どっちにしても、俺達に関係はない訳だし‥‥‥お姫様には気の毒だが‥‥‥」
その、ニッカのもっともらしいうなずき方が、シェリーの勘に触った。
「なによ、意気地無し!それでも魔法使いなの!?こんな可憐な女の子を魔女の生け贄にして、それであなたは平気なの!?こーいう時はネ、嘘でもいいから、そんなことが出来るか!って言ってみるもんでしょう!!」
シェリーの剣幕に、グレンが肩をすくめた。
「だ、そうだ‥‥‥」
「じゃあ、どうすりゃいいのか、そのお姫様に聞いてくれ!」
「あら、それを考えるのは可憐な乙女の仕事じゃないわ!ねェ、剣士様。そうですわよネ!?」
同意を求められて、グレンは苦笑するしかなかった。
「だ、そうだ‥‥‥」
「誰が可憐な乙女だか、聞いてくれ!」
それが、魔術師の弟子の返事だった。
「とにかく、どこか隠れるところはないか?このままじゃ、マジで身が持たない‥‥‥」
グレンの問いに、シェリーは前方を指さした。
「この街の外れに、元の騎士団長が引退して暮らしています。父とも親しい方ですので、よもや裏切られるとは思えません」
「だ、そうだ‥‥‥」
グレンはそう言って、ニッカを振り返った。今度はニッカが肩をすくめた。
「他に方法がないんだから、仕方がない‥‥‥」
そう言ってから、魔術師の弟子は馬を寄せてグレンの耳元に聶いた。
「このお姫様の信頼はともかく、油断はしない方がいいんじゃないか?」
「だろうな」
グレンもうなずいた。もはやこの国で、この王女の味方がほとんど失われていることを、当の王女だけが気付いていなかった。
だが、ニッカとグレンの懸念に反して、彼らは無事に街外れの元騎士団長の家に招き入れられた。そこは、元騎士団長という身分にしては極端に質素な、小屋と言ってもいいような家であった。
「これじゃ、罠の張りようもないな‥‥‥」
一目で全体が見渡せるその小屋を見て、グレンはつぶやいた。
「念のため、結界だけは張っておくよ。もっとも、レゼルブにとっちゃなんでもないだろうけどね‥‥‥」
ニッカの言葉にグレンがうなずいた時、すっとんきょうなシェリーの声が響きわたった。
「キャーッ、テキーラ!久しぶりッ、お元気ーッ!!」
「こりゃ、こりゃ、嬢様!いったい、どうしなっすった?こげんなところへ‥‥‥まッ、入ってくんなっせ」
「ん、モウ!すっかり、おじいちゃんしちゃって!腰まで曲がったの?」
家の入口で、無邪気に騒ぐ娘とそれに目を細める老人。とてもではないが、命が危険にさらされている緊張感など、求めようはずがなかった。
「ピクニックじゃ、なかったと思うんだが‥‥‥」
剣士のつぶやきに、魔術師の弟子は唇の端で笑って見せた。
「似たようなものなんじゃないか?あのお姫様にとっては‥‥‥」
「違いない」
もちろん、彼らの無責任な会話など、当のお姫様に聞こえるはずもなかった。
「ニッカ、グレン!なにしてるの?早くいらっしゃーい!!テキーラが食事の用意をしてくれるわ!手伝って差し上げてちょーだい!!」
自分が置かれた立場と言うものを、彼女は理解しているのだろうか?いささか深刻な疑問を持ちながら、ニッカとグレンは顔を見合わせてため息をつくのだった。
「ホウ、ではこの方達があの魔女の手から、このスピリタスを救って下さると?」
「そりゃもう、なんて言ったって、こちらのグレンは古今無双の剣の使い手でだし、こっちのニッカもこれで大魔法使いなんだから!!」
シェリーの無責任な大言壮語に、出された食事を掻き込むことに忙しかったニッカは、思わずむせ返った。ほとんど食事は採らず、もっぱら自家製のワインを飲んでいたグレンも、もう少しで吹き出すところだった。
「おいおい‥‥‥」
しかし、訂正を求めるニッカの呼掛けは無視され、シェリーは自分の名調子に、自分で陶酔していた。
「だいたい、魔女だかなんだか知らないけど、お父様から王位を譲られたとかなんとかうまいこと言っても、王位継承の証であるこの水晶の剣は私がここに持っているんだから、いくら王宮で威張りくさっていても、あの婆さんは王様でも何でもないんだから!」
