第1章
ニッカとグレン
ニッカは、じっとコップの中の水面を見つめていた。
酒場の主人は、そんなみすぼらしい格好のニッカに、疑惑たっぷりの視線を注いでいた。
「お客さん、注文は水だけですかい?ここは酒場なんだ、水だけなら裏の井戸へ行っとくれ!」
主人の言葉が終わらない内に、ニッカは片手を主人の目の前に広げてみせた。
「んッ、なんでこれは‥‥‥こりゃ、ギルド金貨!」
ニッカは金貨を弾くように主人に向かって放ると、視線をコップからそらさないまま、小声で言った。
「ダシール酒を、生のままで‥‥‥」
「ダシールを?生のままで!?お客さん、樽ごと買うんですかい?」
「一瓶でいい‥‥‥心配するな、俺が飲むんじゃない。連れがいるんだ。もう、降りて来る頃だろう‥‥‥それまで、邪魔しないでくれ、金貨の残りはその駄賃だ」
じっと、コップから視線を逸さないままのニッカを気味悪気に見つめていた主人は、肩をすくめて酒瓶を取るために背後の棚を振り返った。
その酒場の二階では、グレンが身繕いを始めていた。
「もう行ってしまうの?」
ベッドの中から、一仕事を終えたばかりの娼婦が物憂気な声を出した。
「下で、知り合いが待っているのでね。可愛いひと‥‥‥君のことは忘れないよ、例えこの身がいずことも知らぬ星のもとで朽ち果てようと、君の事は決して忘れないよ。剣士の名において誓約しよう‥‥‥」
「うまいこと言って!とっとと、行っちまいな!!この女ったらし!」
投げつけられた枕を器用に避けると、女に近付いた男は、その顎に手をかけて唇を重ねた。
「剣士は嘘はつかない、信じて欲しい、美しいひと‥‥‥」
そう言うと、情熱に潤んだ女の瞳を残して男は部屋の外へ出て行った。
「お待ちどう」
グレンが声をかけると、ニッカが小さく指を振った。すると、店の主人が出しておいた酒瓶が、ひとりでに隣に座ったグレンの前に滑って、止まった。
それを何気なく見ていた店の主人の顔色が変わった。
「どうだった?」
相変わらず、コップを見つめたまま、熱もなくニッカが尋ねた。
「マアマア、ってとこかな。そっちはどうだ?」
瓶の中身をコップにも注がず、一気に半分ほど飲み干すと、グレンもいい加減な感じで尋ねた。
「ダメだ、どうしても水竜を呼び出すことは出来ない‥‥‥」
「そうか、まだダメか」
当り前の事のように話す、二人の会話の内容に聞き耳を立てていた店の主人は、顎然となってこの珍妙な二人を見つめた。
「あんたたち、いったい‥‥‥」
店の主人が何かを言いかけたところで、店の奥で言い争いの声が響いた。
「なにすんのよ、離しなさい!離して!!」
いかにも品の悪そうな男どもに囲まれた女が、激しくその身をよじると、男どものゲビた笑いが響いた。
「だから、その魔物退治をしてやろうって言うんじゃねェかよ!おとなしくしなって!」
「そうそう、その前にちょいと俺達の相手をしてくれりゃいいのよ!なに、簡単なことさァ、フェヘヘヘ!」
「いやァー、離してェ!」
女は叫ぶと同時に男達の足をかかとで踏みつけ、その腕に噛みついた。
「いててッ!」
「ギャーッ、このアマ!」
男達の手をかいくぐった女は、グレンの脇に回り込んだ。
「助けて、お願いです!」
しかし、グレンはただ酒を飲み干すだけだった。
「ヘッヘッ、そんことしたって、そのニイちゃんが迷惑なだけダゼ、ヘッヘッヘッ、サァ、こっちにきなッて‥‥‥」
むりやり大男が、女の腕を引いた時、その太い腕がグレンの肘に触れた。酒瓶がその反動で搖れると、グレンの胸元に液体の雫がこぼれた。
それを見たニッカが小さなため息をついて、目を逸した。
「イヤッ、誰か、誰か助けてェー!」
「人聞きの悪いこと言うなよ、俺達が助けてやろうって言うんじゃねェーか」
