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ムーミンの生まれた冬—— トーベ・ヤンソンの静かなる生涯  作者: はまゆう


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7/8

第5節 「冬の終わり」

一九四五年、五月。


戦争が終わった。


その知らせは、ラジオを通じてヘルシンキの街に流れた。アナウンサーの声は震えていた。長かった。長すぎた。誰もがそう思った。喜びとともに、深い疲れが街を覆った。


トーベはアトリエでその知らせを聞いた。


彼女は窓辺に立っていた。黒い布はもう外してあった。外の光が部屋に差し込んでいる。久しぶりの春の日差しだった。窓を開けると、冷たい風が入ってきた。しかし、その風は新鮮だった。何かが終わったことを告げる風だった。


彼女は深く息を吸った。


戦争が終わった。


その言葉の重みを、彼女はまだ実感できずにいた。何年もの間、毎日のように爆撃の音を聞いてきた。毎晩のようにサイレンが鳴った。食べ物はなく、暖房はなく、未来は見えなかった。


それが、突然終わった。


終わったと言われても、彼女の体にはまだ緊張が残っていた。肩は固く、指先は冷たい。心のどこかで、まだ警報が鳴るのを待っている自分がいる。


彼女は自分の手を見つめた。


ペンを握る手。インクで汚れた指。それは戦争を生き抜いた手だった。何枚もの絵を描き、何度も何度も書き直し、時に泣きながらペンを走らせた手。


その手が、まだここにある。


彼女はそっと拳を握り、そして開いた。


---


街は興奮に包まれていた。


人々は通りに溢れ、泣き、笑い、抱き合った。国旗が掲げられ、音楽が流れ、どこからともなくシャンパンが現れた。長い間、忘れられていた笑い声が、あちこちで聞こえた。


トーベも外に出た。


人混みの中を歩きながら、彼女は周囲の光景をぼんやりと眺めていた。知らない人同士が抱き合っている。子供たちが走り回っている。老人たちがベンチに座り、涙を拭っている。


戦争が終わった。


それが、こんなにも単純なことだったとは。


彼女は公園のベンチに座った。日差しが暖かい。顔を上げると、青い空が広がっていた。雲一つない、澄んだ空。あの暗い夜が、まるで嘘のように。


彼女は目を閉じた。


戦争中のことを思い出していた。


黒い布に覆われた窓。

爆撃の音。

冷めたコーヒー。

そして、あの白い生き物。


ムーミン。


彼女はあの夜、何を考えて描いていたのだろう。確かに覚えているのは、ただ「優しい場所」を想像していたことだけだ。現実にはない場所。けれど、心の中には存在する場所。


彼女はその場所を、戦争の最中に作った。


現実がどんなに暗くても、心の中だけは明るくあるために。


それは小さな抵抗だったかもしれない。無力な行為だったかもしれない。しかし、彼女にはそれができた。描くことで、自分を守ることができた。


戦争は終わった。


しかし、彼女の心の中のムーミン谷は、これからも続いていく。


---


数日後、トーベは母親の家を訪れた。


母親はキッチンで料理をしていた。戦争中は手に入らなかった食材が、少しずつ戻ってきていた。バター。砂糖。卵。それらを使った料理の匂いが、家の中に広がっている。


「座って」と母親が言った。


トーベはテーブルに座った。母親はコーヒーを淹れ、クッキーを皿に盛った。それは戦争前と同じ光景だった。しかし、何かが違う。


「終わったね」とトーベが言った。


「そうね」と母親は答えた。


沈黙が流れた。それは気まずい沈黙ではなかった。二人がそれぞれの思いに浸るための、静かな時間だった。


やがて母親が言った。


「あなたは、これからどうするの?」


トーベは考えた。


どうするのか。


戦争中は、生き延びることだけが目的だった。一日を無事に終えること。明日を迎えること。それだけで精一杯だった。しかし、今は違う。戦争は終わった。彼女には未来がある。


