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ムーミンの生まれた冬—— トーベ・ヤンソンの静かなる生涯  作者: はまゆう


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第二章 島へ行く人 第1節 「トゥーリッキという風」

一九四六年、秋。


ヘルシンキの街は、戦争の傷跡を癒しながら、少しずつ活気を取り戻していた。新しい店が開き、街角には音楽が流れ、人々の歩調も以前より軽くなっている。しかし、トーベの心の中には、まだ何かが引っかかっていた。


戦争が終わった。平和が戻った。それなのに、彼女はどこか落ち着かなかった。


アトリエに籠もって絵を描く日々。それは戦争中と同じだった。しかし、その絵に込める感情が、以前とは違っていた。戦争中は、不安や恐怖を絵にぶつけていた。今は、それらがない。代わりに、何か新しいものが欲しかった。


何か。彼女にもよくわからなかった。


ある夜、彼女は友人のパーティーに誘われた。あまり乗り気ではなかったが、ずっと家に籠もっているのもよくないと思い、彼女は渋々出かけることにした。


パーティーは小さなアパートで開かれていた。二十人ほどの芸術家たちが集まっている。画家、彫刻家、詩人、音楽家。みんな戦争を生き抜いてきた人たちだった。彼らの会話は活発で、時には激しい議論も交わされる。


トーベは壁際に立ち、ワイングラスを手にしていた。誰かと話す気分ではなかった。ただ、その場の熱気に身を任せているだけでよかった。


その時、彼女は一人の女性に目を留めた。


部屋の隅に、彼女は立っていた。背が高く、スラリとした体つき。短いブロンドの髪。目は澄んでいて、何かを鋭く見つめているようだった。彼女はあまり話していない。誰かの話を聞きながら、時々うなずく程度だ。しかし、その沈黙が逆に彼女を際立たせていた。