好色な笑みを浮かべて、大男が娘の顔を自分のヒキガエルのような顔を寄せた時、その太い腕をグレンがつかまえた。
「ん!?」
はじめ、その大男はグレンの仕草の意味することが分からなかった。だが、それも一瞬のことで次の瞬間、大男の顔が歪んだ。
「いてッ!イテテッ!!やッ、やい‥‥‥なッ、なに、しやがる‥‥‥」
その女と見間違えそうな細面と、その顔つきにふさわしい細い腕からは、想像もつかない力で大男の腕は握り締められていた。
「酒が、こぼれた‥‥‥」
それは、うっかりすると聞き逃し兼ねないような、低い声だった。
「そッ、それが‥‥‥」
どうした、と言いかけて、大男は苦痛の余りついにその太い腕を、娘から離した。娘は素早くグレンの脇に回り込んだが、それは必然的にニッカの隣ということになった。
大男の仲間らしい数人は、意外なことの成行きに、ただ呆然と見とれていた。
「酒がこぼれた。服が濡れた‥‥‥」
グレンの低い声は、今度は間違いなく酒場全体に響いた。それは、彼が音量を増したからではなく、信じられないほど、酒場全体が静まり返っていたからであった。
「てッ、テメーッ!」
不思議なことに、自分の腕の半分の太さもない腕が、やすやすと自分の腕をねじり上げているという事実は、この大男に自分とグレンとの力量の差を、知らせることにはならなかった。
大男にとって、仲間とそれ以外の人前で侮辱されたと感じたこと以外、他の問題は考慮に入らなかったらしい。
ニッカはもう一度、小さなため息をつくと、傍で震えている娘の袖を引いた。
「えッ!?」
振り返った娘が、この背の低い、フードを被ったみすぼらしい男の存在を認めたのは、この時が初めてであった。
「座ったら?」
ニッカは彼女を見上げて、精一杯微笑んだつもりであったが、彼女には顔全体がニーッと崩れたようにしか見えなかった。
「このやろうッ!」
大男が叫びざま、空いている方の腕を振り回した。しかし、その拳は空を切り、逆にグレンに掴まれている方の腕は、より激しい力で締め上げられた。
「グギャーッ!」
大男のヒキガエルの様な顔が、苦痛でさらに醜く歪み、その肌の色が紫色に変色した。
「とっとと、謝りゃいいのに‥‥‥」
そんなニッカのつぶやきを、娘は不思議そうな顔で聞いた。この自分を助けてくれるらしい二人の男の行動は、彼女にとって全く理解できない価値観から発生していた。
そもそも、グレンがこのヒキガエルのような顔をした大男の腕をつかまたのは、自分の酒がこぼれたことと、その酒が自分の服を濡らしたことをとがめたためであって、この娘の存在とはまったく関係がなかった。
だが、周囲の目からはそういうふうには見えなかった。なかんずく、娘を捕らえようとしていた男達は、そうは思わなかったようだ。
「やろう、その手を放しやがれ!」
およそ独創性に欠けるセリフとともに、大男の仲間達は同時に剣を抜いた。
「かわいそうに‥‥‥」
再び、娘にとってよくわからない言葉をつぶやくと、ニッカはグラスを口に運んだ。状況は明らかにグレンに不利だった、彼が利き腕で大男の腕を締め上げていることは、彼の腰の剣の位置からも明らかだった。
それを見て取ったのか、大男は強引な動きに出た。空いている手で、自分の剣を抜きグレンに振り降ろしたのだった。
だが、その後のグレンの動きは、実に流麗であった。
見守る酒場の人々は、自分達が何か舞台の上の舞踊か何かを、鑑賞しているのではないかと錯覚した。
大男が剣を抜きはなった瞬間、グレンは自分が締め上げていたために、既に血の気の無くなっていた丸太のような腕を、自分の背中越し投げ出した。
その動作は、見事に大男の動きに合わせて行なわれたため、大男の体は完全にバランスを崩して、宙を泳いだ。
そしてその大男の脳天に、体を反転させたグレンが抜き放った剣が振り降ろされた。
