第14話
その日の指野家の夕食は賑やかな晩餐とは行かなかった。
美咲の母、照子が珍しく腕を振るった料理に、美咲は一切口をつけようとしなかったのである。
一緒に夕食を食べていた狩川は照子の作ったザンギを美味しそうにほおばっている。
大志も狩川と同様、ザンギを口に入れ、
「こいつは美味い」
と喉を唸らせた。
「沢山作ったから、じゃんじゃん食べてね」
「はーい」
照子の優しい言葉に、許斐は素直にうなづき、可愛らしい声をあげた。
しかし、美咲は無言でご飯にふりかけをかけてご飯だけを食べ始めた。
「美咲ち。これ美味しいよ。美咲ちザンギも大好物じゃん。一緒に食べようよ」
狩川に促され、美咲は照子を睨みつつ、震える指先で御箸をザンギに向け、一つすくい上げると、そのまま口の中に放り込み、無言で咀嚼を始めた。
美咲達の夕食の様子を撮る事は事前に許可を受けていた葛木だったが、彼女も食べるのに夢中で撮影はクルー達任せだった。
「ところで、どうしてお袋さんは今日はここに来たんですか」
怖いもの知らずの大志が、照子に視線を合わせた。照子は猛の顔を一瞬見た。猛がうなづいたので、美咲の母親はゆっくりとした口調で話し始めた。
「実は私、腎不全になってしまって、今人工透析を受けているの」
それを聞いた美咲の咀嚼が止まった。
母親が人工透析を受ける体になっている。
その事実は年頃の少女には大きすぎる衝撃の事実だった。
「そいつは大変ですね。なあ、美咲」
「私に振らないで」
「何言ってんだよ。実の母親が重い病気なんだぞ、何か言ってやれよ」
「私の口から言えることなんて何も無いわよ。家族の問題に口を挟まないで」
「そうは言っても事情が違うだろ」
「関係ないわよ。どうにかなるでしょ。別に死ぬわけじゃないんだし。」
「美咲ち、それは幾らなんでも酷いんじゃない。北海道一番の女子高生を目指す少女がそんな醜い心の持ち主でいいの?」
必死に諭す狩川に、美咲は鋭い言葉で応じた。
「今は北海道なんて関係ない。私個人のプライベートな問題よっ」
狩川の言葉は美咲の心に確かに刺さった。しかしそれでも美咲の母親に対する憎悪は収まらず、今度は勢いよくザンギを次から次へと口の中に放り込み始めた。
「このシーンはカットね」
葛木が、がっかりした様子で一人呟く。
「美咲、お父さんはもうお母さんを許してるんだ。美咲、お前もいい年の娘なら許してあげなさい。お前のお母さんは決してお前達を捨てたわけじゃない。裁判所の命令で親権を私が持つことになったからこうなっただけなんだ。お母さんはそのことを未だに悔やんでいるんだよ。その事実をわかってあげなさい、美咲」
照子がガンになっていることは言わず、猛は優しい言葉使いで美咲を諭した。
猛の理路整然とした口調に、美咲の心は少しだけ揺らいだ。
しかしそれでも母を許せと言われても、すぐには許せない。
自分を捨てたわけじゃなかったとしても、美咲にとっては捨てられたも同然である。他の男と一夜を供にする姿を想像しただけで強い殺意と吐き気を催すのだ。
「だったら何だって言うの。許せって言うの、この女を! 私には無理よ。絶対許せそうに無いわっ」
「別に許してほしいわけじゃない。事実を受け入れてあげてほしいというだけだよ」
と、猛は必死に美咲を諭したが、
「事実はお父さん以外の男と関係を持って愛した。それが全てでしょ!」
美咲はテーブルを強く叩き、立ち上がった。
「お父さんは男として悔しくないわけ! 情けないと思わないの? 自分の嫁を部下に取られたのよ? しかも相手はお父さんがもっとも高く評価してた人じゃない。その男は今は別の場所で牧場を経営しているのよ。同じ男として許せると思う? お父さんはその男に利用されたのよ? わかってるの? ねえ! わかってる?」
捲くし立てる美咲に、猛は困り果てたという表情を浮かべた。
大志は立ち上がり、そっと美咲の後ろに移動すると、彼女の両肩を優しく掴んだ。
「美咲、落ち着け。らしくないぞ」
「大志は引っ込んでて」
「お前のそんな姿、俺は見たくないよ」
大志の一言に、美咲ははっとして我に帰った。そして両方の瞳から涙を流しそうになり、大志の手を振り切り、食堂を小走りで立ち去っていった。
「あっ美咲ち」
「行くな、狩川。俺が行く」
飛び出していった美咲を止めようとした狩川を、大志は諌めた。そして自らも食堂を出て行った。
「二人の後を追わなくていいわよ。これはデリケートな問題だからね」
撮影しに行こうとしたクルー達を、葛木が制止した。
「あの男の子は?」
照子は猛に大志のことを尋ねた。
「ああ、今、訳あって家に同居してるんだよ」
「お姉ちゃんの彼氏さんだよ」
許斐が無垢な笑顔を見せて照子に言う。
「まあ、あの子もそういう年頃になったのね」