「描き続けると思う」と彼女は言った。


「それがいい」と母親はうなずいた。「あなたは絵を描くことで、自分を救った。それは、これからも変わらない」


トーベはその言葉を胸に刻んだ。


そうだ。自分は描くことで救われた。あの暗い夜も、爆撃の音も、すべてを乗り越えられたのは、ペンがあったからだ。


ならば、これからも描こう。


戦争が終わっても、描くことは続く。


それは彼女の使命であり、彼女の喜びだった。


---


その年の夏、トーベは『ムーミン谷の彗星』の執筆に取りかかった。


前作『小さなトロールと大洪水』は、それほど売れなかった。出版社もあまり期待していなかった。しかし、トーベは構わなかった。売れるために書いているのではない。自分のために書いているのだ。


新しい物語は、戦争のメタファーだった。


彗星が地球に衝突する。ムーミンたちはその危機に直面する。彼らは恐怖し、迷い、そしてそれでも前に進む。


それは、彼女自身の体験だった。


戦争という彗星が、自分の人生に衝突しようとしていた。彼女は恐怖し、迷い、それでも前に進んだ。そして、生き延びた。


その体験を、彼女はムーミンたちに託した。


ペンを走らせながら、彼女は思う。


――物語は、現実を変えることはできない。

しかし、現実を生きる人々の心を変えることはできる。


それで十分だ。


彼女はそれを信じていた。


---


秋が来た。


ヘルシンキの街は、戦争の傷跡を少しずつ癒していた。瓦礫は片付けられ、新しい建物が建ち始めている。人々の表情にも、余裕が戻ってきた。


トーベもまた、新しい自分を見つけつつあった。


戦争中は、常に緊張していた。しかし、今は違う。穏やかな時間が流れている。それは彼女にとって、新しい感覚だった。


ある日、彼女はアトリエの窓を開けた。


冷たい風が入ってくる。しかし、それは心地よかった。彼女は窓辺に立ち、外の景色を眺めた。


街には灯りがともっている。


戦争中は、灯りは敵を呼び寄せるものだった。しかし、今は違う。灯りは、人々の生活の証だ。誰かが家にいて、暖をとり、食事をしている。それだけのことだが、それがどれほど尊いことか。


彼女は机に戻り、ペンを握った。


新しい物語の構想が、頭の中で膨らみつつあった。


それは、これまでとは少し違う物語。もっと静かで、もっと内省的で、もっと優しい物語。


ムーミンたちは、もう戦争と向き合う必要はない。


彼らはただ、日常を生きる。互いにちょっとしたことで喧嘩をし、また仲直りをする。特に何も起こらない日々。しかし、それが一番大切なことかもしれない。


トーベはそう思った。


戦争は終わった。


そして、日常が戻ってきた。


その日常こそが、彼女が守りたかったものだった。


---


その年の冬、トーベは一枚の絵を描いた。


ムーミン谷の冬景色。雪が積もり、木々は白く覆われている。窓からはオレンジの灯りが漏れている。煙突からは煙が立ち上っている。誰かが家の中で暖をとっている。


その絵を見て、彼女はふと思った。


――ここに、ずっと住んでいたい。


戦争の冬に生まれたムーミン谷は、今や彼女の故郷になっていた。現実には存在しない場所。しかし、彼女にとっては、現実よりも確かな場所。


彼女はその絵を壁に掛けた。


そして、毎日それを見ながら、次の物語を考えた。


戦争は終わった。


新しい時代が始まる。


ムーミンたちは、これからどんな冒険をするのだろう。


彼女はまだ知らない。


この小さな白い生き物が、やがて世界中の人々に愛されることになるとは。自分がこの生き物と共に、長い人生を歩むことになるとは。


しかし、それでよかった。


未来は、まだ見えなくていい。


ただ、今を生きる。


そして、描く。


それが、彼女の答えだった。


---


窓の外では、雪が静かに降り始めていた。


冬の終わりは、まだ少し先のことだった。


しかし、確かに春は近づいている。


トーベはペンを握りしめ、新しいページを開いた。


そこには、まだ何も書かれていない。


白い、何もないページ。


しかし、その空白は、彼女にとって可能性そのものだった。


彼女は深呼吸をし、ペンを走らせた。


「むかしむかし、あるところに……」


物語は、また始まる。



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