思わず、見ていた娘は目を閉じた。だが、その剣がヒキガエルのような男の頭上に炸裂する瞬間、クルリと反転して剣の峰の部分で、したたかに男の脳天を直撃したことを、背中を向けたままチビリチビリ酒をなめているニッカは、知っていた。
男の巨体が、地響きを立てて酒場の床に倒れ込む以前に、グレンに切りかかった男達の何人かが、グレンの強烈無比な峰打ちを喰らって、大男に続いた。
グレンは、剣が相手に触れる瞬間にそれを反転させ、また打撃を与えた直後には再び、その刃を相手に向けているため、見ている者にはグレンが相手を切りつけていないと知ることは難しかった。
「や、やめてくれーッ、店を、店を壊さないでくれーッ!」
酒屋の主人が、カウンターの中から震えながらそう叫んだ時には、グレンに剣を向ける者は二人に減っていた。
あまりに、自分と相手との力量の違いに、男達は遅まきながら恐怖していた。このままでは、二人とも仲間の後を追うことは必至だった。
ガタガタと震える二人を見て、グレンの中から戦意が喪失していた。かれは、無造作に剣を治めた。
「仲間を連れて、消えろ」
相変わらず、低く小さな声であったが、もうその言葉を聞き違える者はいなかった。
興味を失った相手に背を向けて、再びカウンターに座って酒を飲もうとするグレンに向かって、しおらしく仲間の体を片づけるようなふりをしながら近付いた二人は、顔を見合わせてうなづいた。
「長生き、出来たのに‥‥‥」
またしても、ニッカの意味不明の言葉に気を取られた娘が、一瞬目を逸した瞬間、二人の男が同時にグレンに切りかかった。
グレンの口元から酒瓶が離れ、カウンターの上高く舞い上がった。
座ったまま、ほんのわずかに腰を浮かしたグレンは、そのままの姿勢で後ろ向きのたまま、背後から襲いかかって来る二人に剣を振るった。
男達の動きが、その動作を終了させるだいぶ以前に、本人達の意向を無視して静止した。
一瞬の間を置いて、グレンは腰に剣を戻し、椅子に浮かせた腰を降ろしていた。同時に、カウンター上に落下してきた酒瓶を彼はそれが下に落ちきる直前ですくい上げると、何事もなかったかのように瓶を口元に運んだ。
何が起こったのか知覚できない片方の男が、自分の意志を続行しようとした瞬間、彼の両腕は血を吹き出しながら床に落ちて行った。
もう一人の男はそのまま床に倒れ込み、その体から見る見る床に血の海が広がって行った。
両腕を失った男の絶叫が、倒れていた男の仲間達を呼び覚ました。彼らは、我がちにと逃げだし、最後にヒキガエルのような顔をした大男が失った両腕を見つめて泣き続ける男を、抱えるようにして表に消えると、酒場にはニッカ達三人と床の死体以外、客の姿はなかった。
「あの、どうも‥‥‥ありがとう、ございました」
黙って酒瓶を傾けるグレンに対して、遠慮がちに娘は礼を言った。しかし、グレンは眉一つ動かすことなく酒瓶の中身を喉に流し込み続けていた。
「礼を言う必要はないよ、彼は君のためにした訳じゃない‥‥‥」
娘の隣で、ニッカはまたしても彼女には理解不能の言葉をつぶやいた。どうして?と、彼女が尋ねようとした時、彼らの頭越しに震える声が響いた。
「どッ、どうしてくれるんですか!ええッ!?」
店の主人は、カウンターのなかで頭を抱えていた。ニッカは、悲し気に壊れた椅子やテーブルの散らばる店内を振り返った。
その店内の惨状に胸が痛んだのか、何気なく視線を外した娘は、相変わらず無表情に酒瓶を傾けている男の頬に、目を止めた。
「あの、剣士様‥‥‥頬に‥‥‥」
そういいながら、娘が差し伸べる手より早くグレンの指が自分の頬を撫でた。
「余計なことを‥‥‥」
ニッカのこの一言は、今までと同様、当然のように娘には意味不明であった。
「ちょっと、ほんとうに、どうにかして下さいよ!」