そう言ったシェリーは、いきなり椅子の上に立ち上がると、片足をテーブルにどっかと掛けて、懐から取り出した剣を頭上にかざした。その短剣は、部屋の明りを反射して淡い輝きを放った。
「おいッ!このお嬢さん、酒でも飲んでんのと違うか?」
ニッカの言葉に、グレンが彼女の手元のグラスを素早く掴んだ。
「まいったな、えらく強いアブサンだぜ‥‥‥」
「にゃによ、にゃにか、文句ある!?」
そう言いながら、見おろす彼女の上半身は不規則に搖れていた。
「こら、ニッカ!にゃにをふにゃふにゃしている!?男なら、シャキッとしなさい、シャキッと!」
「アカン、完全に目が座っている‥‥‥」
ニッカの言葉と同時に、安定を失ったシェリーの体はひっくり返った。
「アッ!」
とっさにグレンが持っていたグラスを投げ捨て、落下してきたお姫様の体を抱き止めた。
グレンが投げ捨てたグラスと、シェリーの手からこぼれ落ちた短剣は、見事な時間差キャッチでニッカが受け止めた。
「あにゃーッ、剣士様‥‥‥いけません、そんな、私たちはまだ結婚の約束もしていないのに!でも、いいわ、剣士様がお求めになるのなら、私どうなっても‥‥‥」
そんな誤解に基づく勝手なセリフを並べ立てながら、シェリーは思わせぶりに目を閉じて‥‥‥そして、そのままスヤスヤと寝入ってしまった。
「やれやれ、とんでもないお姫様だ‥‥‥おい、どうした?」
元騎士隊長の爺さんに、シェリーを任せたグレンが振り返ると、ニッカが熱心にシェリーのかざした短剣を見つめていた。
「こいつは、とんでもない掘出し物かもしれないぞ‥‥‥」
グレンに受け止めたグラスを渡しながら、ニッカの目は異様な輝きを見せていた。
「ふーん、それで?」
興味無さそうに、グラスの中身を飲み下しながら、グレンが先を促した。そんなグレンにニッカは手にした短剣を示した。
「刀身は上質とは言っても、ただの水晶だから実用品じゃない。儀式に使う装飾品の類だ。だが‥‥‥」
「だが?」
「見てみろ、この刀身の中に文字が浮かんでいるだろう?」
「ああ、ミミズがのたくったようなやつが‥‥‥いや、まてよ、こりゃ神殿なんかに書いてある‥‥‥」
「そうだ、死滅した古代ロブン文字‥‥‥しかも、これは封印の文句だ!」
「と、言うと?」
「この短剣には、失われた古代のなにかの力が封じ込められている!」
熱を帯びるニッカの表情とは対象的に、グレンはまるで興味が無さそうだった。いや、事実彼にはまるで興味がなかった。
「ふーん、それで?」
「分からないのか?この封印を解くことが出来れば、失われた古代の偉大な力を自分のものに出来るんだぞ!」
「で、解けるのか?」
「いや、それは、研究してみないと‥‥‥」
「で、その偉大な力って、どんな力なんだ?」
「それは‥‥‥この短剣について、なんか資料がないと‥‥‥」
「つまり、なーんにも分からないってことじゃないのか?」
「今のところは‥‥‥」
「そうだな、今のところは、何の意味もないな。そして、こいつはお前さんのものじゃない」
「そッ、それは!」
「ともかく、こいつは持ち主に返す。そうだろう?」
それがグレンの結論だった。ニッカはその結論に大いに不満であったが、別の意味で大いに賛成する者がいた。
「その通り、その水晶の剣は、こちらに返していただこう!」
グレンは驚いて、声のした方に振り向いた。不覚にも、彼は全く気配を感じられないでいたのだった。
そこには、シェリーをベッドへ運びに行った元騎士隊長の姿があった。
「そいつは、お前様方が持っていても何の役にも立たぬ‥‥‥もっとも、あの小娘が持っていても同じことだがな」
それは、元騎士隊長の年老いた声ではなかった。かと言って、若々しいハツラツとした響きもなかった。どちらかと言うと暗い、地の底から這い上るような不気味さがある声だった。
「貴様‥‥‥何者だ!?」
そう言った瞬間、グレンは剣を引き抜いていた。そして、手にしていた水晶の剣をニッカに託そうと、振り返った。
「ニッカ‥‥‥どうした!?」
ニッカは、膝をついて呻いていた。
「ふふふッ‥‥‥お友達には、薬がよく効いたようだ。まったく、お前さんといい、あの小娘といい、ほとんど食事をしないで酒ばかり飲んでいるから気が気じゃなかったがな。どうやら、後はお前さんだけのようだ‥‥‥」