「あれはトゥーリッキよ」


隣にいた友人が言った。


「トゥーリッキ・ピエティラ。彫刻家よ。知らない?」


「……名前は聞いたことがある」


「彼女、すごく才能があるの。でも、ああいう感じだから、評価されるのに時間がかかると思うわ」


友人はそう言って笑った。トーベはもう一度、その女性を見た。


トゥーリッキ・ピエティラ。


その名前を、彼女は心の中で繰り返した。どこか響きがいい。硬すぎず、柔らかすぎず。


彼女が何かを感じたのは、その時だった。


---


パーティーが終わりに近づいた頃、トーベは意を決してトゥーリッキのところへ歩いていった。


「こんばんは」と彼女は言った。


トゥーリッキは顔を上げた。その目は、トーベをまっすぐに見つめた。それは評価するような目ではなかった。ただ、そこにいる人を、ありのままに見る目だった。


「トーベ・ヤンソンです」とトーベは続けた。「あなたの作品、見たことがあります」


「そう」


トゥーリッキの返事は短かった。しかし、その短さに不快感はなかった。むしろ、それが彼女の誠実さを表しているように思えた。


「どんな作品を?」


「石の彫刻です。確か、港の近くのギャラリーで……」


「ああ、あれね」


トゥーリッキは少し笑った。「あれは失敗作です」


「そうは思いませんでしたけど」


「あなたは優しいんですね」


トゥーリッキはそう言って、また笑った。その笑顔は、少しだけ皮肉っぽくて、でもどこか温かかった。


その夜、二人はそれ以上話さなかった。しかし、トーベは確かに感じていた。


何かが始まる。


その予感が。


---


それから数週間後、トーベはトゥーリッキに手紙を書いた。


長い手紙ではなかった。ただ、自分のアトリエに来ないか、という誘いだった。絵を見てほしい。そう書いた。


返事はすぐに来た。


「行きます」


たったそれだけの文面だった。


トーベはその短い返事を何度も読み返した。そして、少しだけ笑った。


彼女はそういう人なのだ。無駄な言葉を省く人。しかし、その無駄のなさが、逆に彼女の誠実さを感じさせる。


トゥーリッキがアトリエを訪ねてきたのは、その週の土曜日だった。


天気は曇り。時折、冷たい風が吹いていた。彼女はコートを着て、手には小さな包みを持っていた。


「これ、お土産」と言って、彼女はそれをトーベに差し出した。


開けてみると、それは小さな石の彫刻だった。手のひらに収まるサイズ。滑らかな表面に、何かの形が浮かび上がっている。


「魚よ」とトゥーリッキが言った。「あなたにぴったりだと思って」


「……なぜ魚?」


「だって、あなたは海が好きでしょう」


トーベは驚いた。彼女はトゥーリッキに海の話をした覚えがなかった。しかし、彼女は見抜いていた。トーベの中にある何かを。


「どうしてわかったの?」


「わかるわ。そういう人は」


トゥーリッキはそう言って、アトリエの中に歩いていった。


トーベはその後ろ姿を見つめながら、手の中の石の魚を握りしめた。


温かかった。


石なのに、なぜか温かかった。


---


その日から、二人の関係はゆっくりと、しかし確実に深まっていった。


トーベはトゥーリッキのアトリエを訪ねた。そこは、ヘルシンキの郊外にある古い倉庫を改装した場所だった。天井は高く、壁には無数の道具が掛かっている。中央には大きな石の塊があり、トゥーリッキはそれを叩き続けていた。


「邪魔をしてる?」


「いいえ。むしろ、誰かに見られているほうが集中できる」


トゥーリッキはそう言って、ハンマーを振るい続けた。


トーベはその姿をじっと見つめた。


彼女は、石を削る。無駄のない動きで。時間をかけて。少しずつ。


そこには、焦りがなかった。完成を急ぐ気配もなかった。ただ、自分のペースで、自分の信じる形に向かって進んでいる。


「すごいね」とトーベが言った。


「何が?」


「その、根気強さ」


トゥーリッキはハンマーを止めて、トーベを見た。


「あなたも同じでしょう。絵を描くのは、根気がいる」


「そうかもしれないけど、私はすぐに結果が欲しくなる」


「それは、あなたがまだ若いからよ」


トゥーリッキはそう言って、またハンマーを振るい始めた。


トーベはその言葉を、しばらく胸に留めていた。


若いから。


確かに、彼女はまだ若い。しかし、戦争を経験したことで、年齢よりもずっと多くのことを学んだ気がしていた。しかし、トゥーリッキの言う通りかもしれない。彼女にはまだ、根気が足りない。


時間をかけること。


焦らないこと。


自分の信じる形を、じっくりと作り上げること。


それは、トゥーリッキから学ぶべきことだった。


---


冬が来た。


ヘルシンキの冬は、戦争中と変わらず厳しかった。しかし、トーベの心の中には、以前より暖かいものがあった。


トゥーリッキ。


彼女の存在が、トーベの世界を少しずつ変えていた。


二人はよく一緒に時間を過ごした。アトリエで静かに作業をすることもあれば、カフェで長い時間を過ごすこともあった。会話は決して多くない。しかし、その沈黙がむしろ心地よかった。