そう叫んだ店主は、いきなり弾けるように立ち上がったグレンの動作に、肝を潰した。
「あッ、いやッ、お、お許しを‥‥‥」
そう言いながら、頭を抱えてカウンターの中に身を伏せた店主は、その後に起こるべき何の物音もしないことが、不思議だった。
だが、娘にしたものは、もっと不思議な光景であった。
「血だ‥‥‥」
頬を撫でた、自分の指を目にしたグレンは、自分の指に付着しているものの正体を知ると、ほとんどつぶやくようにそう言うと、いきなり立ち上がった。
「たっく、もう、また手間が増えた!」
娘が、この状況を理解すためには、もはや何の理解の助けにもならないことだけがハッキリしている言葉をつぶやくと、ニッカはカウンターの中で震えている店主を呼んだ。
「水をくれ、コップじゃない。バケツで‥‥‥」
棒立ちになったグレンは、娘が呆気に取られて立ちすくんでいる前で、そなまま後向きに倒れ込んだのだった。その転倒に、傍にあった椅子とテーブルが巻き込まれ、店の被害品目を増やした。
「いったい、この御仁はどうしたのかね?」
明らかに気を失っているグレンを、恐る恐るのぞき込みながら、店主は水を張ったバケツを、ニッカに差し出した。
「なに、軽い貧血さ」
そう言うと、ニッカは受け取ったバケツから手を離した。本来ならば、床に落下するはずのバケツは、そのまま宙に浮いていた。
「貧血?この、剣士様が‥‥‥」
ニッカの言葉を、聞き間違いではないかと振り向いた娘は、宙に浮かぶバケツを目の前にして後の言葉を飲み込んだ。
「なんだって‥‥‥」
同じく振り返った店主も、後の言葉を失った。
「さて、出来るかな‥‥‥水竜!」
叫ぶと言うより、鋭い気合いのような言葉を、ニッカはバケツに向かって浴びせた。
次の瞬間、バケツの水が盛り上がったかと思うと、上に向かって太い水柱を上げた。それは、どう考えてもバケツの容量を遥かに上回る水量だった。
「我が望み、かなえよ!」
それは命令と言うより、呪文に近い響きであった。店の天井近くまで上がった水柱は、方向を返ると店内に蛇行しながら広がった。
そして、その先頭の形状が見る見る変化したかと思うと、何かしら生き物の頭のような形になった。
「りゅ、竜だ‥‥‥そんな、バカな!」
店主は、カウンターを背にして床に尻餅をついた。その店主の頭越しに、水で出来た竜の胴体がうねった。
「行け!」
短い言葉とともに、ニッカは倒れているグレンを指さした。
娘が悲鳴を飲み込んだ。水竜は、ニッカの指さすまま一直線にグレンめがけて突っ込んで行った。
次の瞬間、グレンの体に水が弾けた。それは、ちょうど堤防が小さな亀裂から決壊する瞬間に似ていた。グレンの体にぶつかった水はそのまま四方に飛び散り、雨となって店の中に溢れた。
「アワワワワ‥‥‥」
口をパクパクさせている店主が気付くと、いつしか宙に浮かんだバケツから、水がとうとうと溢れ出していた。たちまちその流れは、店の中で水位を増し、そのまま店の中のものを根こそぎ奪うように、表に向かって怒涛のように流れだした。
「ウワッ、おい、ちょっと!」
流されまいと、店主は必死に手近なテーブルの足にしがみついたが、彼の抗議は水の流れにかき消され、店主は極めて不本意ながら、流れに逆らいながら懸命に手足を動かしていた。
「ちょいと、旦那、どうしたの?なにかあったのかい?」
店の主が気を取り直したのは、この店の二階で商売している女に、その肩を揺すられたからだった。
「何って、おまえ、気付かなかったのか!?」
「なにが?」
不思議そうに、自分をのぞき込む女の肩ごしに、店の様子を目にした店主は声も出なかった。
あの剣士と男達のおかげで、メチャメチャにされたはずの店内。
気味の悪い小男の不思議な術で、水が溢れ全てが押し流されたはずの店の中は、いつもと同じにきちんとテーブルと椅子が並んでいたのだ。