既に老人は、曲がっていた背筋を伸ばし、シャンとした姿勢でグレンを見据えていた。
「ニッカに何をした?シェリーはどうした?この家の本当の主は!?」
「ほう、見上げたものだな。自分のことより、仲間や他人の心配をするとは‥‥‥ふふふッ、心配には及ばん。食事に混ぜたのは、単なる眠り薬だ。手ごわいと聞いていたのでな、むしろ単純な方が引っかかってくれるんじゃないかと思ったが、なかなかうまくいかんな。ああ、娘はわが主に届けた。それと、この家の爺のことも心配には及ばん、もともと嫁いだ娘のところに出かけていて留守だったのさ!さて、では安心したところで消えてもらうとするか!!」
たちまち、老人の姿は消え去り。闇が煙のように広がり、蛇のような形になってグレンに襲いかかった。
グレンは、身軽にその動きをかわすと、蛇の胴体とおぼしきところに剣を振り降ろした。だが、何の手応えも得られなかった。
「むだだ、生身の人間とただの剣では、我が身に触れることなどできはしない。観念して、その水晶の剣を渡せ。そうすれば、命だけは助けてやる」
「そう言われて、助かった人間の話は聞いたことがないな‥‥‥」
「ならば、死ね!」
次の攻撃も、グレンはかろうじてかわした。しかし、攻撃する方法がなければ、どっちにしろ時間の問題だった。
「だから、こういうヤツの相手は嫌だったんだ!」
グレンはそう叫んでみたが、どうにもなるものではなかった。再び攻撃をかわしたが、闇の一撃がかすめたとは言えしたたかに彼の腹を打った。もはや、彼に次の一撃をかわすことは出来そうになかった。
「グレン!逃げろ、その剣を持って!!」
ニッカの叫びが、グレンの背中で起こり。水晶玉が、闇の眼前で弾けた。
「グワッ!」
初めて闇が異様な声を上げて、たじろいだ。
「ニッカ!」
振り返ったグレンは、水晶玉を投げつけた態勢のまま床に這いつくばるニッカを抱き起こした。
「早くしろ、俺にはこいつを押さえておく力はない‥‥‥それより、その剣を渡すな、それを持っている限り、俺とあのお姫様の命は引き換えになる‥‥‥頼む!」
「そ、そんなこと言ったって‥‥‥」
その時、再び闇が異様な声を上げた。振り返ったグレンは、闇がその力を回復させつつあることを知った。
「わかった!いいか、無茶するなよ!!」
「できるかよ、こんなんで‥‥‥」
ニッカは弱々しく笑った。
「クソッ!いいか、化物!こいつと、あのお姫様に何かしてみろ、この短剣は二度とお前達の手には入らないからそう思え!!」
そう叫ぶと、グレンはうごめく闇を一睨みして立ち上がった。そして、後をも見ずに全力で外へ駆け出した。
「ったく、かっこつけることだけは忘れないんだから‥‥‥」
ニッカが駆け去るグレンの背中を見つめながらそうつぶやくと、背後の闇がその力を取り戻した。
「おのれ!剣を取り戻したら、ズタズタにしてやる!!待っていろ!」
言うと同時に、闇は再び蛇の形に変わり、その尾でニッカの背中を叩きのめすと、グレンを追って外へ出て行った。
「勝手にしろ‥‥‥」
誰にともなく、そうつぶやいたニッカの意識は、そのまま遠くなって行った。
西のロゼ
人影がすべて石像と化してしまった無人の街を、愛馬の背に乗ったグレンが疾駆して行った。だが、彼は自分の後ろから着実に近づいて来る禍々しい気配を感じて、冷たい汗を拭うこともできなかった。
ともかく、街の中心。この魔女の虜となった国の中で、唯一人気の集まる街道の表通りに逃げ込むことだけが、彼の希望であった。
もっとも、たとえそこへ逃げ込んだとしても、この魔女の僕が遠慮する気がなければ、そのわずかな人の賑わいさえも、この国の他の街と同様の悲劇に見舞われることに違いはなかった。
しかし、今のグレンにはそこまで責任を持っていられる余裕など、あるはずもなかった。
「まったく、ついてないぜ!ほんと!!」
彼のために全力で駆ける白馬以外、聞くもののない何度目かのグチをグレンは口にした。
小道を曲がり、大きな通りに白馬は飛び出した。街道までの最短距離を、主に示されるまでもなくこの白馬は一直線に進んでいるのだった。
直前に佇む石と化した人影を飛び越えた白馬が、背中の主が振り落とされそうになる急ブレーキをかけた。
