色即是空--我思う、されど我は無し 9
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「ショータイムだ」
光を吸い込む漆黒のドレスを着た影人形は高らかに周囲へと百数の炎獣を召還した。
狐、狼、鹿、獅子、馬。人の姿は無い。もう舞踏会ではないのだ。
この間にも王志文の元へ先ほど愛鈴の影と成って召還した緑龍が牙を立たんと突撃している。
タローは即座に傍らに落ちた箒を握りそれに腰掛け、数十メートル先の王志文へと箒星の様に飛び立った。
漆黒のドレスを着たユカリの影となったタローは数百の炎獣を従える。緑龍は雄たけびを上げて、その牙が王志文へと迫り行く。
「放て!」
タローは後方のユカリへと命令した。その声はややハスキーな少女の物だ。
そこでは虚ろな生気が消えた眼をしたユカリが王志文へと右手の人差し指を向けている。
間髪無く炎の魔女の指先から炎球が射出された。
王志文は信じられない顔をして化け物を見る様な眼でこちらを見ていた。
――そんな眼で見るなよ。悲しくもならないじゃないか。
タローは気持ちだけで笑ったが、影で覆われたその表情はだれにも分からない。
影人形の耳元を掠りながら炎球がこちらへ体を捻っている王志文の眉間へと吸い込まれる。
「受け流せ!」
王志文は四色の紙と一本の鉄串を取り出して炎球へと投げ付ける。それらは炎の中心を捕らえ、多量の水流を生み出した。
水流に受け流され炎球は王志文の髪を掠る。
だが、これは苦し紛れの抵抗であった。
「巻き起これ我が風よ、炎を纏い紫電を放て」
炎球が外れた瞬間、オニロクに抱えられた愛鈴が竜巻を生み出したのだ。竜巻は緑炎を纏い、バチバチと帯電している。
当然、この暴風の進路は王志文の元だ。
王志文は未だ体制を立て直すに至っておらず、彼は周り全てを囲まれていた。
空からはユカリが生み出していた紳士淑女達の舞踏会が、前からはタローが作り出した炎獣と緑龍が、後ろからは愛鈴の竜巻が、全てが王志文を追い詰める。
箒の先からは爆炎が噴出して瞬きの間に王志文の目の前へとタローは到達した。
「カーテンコールだよ。諦めな」
タローはユカリが言いそうな事を言いながらその右手を伸ばした。
その右手は後十センチで王志文へと届くだろう。
「ふざけるな!」
王志文は叫びを上げた。何に対しての激昂だったのだろうか。
そんなことタローには興味が無い。彼が何を思い、何のために今まで生きてきたのか。そんなこと今知る意味も理由も無いのだ。
タローは箒から飛び立ち、逃げようとする王志文へと跳んだ。
王志文は自分の前方へ水流で出来た壁を作り出した。
しかし、それは後方に生まれた愛鈴の竜巻に吸い込まれ、意味を成さない。
空からは主を救おうと残ったキョンシー達が飛んでくるが、それらは炎像、炎獣、緑龍全てに阻まれて灰と化す。
もう、この道士にはタローの抱擁を避ける手札は残されていない。
王志文の眼が見開かれる。丸メガネが失われ、優男の風貌のみが残されたその顔はあっけないほどただの人間の物だった。
――――――――ッ!
タローの思考が空白に埋まり、それと同時にユカリの小さな体の影が王志文の物と重なった。
タローは王志文の耳元へ口を近付け小さく呟く。
「名無しの世界へようこそ」
瞬間、タローを巻き込んで王志文の全身が影に満たされた。
***
黒
クロ
くろ。
■■の視界は黒で満たされていた。視界だけではない。音も匂いも味も何もかもが感じられない世界に■■は放り込まれていた。
黒だけの無の世界が広がっていたのだ。
――ここは何処だ?
■■には分からない。ここが何処なのか。
――私は何をしていた?
■■には分からない。何故彼がここに居るのか。
そして何よりも
――私は〝誰〟だ?
■■には自分の名前が分からなくなっていた。
彼は恐怖した。確かに自分と言う存在はここに居る。思考をしているという自分が存在している事だけは確かなのだ。思考するという事はすなわちそこに意思が存在するという事である。意思が存在するのなら器たる自己も存在せねばなるまい。
では、自分は一体何なのか?
――――――――。
――――――。
――――。
――。
。
何も分からなかった。
■■の思考を埋め尽くすのは視界を覆う黒のみである。
「誰か居ないのか?」
周囲へと■■は声を出した。けれど、声を出したという実感が無い。触覚すら失われ、自身が出したであろう声すらもその耳に届かない。
■■は立ち上がろうとした。自然と今の自分が倒れているという事だけは分かったからだ。
しかし、■■は立ち上がることが出来なかった。自分がどの方向に倒れているのかすら曖昧であり、地面が何処に向いているのかも曖昧だった。
何も無い黒の世界。
そこは孤独だった。
そしてその孤独は彼が良く知る物でもあった。
――私はこの感情を知っている。
■■は胸に到来する感情に自身の体を抱き締めようとした。実際に抱けたかは分からない。
胸の痛みはなくならず、肺が捻じ曲がっていくような感覚が体中へと広がっていく。
――これは、寂しさだ。
■■は彼の胸に走る痛みの正体が寂しさであると理解した。
「い、やだ」
自然と声を出していた。自分にすら聞こえない声に返事をしてくれる者はいな
い。
寂しさ。最早思い出せないが■■の根幹に在った物だ。
自分が何をしてきたのかは分からない。けれど、この四肢が折りたたまれていくような痛みからどうにかして逃れようとしていたであろう事が■■には分かった。
「独りは、いやだ」
昔、自分は何かをしていたはずだ。この胸を引き裂く様な痛みから逃げるために、彼は何かを作っていたはずなのだ。
■■はそのナニカの名前を呼ぼうとした。
「――」
それさえも彼には分からなかった。名前を呼ばれなければ誰も返事をしないだろう。
■■は必死に思い出した。自分が呼べる名前を。自分の言葉に答えてくれる者を。
「誰も、居ない」
彼は分かってしまった。■■に返事をしてくれる者も、■■の名を呼んでくれる者も誰も居ないと。
返答は無い。ただの静寂のみが彼の世界の全てだった。
王志文は叫び続けた。
誰かが返事をしてくれるはずだ。
何かがこの真っ黒な世界にもあるはずだと。
しかし、叫び続け、呼び続け、それでも世界からは何の返答も無い。
■■は孤独という彼が何よりも逃げようとした寂しさに包まれたのだ。