いや、むしろ、いつも以上にキチンとしていると言った方が、この場合は正しいだろう。
「それにしても、旦那、歳に似合わず、面白いところで昼寝するんだね?」
女は身を翻すと、おかしそうに笑った。
その時になって、店主は初めて自分がカウンターの上で眠っていたことに、気が付いた。
「いや、これは、その‥‥‥」
慌てて、ことの次第を説明しようとしたが、なぜか店主は言葉を失っていた。
「それにしても、掻き入れ時だってェのに、なんだよ、客の一人もいないなんて‥‥‥しけた店だね」
手近なテーブルの椅子に座って、女は店主に悪態をついてみせた。
「なんだと‥‥‥」
そのしけた店で稼いでいるのはどこの誰だ!と、怒鳴りつけようとして、店主は言葉を飲み込んだ。
商売用の色っぽい夜着の上に、男物のガウンを無造作に羽織った女の、その無防備な微笑みを前にして、店主はとっくに忘れかけていた心のうずきを、思い出した。
「こんな、しけた店でよければ‥‥‥一緒にやっていかねェか?」
顔を赤らめ、うつむきながら、店主はカウンターに腰掛けたまま少年のように言った。
「まさか、冗談だろ?」
女は軽くかわしたつもりだったが、胸がドギマギすることを、押さえることは出来なかった。
思えば、流れ者の商売女が、こんな片田舎の店に居ついて長く経ったのも、二階に住み着いて商売する女を迷惑だと思いながら、店主が今日まで追い出さずにいたのも、お互いに惹かれ合う物があったに違いなかった。
「こんな店でよければ、俺と一緒にやってほしいんんだ‥‥‥」
カウンターに座ったままの、なんともさえない告白ではあった。だが、それだけに、女には男の真意が伝わったのかも知れない。
女はゆるやかに立ち上がると、男に近付いた。
「もう、二階で商売できないね‥‥‥」
「俺以外の客は、取らさねェ‥‥‥」
女の腕が男の腕に巻き付き、男の腕が女の細い腰を抱いた。
二つの影が、カウンターの上で一つになって、長い時間が過ぎた。
「ありゃ、本当の魔法使いだったんだ‥‥‥」
ようやく、女から顔を離した男が整った店内を見ながら、何気なくつぶやいた。
「えッ、なあに?」
「いや、なんでもねェ、なんでも‥‥‥」
男は女を抱き上げたまま、カウンターを降りると、扉のところまで行った。そして「営業中」の札を裏返して、「本日終了」の文字を表に出した。
それが、本当にニッカの魔法を使ったお詫びだったのかどうか、単に偶然だったのか、それはニッカ以外の誰にも分からなかった。
だが、少なくとも、彼の魔法のおかげでとりあえず幸福になった男女がいることに、違いはなかった。もちろん、その幸福の期間については、ニッカの預かり知らないことであることだけは、確かであった。
三十三番目の姫
川のほとりで、グレンは布を腰に巻いただけの裸になっていた。
「まったく、お前の魔法は遠慮ってものがないのか!?」
クシャミをしながら、そう喚き散らすグレンの足元で、ニッカは身を屈めて小枝を組み上げていた。
「そう言いなさんな、どんな魔法でも、人間を媒介にした方が効き目があるんだ。それに、害があった訳じゃなし‥‥‥」
「俺は、お前が魔法を拾得するための教材じゃないんだぞ!」
そう言ったグレンは、もう一つ大きなクシャミをした。
そんな、二人の会話を背中で聞きながら、先ほど酒場で助けられた娘は、グレンの濡れた衣装を手近な木の枝に広げながら、肩をすくめた。
「ともかく、体を暖めることが先決だ‥‥‥」
そう言うと、ニッカは腰の袋に手を伸ばし、その中から丸い水晶の玉を数個掴み出した。
「火竜よ‥‥‥」
つぶやくようにそう言うと、ニッカはそっとその手のひらに乗った水晶玉に息を吹きかけた。
水晶玉は、まるでその息吹の風に乗ったかのように宙に浮かび、くるくると回りながら、円を描いた。それが、目の高さまで上がったところで、ニッカはまたつぶやいた。