「さァ、選べ。全身の骨がバラバラになるまで締め上げて欲しいか、それとも全身の血が流れ出すまで切り刻まれたいか、好きな方を!」
大通りの中央にとぐろを巻くようにして、その闇はグレンの方に鎌首をもたげていた。
「冗談でしょう!どっちも、願い下げだな!!」
そう言った次のグレンの行動は、完全に魔女の僕の意表を突いていた。
グレンは、踵で強く愛馬の腹を蹴ると、一気に闇に向かって突っ込んで行った。
「こしゃくな!」
闇が乾いた空気を切り裂いた刹那、グレンの愛馬は闇の動きのわずかな隙間に飛び込んで行った。この人馬一体の手練の大技で、グレンはとにもかくにも、闇の一撃をかわした。
「バカめ!逃げきれると、思うてか!?」
背後で、通り一杯に広がった闇の声が、グレンの背中を脅かした。
「思っちゃ、いないけどネ!」
事ここに至っても、どうしても軽口を叩いてしまうのは、グレンの救い難い悪癖であった。
その時、彼の操る馬は、一瞬自分の目を疑った。確かに、その時まで誰も存在しなかった路上に、フッという感じで人影が現われたのだ。
馬の反射神経は、背中の主のそれを上回っていた。主がその人影に気付き、回避を指示するよりも遥かに早く、白馬は軽がると宙に舞っていた。
グレンがその事態に気付いたのは、馬が着地してからであった。
「還えれ!」
気合いのように、発せられたその言葉の後に続く音声は、グレンに理解することは出来なかった。
大通りの中央に立ち、四方に広がりながら迫り来る闇に対し、そのフードとマントで全身を覆った人影は、両手を広げて立ち塞がるような格好になった。
「何を!?」
と、言いながらグレンが愛馬の首を返して、その光景を目にした時、その人影の両手から淡い光が立ち上り、闇が自分に立ち向かうものに対して、怒りの帯を突き立てようとしたところだった。
本当は、一瞬の出来事であったはずなのだが、グレンにはその一連の動きが、ひどく時間が掛かって見えた。
闇が人影を貫く直前、発光する両手が人影の前で合わさり、闇に向かって光の奔流を吐き出した。
形容不能の音声を発して、闇が光りに包まれ、ゆっくりとその色を変えて行った。やがてその形は崩れ、路上にボタボタと落下した。
一瞬前までの禍々しい闇は、粘土のようなモノにその姿を変え、やがてそれは水分を失うかのように干涸び、崩れ落ち、急速にその姿を失って行った。
「えッと、助けてもらったことになるのかな?礼を言わなくちゃならないだろうな‥‥‥」
そんことを言いながらも、グレンは相手に対して、礼を取るべく馬の背を降りたのだった。
しかし相手は、グレンの言葉を受けて無愛想に言った。
「礼の必要はない。別に、貴殿を助けるつもりではなかったからな。言わば、成行きだ‥‥‥」
「そうは言っても、礼を言っておかねば俺の気が済まない。助けてもらって、感謝する。俺はグレンという‥‥‥」
そう言いながら、グレンは軽く頭を下げた。それは剣士の作法にかなう、正式な感謝の表現であった。
相手は、仕方がないという風に心持ち肩を落とし、ゆっくりと振り向いた。
「仮にも、剣士に正式な礼を言われて、名乗らぬのは失礼になるだろう‥‥‥」
その時、一陣の風が乾いた街並を吹抜け、つい先程まで魔女の僕であった土くれを巻き上げた。そして、振り返った相手のフードとマントを見事に跳ね上げた。
「私の名はロゼ、西の大魔導師メタクサの一番弟子だ」
薄汚れたフードの下から、乾いた風にたなびく長い髪が現われ、さらに飾り気のない分厚いマントの下から、均整の取れた女性の体が現れたことは、グレンに新鮮な驚きを与えた。
「どういういきさつかは知らぬが、これ以上、北のレゼルブには関わり合いにならぬことだな。では‥‥‥」
そう言う彼女の肩に、どこから現われたのか、猫の顔と体に鳥の翼と尾を持つ、奇怪な生き物が舞い降りた。
「そうしたいのは山々なんだが、そうも行かない‥‥‥そうだ、西の大魔導師の一番弟子と言うからには、あの役立たずとは違うはずだ。これを見てくれないか‥‥‥」
そう言いながら、グレンは預けられた短剣をロゼに見せた。
興味無さそうに視線を走らせたロゼは、ニッカも気が付いたロブン文字を見るなり顔色を変えた。