「そういうって何?」
許斐は純粋な視線をその場にいるあらゆる人に向けたが、答えるものはおらず、猛に優しく頭を撫でられるだけだった。
美咲は夕刻と同じ放牧場の近くの巨木にすがりつき、大粒の涙を落としていた。その様子を見た大志は美咲の背後から優しく彼女を抱きしめた。
「止めて! 大志、泣き顔可愛くないから、見られたくない」
「見やしないよ」
二人を包み込む風は勢いと方角を変えて虚空へと吸い込まれていった。
「味方だから」
「え?」
「例え何があっても、俺だけはお前の味方だから」
「大志・・・」
「そこんとこ、わかっとけよ」
美咲は涙を拭き、大志の方を向くと、彼に優しい笑顔を見せた。
翌日の日曜日。美咲は母親の人工透析に猛と同席して付いていくことになった。大志も「俺も行く」と言って同席した。
室蘭にある人工透析センターは、病人の集まりということものあってか活気が無く、醜悪な空気に満ち満ちていた。
「うへえ、こいつはいるだけで病気になりそうだぜ」
「ちょっと、そういう事は言うもんじゃないわよ」
「はいはい」
美咲に諌められ、大志は叱られた子犬のようにうつむいた。
そして暫く待つと照子の人工透析が行われた。時間は約四時間。長い療法の始まりである。
猛は一旦牧場に帰るというので、美咲と大志がその場に残ることになった。美咲は持ってきた漫画を読みふけり、大志はこのところの睡眠不足を解消するように眠り始めた。
今、私のお母さんは人工透析を受けている。
いいえ、今はもうお母さんじゃない。
赤の他人。
そんな他人の為に私は時間を使っている。
一体何のために?
心配だから?
本当に?
殺したいんじゃないの?
あの女を?
馬鹿なこと言わないで。
私はそんなことしない。
本当に?
殺したいほど憎んでるんじゃないの?
いい加減にして? 心の声はうんざり。
でも殺したいでしょう?
それは・・・。
さあ、立ち上がって。
彼女に繋がれたケーブルを引っこ抜くのよ。
それで全てが終わる。
楽勝でしょ、美咲?
それでこの苦悩から解き放たれるのよ?
止めて、それ以上言わないで。
美咲の心の中に巣食う悪魔が優しい声で囁き続ける。
美咲は漫画を投げ捨て、耳を塞ぐ仕草を見せた。
その奇異な行動に一部の患者が驚いたが、多くの患者は美咲に無関心だった。
さあ、美咲、やるの。
やりなさい。
そのためにあなたは来たんでしょう。
違う。
現実を知っておきたかったから来ただけ。
現実を知れば母に同情して許せるようになるかもしれないと思ったから。
そんなの大義名分よ。
本音は違う。
殺したいんでしょう?
美咲、自分に正直に生きなさいよ。
お願い、囁くのは止めて、お願い。
あなたが行動を起こしたら止めてあげる。
それまでは囁き続ける。
美咲の心の中の悪魔は容赦なく彼女を誘惑し続けた。それは美咲にはまるで鞭打ち刑でも受けているかのような拷問に感じられた。
美咲はとろんとした目つきで正気なく立ち上がると、母親が透析を受けている部屋へ入っていった。
美咲が立ち上がったことによって落ちた漫画本の音で、大志は目覚めた。
そして美咲がいないことに気が付いた。
「あいつ、まさか・・・」
人工透析を受けている照子は疲れて瞼を閉じ、眠りについている様子だった。
このケーブルを引っこ抜けばいいの、簡単でしょ。
それであなたは全てにおいて解放されるわ。
解放? 全てにおいて??
そうよ、楽勝でしょう。
そうね、楽勝ね。
うふふ、美咲は良い子。
私の言う事ちゃんと聞いてくれて。
どう致しまして。
美咲は無表情でそっとケーブルを掴んだ。
そのときだった。
「美咲、何やってるんだっ」
勢い良く飛び込んできた大志の声に、美咲は我に返り、そしてケーブルから手を離し、いとしの王子様の方へ全身を向けると、迷わず彼の胸に飛び込んでいった。
「大志、御免なさい。私、私・・・」
「いいんだ、もう、気にするな。魔が差しただけさ」
「そんなことない。私は昨日母さんが透析を受けているって聞いてから、ずっと頭の片隅にこの事が浮かんでたの。私は悪魔よ。北海道一の女子高生なんかに相応しくないわ」
「だったら乗り越えろ、今日、今、ここで。憎しみを乗り越えて強くなれ、美咲」
大志はそう言うと、美咲の顎を左手でクイっとあげ、上半身を少し猫背にしておでこに口付けをした。
それは、美咲にとっての人生初めてのキスだった。
「大志・・・」
美咲は繭の中にいるような表情で大志を見つめた。
大志も少しニヒルな笑顔を見せて彼女の視線に応じた。
そして二人は力強く抱き合い、病室を後にしていった。
二人が出て行った後、眠ったフリをして一部始終を見聞きしていた照子は、そっと上半身を起こした。
「美咲・・・」