「ささやかな、炎を‥‥‥」
ニッカが、上に向けて突き出した人差指に、回転する水晶玉がかぶさるように乗ったかと思うと、そこがポット明るくなった。
ニッカは、その人差指を足元の小枝の山に向けた。そして、小さな炎がそれに向かって指先を離れると同時に、その手のひらを返して広げた。
そこには、先ほどの水晶玉が同じように乗っていた。
彼は、満足そうにそれを握りしめると腰の袋に返した。彼の指先から離れた炎は、グレンが見守る中、ゆっくりと小枝の山の上に降り、一瞬の間の後、その小山全体を炎となって燃え上がった。
「で、俺をこんな目に合わせて、肝心の水竜はどうした?取り込んだのか?」
「いや、出来なかった‥‥‥そんな暇がなくてな‥‥‥」
「なんだよ、じゃあ俺は濡れ損じゃないか!」
「お前さんが、あんなところで気を失わなきゃ、あんなことする必要はなかった‥‥‥」
「そりゃ、あの娘が!」
「すみません‥‥‥」
グレンの着物を広げ終った娘が、自分の上着をグレンに差しだした。
「わたくしが、余計なお手数をおかけしたばかりに‥‥‥」
「まったくだ!」
「グレン!」
上着を受け取るなり、横を向いた剣士の態度を、魔法使いが咎めるより早く、それまでしおらしくしていた娘の態度が豹変した。
「チョッと!人が下手に出て謝っているのに、なーによその態度!?いい加減にして欲しいワ!だいたい、何よ!血を見て気を失うですって!?ハンッ、とんだ剣士もあったもんね!!自分の未熟さを棚に上げて、か弱い娘に八つ当りするなんて、最ッ低ネ!」
「み、未熟だと‥‥‥!?」
「か弱い娘、どこが‥‥‥」
剣士が最も弱いところを突かれて、真っ赤になりながらも辛うじて相手に向かって剣を抜くのをこらえているのに対して、魔法使いは余りの娘の変わりように、感動に近い眼差しを向けていた。
「あーァ、か弱い乙女を助けて、国を救う勇敢な剣士を捜していたのに、屈強な男達だと思って声をかければ、冗談は顔だけにして欲しい欲ボケの盗賊だったし、少しはましかと思ったハンサムもとんだ未熟者だし、つくづく人を見る目が無いわね、私って‥‥‥」
そこまで、一気にまくしたてると、娘は大げさにため息をついて草の上に座り込んだ。
「さしずめ君は、悪者に乗っ取られた国を救うべく、一人脱出した薄幸のお姫様って訳か?」
「あら、良く分かったわね!まんざら、顔だけって訳でもないんだ!?」
グレンのセリフには、明らかに悪意が満ちていた。しかし、娘はそんな悪意には気付かないようだった。もし、それが計算されたものだとしたら、これは大変な娘なのかも知れないと一瞬ニッカは体を固くした。
「と、言うことは、君‥‥‥いや、あなたはどこぞのやんごとない姫君ということなのかな?」
ニッカの用心深いセリフを、グレンは鼻先で笑った。
「そんな、御大層なものかよ!」
「まァ、ね、やんごとないかどうかは知らないけど、この先のスピリタスって国で私の父が王様だったのよ、ついこの間までね」
それは、町の娘が「私の家は八百屋をやっているわ」と言うのと、ほとんど同じ響きを持っていた。この娘の一筋縄で行かない性格に、初めてグレンも興味を引かれたらしく、改めて彼女の方へ向き直った。
「で、この間までというと、今は違うのか?」
さりげなく相手に先を促すのは、やはりニッカの役目だった。
「今はね、王様は隠居したことになっていて、摂政が国を支配しているわ」
「御多分に漏れず、その摂政が悪者か‥‥‥」
依然としてグレンの言葉には、皮肉な響きが篭っていた。
「俺は嫌だぞ、関係ないからな!どうせ、よくあるお家騒動なんだろうけど、そういう時はたいがいその隠居させられた王様ってやつだって、ロクなことしてなかったに決っているんだ。まッ、娘としちゃそうは思わんだろうけどね‥‥‥」