「これを、どこで!?」
「いや、話せば長いことなんだが‥‥‥」
グレンが、この国の末の王女との関わり合いを説明しようとして、口を開きかけた時、彼は自分とロゼの背後に殺気を感じた。
同じ気配を感じたロゼが唇に笑いを浮かべた瞬間、グレンの剣が腰から離れ、ロゼの唇から微かな気合いにも似た呪文が流れた。
彼らに襲いかかった兵士達は、自分達が完璧な間合いとタイミングを計ったことに自信を持っていたはずだった。だが、彼らが気付いた時には彼らの標的の位置が完全に入れ替わり、しかも彼らの背後に現われていた。
最初の数人は、何が起こったのか理解する間もなく、首と胴とが離れていた。それより、少し遅れた何人かは男の剣がまるで蝶のように翻り、仲間の体を突き抜けるのを見た。
そして、グレンの剣技の犠牲になった兵士もまた、それを見ていた自分の仲間が、妙な格好の女の指先から放たれた光の玉に、体を貫かれるのを確かめた。そしてそれが、彼らが目にした最後の映像となった。
「助けられたと言うべきなのかな、やはり?」
そう言って微笑んだ魔導師の弟子は、凄みのある美しい表情をしていた。
グレンも剣を鞘に納めながら、首を振った。
「いや、お互い助けたと言える状態ではないでしょう。特にあなたは、俺がいなくても何の問題もなかったはずだ」
「剣士殿の謙遜と、受け取っておこう。だが、大した腕だ人間相手なら、まず無敵だろうな‥‥‥」
「お誉めに預かって、光栄‥‥‥んッ!?」
その異様な気配に、二人は同時に振り返った。彼らの頭上で禍々しい黒い闇が渦を巻き、それはやがて一つの形を作った。
「剣士に魔導師の弟子とは‥‥‥どうやら、役者が揃ったようだな。よろしい、遠慮するな。来たれ、我が城へ‥‥‥姫と魔術師の弟子が待っておる、くれぐれも水晶の剣を忘れる出ないぞ!」
宙に浮かんだ北の大魔女レゼルブの顔は、美しく整ってはいたが、その禍々しさは拭いようもなかった。
ある意味で、同じ魔女でありながらロゼの健康的な美しさとは、対象的であるようにグレンは思った。
「あんたがレゼルブか?またずいぶんと若作りじゃないか!?」
しかし、グレンの悪口もレゼルブには通用しなかった。
「‥‥‥よいか、猶予はないぞ。すぐに来るのだ」
それだけを告げると、空中からレゼルブの顔は消えた。
「何やら、いきさつがあるらしいが?」
「まあね‥‥‥それはあんたも同じじゃないのか?」
「かも知れん。さて、どうする?」
「あんたは、行くんだろう?」
「ああ、我が師の命を果たさねばならないからな‥‥‥」
「俺も、見捨てると寝覚めの悪い知り合いがいるからな。逃げる訳にもいかんよ。もっとも、あのオバサンが素直に逃がしてくれるとも、思わないが‥‥‥」
「勝算はあるのか?」
「まるっきり!なんせ、あんたに助けてもらわなきゃ、手下にだって手も足も出なかったんだからな」
そう言いながらも、グレンはさっさと自分の馬に跨ると、ロゼに手を伸ばした。
「どんな術を使うのか知らんが、二本の足で歩くのなら、この方が楽なんじゃないか?」
本来、ロゼは他人の手を借りることを好まない女だった。しかし、このグレンと名乗る剣士には、何か感じるものがあったのか素直にその言葉に従った。
「あらッ、これは。剣士殿、こんなところに‥‥‥」
馬の背に腰掛けたロゼは、グレンの腕に付いていた先ほどの切り合いの時の返り血を、自分のマントの裾で拭った。だが、不覚にもロゼが拭ったその血の色を見てしまっていた。
「血だ‥‥‥」
呻くようにそう言うと、グレンの体はロゼをそこに残したまま、愛馬の下に落下して行った。
「もし、剣士殿?どうされた!?」
ロゼは呆気に取られて、馬の背中から下で硬直している馬の主人に呼び掛けた。もちろん、その時のグレンに返事が出来るはずはなかった。
「これほどの剣士でありながら、血を見て気を失うとは‥‥‥お前のご主人は、つくづく面白い御仁よな」
そう言って、大魔導師の一番弟子は自分を乗せている白馬の首を叩いて笑った。
グレンの愛馬は、高く、一ついなないた。果して、この馬が何と答えたのか、少なくともグレン自身は知らないでいることが出来た。