ある日、トーベはトゥーリッキに尋ねた。


「あなたは、何を考えているの?」


「今?」


「うん。今、何を考えてる?」


トゥーリッキは少し考えて、答えた。


「あなたのこと」


トーベは言葉を失った。


トゥーリッキは平然としている。それが事実だと言わんばかりに。


「私の……何を?」


「あなたの絵のこと。あの白い生き物。名前、何て言ったっけ」


「ムーミン」


「そう、ムーミン。あれは、とても孤独そうな顔をしている」


トゥーリッキの言葉は、トーベの心に深く響いた。


孤独そうな顔。


確かに、そうかもしれない。彼女は自分でも気づいていた。ムーミンの目には、いつもどこか寂しげな光が宿っている。それは、彼女自身の孤独の反映だったのかもしれない。


「あなたも、そう思う?」とトーベが尋ねた。


「うん。でも、それがいい。孤独を描ける人は、優しさも描ける」


トゥーリッキはそう言って、コーヒーカップを手に取った。


その言葉が、トーベの心に静かに染み込んでいった。


---


一九四七年、春。


トーベはトゥーリッキと初めて海辺に出かけた。


ヘルシンキの南、小さな島々が点在する地域。彼女たちはフェリーに乗り、一番小さな島を目指した。そこには誰も住んでいない。ただ、岩と、海と、空だけがある。


「ここ、いいね」とトゥーリッキが言った。


「うん」とトーベは答えた。


二人は岩の上に座り、海を眺めた。風が冷たい。しかし、日差しは暖かい。波の音が、規則正しく響いている。


「戦争中に、こんな場所があったらよかったのに」とトーベが言った。


「逃げ場所ね」


「うん。逃げ場所。誰も来ない、静かな場所」


トゥーリッキは何も言わなかった。ただ、うなずいただけだ。


しかし、そのうなずきが、トーベにとっては十分だった。


彼女はわかってくれる。


何も言わなくても。


そのことが、トーベにとって何よりの救いだった。


---


その夏、トーベは初めて『ムーミン谷の彗星』を出版した。


前作よりも長く、より物語性が強い作品だった。読者からの反応は、前作よりは良かった。しかし、まだ「ベストセラー」と呼べるものではなかった。


それでも、トーベは満足していた。


なぜなら、彼女は自分が描きたいものを描けたからだ。誰のためでもなく、自分のために。それだけで十分だった。


ある日、トゥーリッキがアトリエを訪ねてきた。


「新しい本、読んだわ」と彼女は言った。


「どうだった?」


「面白かった。特に、彗星の描写が」


「あれは、戦争のことなんだ」


「知ってる」


トゥーリッキは微笑んだ。「でも、それだけじゃないでしょう。あの物語には、もっと深い何かがある」


「……例えば?」


「希望。彗星が来ても、ムーミンたちは生き延びる。それは、戦争を経験したあなたが、それでも未来を信じている証拠だと思う」


トーベはその言葉を聞いて、少しだけ目頭が熱くなった。


そうだ。彼女は未来を信じている。


戦争が終わった今、その先にあるものは、まだ見えないけれど。


信じている。


その言葉を、誰かに言ってもらえたことが、彼女にとっては何よりの贈り物だった。


---


秋の終わり、トーベはトゥーリッキと一緒に、ある小さな島を訪れた。


そこは、彼女が以前に一人で訪れたことがある場所だった。灯台のある島。静かで、何もない島。


「ここが、前に話した島だよ」とトーベが言った。


「灯台のある島ね」


「うん。どう思う?」


トゥーリッキはしばらく周囲を見渡した。海。岩。風。そして、白く立つ灯台。


「……いい場所だね」と彼女は言った。「何もなさすぎて」


「それがいいんだ」


トーベは微笑んだ。


その時、彼女は思った。


ここに住みたい。


この島で、この灯台で、誰にも邪魔されずに、静かに暮らしたい。


それは夢だった。しかし、夢で終わらせたくない願いだった。


彼女はトゥーリッキの横顔を見た。


彼女はまだ、何も言っていない。しかし、その目は、何かを考えているように見えた。


「もしも」とトーベが言った。


「もしも?」


「もしも、ここに住むとしたら、あなたも一緒に来る?」


トゥーリッキは少し驚いたようにトーベを見た。そして、ゆっくりと微笑んだ。


「考えておくわ」


それだけの答えだった。


しかし、トーベはそれで十分だった。


彼女は考えると言った。つまり、可能性はあるということだ。


それでよかった。


---


その夜、トーベはアトリエで一枚の絵を描いた。


灯台のある島。海。空。そして、二人の小さな影。


それは未来の絵だった。


まだ訪れていない未来。しかし、確かにそこにあると信じている未来。


彼女はその絵を壁に掛けた。


そして、毎日それを見て、夢を膨らませた。


いつか、いつか必ず。


その約束を、彼女は自分自身にした。


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