そう言って、皮肉な一瞥を娘に投げかけたグレンは、ヒステリックな反論を予期していたのに、それがないので少々戸惑った。
「そうね、確かに人に威張れるような王様でなかったわね。でも、だからと言って人に嫌われるようなことはしていないはずよ、なにしろ王様になってから公布した法律がたったの一件。それも、隣の畑に侵入したモグラを処分する権利は、その畑の持ち主にあるってことを定めただけですもの。それを恨みに思う人は、いないと思うわ‥‥‥だけど、王様として、何もしなかったことが問題だと言われれば、そうかもね」
妙なところで納得されたために、かえってグレンの方が、その皮肉の矛先を鈍らされてしまった。
「グレン、スピリタスって国はそんなに大きくない、せいぜい一つの町くらいしかないんだ。お前さんが考えているような複雑な政治問題とは、縁が遠いんじゃないかな」
ニッカは、それでも旅人の最低限の一般常識として、自分達の行く先にある小さな国のことは知っていた。
「ふん、いずれにしても面倒は御免だな。おい、ニッカ、そのスピッツとかいう、小さな国はパスして行こうぜ!」
グレンは娘の上着にくるまって火にあたりながら、小さなくしゃみをしていた。
「それが、そうも行かないんだな。この先は大きな山並の谷間になる。スピリタスを避けようとすれば、両側の高い山を越えるか、うんと後戻りをして、海側に出るしかない。どちらにしても、何週間かはかかるだろうな」
別にニッカは娘に加勢しようというつもりはなかった、ただ現実問題として前に進むとおのずと、娘の国に入ることは避けられないと言うことを、言おうとしていただけであった。
「おまけに、後戻りしたくてもヤクザな連中とひともめあったからな、当然連中が俺達を黙って通してくれるとは思わない、やれやれとんだやっかいごとに巻き込まれたもんだ」
グレンの最後のセリフは、そこにいる娘に向けたものだが、娘はまるで動じなかった。あるいは、単に気付かなかったなっただけなのかも知れなかった。グレンは、小さく舌打ちしたが、ニッカはこの娘のズ太さに、秘かに感嘆していた。
「フン、まァいい。別に、そこを通ったところで、俺達がおとなしくしていればいい、お家騒動と俺達は関係ないんだしな‥‥‥」
グレンの言葉に、ニッカは小さく吐息をついた。
「それが、そうも行かなくなった‥‥‥」
そう言って、ニッカは腰の袋から小さな水晶玉を掴み出した。彼がその手を広げると、数個の水晶玉は彼の掌の上に浮き上がり、クルクルと回転し始めた。
「‥‥‥」
グレンはともかく、娘は驚きの表情でニッカの掌を見つめた。
ニッカは、クルリと掌を返して、水晶玉を足元を流れる川の水面に落とした。だが、落ちたと思ったのは、娘だけの目の錯覚だった。
回転しながら、ゆっくりとニッカの手を離れた水晶玉は、水面に近付くと一瞬発光し、弾けた。
弾けた水晶玉は、光の矢となって対岸の森の闇をはじめとして、四方に散った。その瞬間、異様な叫び声が対岸の闇の中から響き、異様な影が川面を直線に走った。
驚いた娘が振り返った時には、既に水晶玉はニッカの掌に戻っていた。
「わかったか?」
その短い問い掛けで、グレンには充分だったらしい。彼は、大きくうなずいた。
「どうやら、一緒にいるところを、この王女様の叔父だかなんだかにあたる、摂政とやらの手下に知られたらしい。どっちにしても面倒は避けられないという訳か‥‥‥ともかく、ここにじっとしているのは危険だな」
「叔父ではありません。摂政となったのは、北の魔女レゼルブです。彼女は、王家とは何の関わりもありません」
「なんだって!?」
それまで、どちらかと言えば冷静に、娘とグレンのやり取りを眺めていたニッカが、突然奇妙な声を出した。
「知っているのか?」
