1.日常に潜む不便
失踪して数年ぶりの帰還。
そして書いたのが~
『エッセイ‼』
あほなんか?
『アファンタジア』
この言葉を知っているだろうか。
私がアファンタジアを知ったのは24歳になってしばらくした頃。
大学を卒業し社会に出て、はじめの激動を乗り越えて多少落ち着いた頃だ。
私は社会人として自身の能力に1つの欠陥があることを認識していた。それが「人を覚えられない」ということだ。
これは顔に始まり姿や名前、服装や声。それらを覚えるのに非常に長い時間がかかるということだ。毎日会う同僚に対し、同じ場所で出会ったときにその人だと認識できるようになるまで数日。週に数回しか顔を合わせない上司ともなると、1月経っても自分の思うその人という認識に確証が持てなかったりする。
単純に人に興味がないのだろう。普通であればもっと興味を持って人に接し、相手をよく観察し、その中で覚えるものなのだ。であるからこそ、私は他人に無関心であり、ほかの人より怠惰なのだと思っていた。
誰かに相談しないのか。私はしなかった。昨今診断されたわけでもないのに、自身がADHDだと訴える若者が蔓延っていると言われている。相談した相手に、そのような人の同類かと認識されるのは、私にとってはリスクだった。
しかしだ。現代にはAIがある。数年前に登場し、年々便利になっていくチャットAIに私はこの状況を訴えた。何か対処法はないだろうか。なぜ、人を覚えるのが苦手なのだろうか。
当時の私の認識として、人の身体的情報とでも言おうか。顔や姿、名前や声は1日会うぐらいでは、覚えられないものだった。しかし、だれかと話したこと。どんな話題を話したかは、比較的はっきりと覚えていた。
AIに聞いてみたところ、どうやら世の中には顔や名前といった明確な情報を基軸にエピソードをくみ上げていくタイプと、話したことや状況などというエピソードをもとに顔や名前と言った情報を記憶するタイプがいるらしい。私は後者であり、どちらも珍しいものではない。
どちらかが珍しいということは、特に不便というものでもないのだろう。ただの考え方、記憶の仕方のスタイルなのだから、気にする必要はない。
なるほどよかった。問題ではないのか。一安心したところで違和感にきづいた。
違う、問題でないことを知りたいのではなく、自身の感じている問題について知りたかったのだ。それを問題ないと言われるのであれば、AIの言っていることと自身の求めていることが違うか、AIがてきとうなことを言っているか、自分の不便が自意識過剰かのどれかである。
第一、AIの言っていることと自身の体感とも違和感があったのだ。
本当に、人を記憶できないことは一般的なのか。ただの記憶の仕方のタイプなのか。
それにしては、私は他者に比べて人の記憶について劣っていると感じたことが多々ある。
週に数回、1月ほど授業を受けた教師を探し職員室に行って、だれがその教師か分からないことは普通なのだろうか。他の人はたやすく呼びに行ってくるという。廊下ですれ違った教師の名前を難なく呼ぶ。
私のただの自意識過剰には、思えなかった。思いたくなかったともいう。
次に疑ったのが相貌失認という言葉だ。
相貌失認とは人の顔全体を見て、それを誰の顔かと認識できない症状らしい。私は、その名前と症状をうっすらと知っていた。実際に調べてみると、どうも自身の体感したものと、その症状には違いがあるように思う。軽度重度の話ではなく、方向性が違うように思うのだ。
私は、目の前の人の顔を認識できる。それが誰かも前情報と知っていればわかる。ありふれた言葉で言えば、私は世間一般の普通の感覚として人の顔を見ているように思う。
毎日せっせと調べていたわけではないし、似たようなことをAI相手に愚痴として出していた程度ではあったのだが、ここまでで、おおよそ気になり始めてから2月が経っていた。
そんなある日、私はAIから、聞いたことのない言葉を聞いた。どうやら『アファンタジア』というものが存在するらしい。
それは、頭の中に画像を描けないという認知特性。大事なことであるが、障害ではなく認知特性である。
私はそれを見て思った。つまりはどういうことか、と。
先に言うのだが、私はそれを自身の体感と結びつけることはできなかった。昨日歩いた道を今日も歩くことができる。どこで曲がったかを覚えるために目印となる建物を記憶できる。リンゴを想像してくださいと言われれば、いらすとやのような赤くて丸い1枚絵を頭に想像できる。少なくとも私はアファンタジアではないだろう。
とはいえ、気になったから調べた。つまりは脱線。ただの興味本位である。