グレンは、やや意外そうにニッカに尋ねた。
「知っているも何も、北のレゼルブって言えば北の大魔女の一人だよ。それがなんでこんな田舎に‥‥‥」
ニッカの表情には、困惑とそして恐怖が浮かんでいた。
「どんなに偉い魔女かは知りませんが、彼女はおじい様の時代にこの地へやって来たと言います。私が知っているのは、彼女がずっと国の守り手として山の中に住んでいたことと、突然父や母を石に変えてしまったことだけです」
「バカな、彼女にとってスピリタスみたいな国を乗っ取って、何の意味があるんだ?」
「さあァな。そんなことより、今は自分の身の心配をした方がいいだろうな」
グレンは上着を娘に返すと、まだ生乾きの自分の衣服を、すばやく着込んだ。
「ちょっと、着心地が悪いがこの際贅沢は言ってられない。おいッ、ニッカ。馬を呼んでくれ!」
グレンの言葉に、ニッカは口に指を当てて指笛を吹いた。その低い、微かな響きが川の水面に広がると、どこからともなく二頭の馬がその岸辺に現われた。
一頭は、白い、見るからに精悍な大きな馬で、焚火を素早く足で消したグレンが、ヒラリと飛び乗ると同時に白馬は高くいなないた。
もう一頭は、背の低い見るからに貧弱な茶色い馬で、ニッカは見かけ通りモタモタとその背に跨った。馬は、そんな主人に迷惑そうな一瞥を投げた。あたかも、なんであんたは俺の背に乗るんだ?と、言わんばかりの態度であった。
「掴まれ!」
呆然としている娘に、グレンは手を差し出した。
「いいのですか?」
「いやなら、やめとけ!」
そんなことを言いながら、娘はグレンの前に座った。
「あんた、名前は?」
馬の首を巡らしながら、グレンが娘に尋ねた。
「シェリー、スピリタス王の三十三番目の王女です!」
それを聞いて、グレンは驚きの目を見開き、やがて大きな笑い声を上げた。
「そいつはいい、三十三番目の姫様か!?俺はグレン、モルトって国の六十六番目の王子だ。これでもな!そして、あっちはニッカ。南の大魔術師、バランタインの九十九番目の弟子だ!あれでもな!!」
そう紹介して、グレンはまたカラカラと笑った。
「三十三番目の姫に、六十六番目の王子、それに九十九番目の魔法使いの弟子か!こいつはいい!!」
「グレン、楽しむのはいいが、どっちに行くんだ?俺は、レゼルブとやり合うのは御免だぞ!」
「どうした、北の大魔女の魔法とやらも、その水晶玉に封じ込めればいいじゃないか、そうすれば、晴れて魔法使いの弟子から卒業できるんじゃないのか!?」
「俺は魔術師だ、なんど言えば分かる!それに、レゼルブの魔力を封じることが出来るくらいなら、水竜を呼び出すのに苦労したりしない!!」
「どっちにしてももう遅い、あれを見な!」
グレンの指さす対岸の林の中から、怪しい気な気配が伝わって来た。
「使い魔だ‥‥‥レゼルブルの‥‥‥」
「お前さんがかなわないなら、こっちに逃げるしかないようだが‥‥‥」
「この道を真っすぐ行けば、スピリタスです」
小さな国の三十三番目の王女は、そう言って不安気な眼差しを二人の男達に向けた。
「どうせ、待ち伏せがあるんだろうけどな‥‥‥」
しかたなさそうに、ニッカも茶色い馬の首を巡らせた。
「訳のわからん魔物ではなくて、手ごたえのある人間ならいいんだがな。まッ、いいか!」
そう言うと、グレンは馬の首を叩いた。白い馬はゆっくりと駆け出した。
「しょうがない‥‥‥そんな顔をするなよ、なんとかなるさ‥‥‥」
茶色の小さな馬は、主人をバカにしきった表情で見ていたが、ニッカの心からのすまなそうな顔を見ると、仕方がないとばかりに、体をブルッと小さく震わせて、コトコトとグレンと娘を乗せた白馬の後を追って行った。
二頭に跨った、三人の姿が消えると対岸の林の闇に潜んでいた気配もまた、音もなく消えていた。




