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「そんな難しい演技じゃないだろ? 大丈夫だ、落ち着いてやれば出来る。な?」
「……出来ないよ」
やっと気が済んだのか、首を振るのを止めて弱々しく呟いたその顔を見て、息を飲んだ。
大きな瞳にいっぱいの涙を浮かべて、今にも溢れさせてしまいそうに揺らしていた。
その姿は、事の発端となった土曜日に初めて見た涙を容易に思い起こさせ、俺の行動のなにもかもを躊躇させ踏み留まらせてしまう。
「どうして? どうしてそうやって自分だけが犠牲になろうとするの?」
ちいさく息を吸い込んで言葉を紡いだと同時に、はらりと舞うように大粒の涙が零れた。
零れ落ち頬を伝う涙を拭おうともせず、鳴海はまっすぐに充血した目で俺を見据えて、
「わたし、出来ないよ。他人を――、ううん、真潮を犠牲にするようなこと出来ないよ」
あまりにも素直にまっすぐ紡ぎ出された言葉に嘘の片鱗なんて見当たらなかった。
「いや、出来る出来なくじゃなくて、やらないと――」
「わたし、確かにお願いした、元に戻してって無茶なこと言った。けど、わたしだけが元に戻れても意味ないよ。……兄妹なんだから一緒に、二人で元通りになろうよ?」
「一緒に、って、なにを今さら。俺たちは偽物の兄妹なんだぞ?」
俺の言い草に鳴海が小さく肩を震わせ、追いかけるように涙の粒が零れて落ちる。
なんて嫌味ったらしいのだろう。
あの日、口論から弾みで出ただろう『偽物の兄妹』と吐き捨てられたことを、これほどまでに自分が根に持っていたことに驚いてしまう。
「……でも、兄妹だから、兄妹だと思ってるから、自分を犠牲にしてまでわたしを助けようと、わたしのお願いを叶えようと、あんなことしたんでしょ?」
「違う。ああするのが一番効果的だったからだ。現にみんな信じて疑ってなかっただろ。兄妹とかどうとかは関係ない。だからお前が気にかける必要なんてない」
「そんな――」
「だからもうあんな狭い六畳二間で俺と一緒にいなくていい。もちろん、今ここで一緒にいる必要もない。だから早く教室に戻れ」
とにかく冷静に、なるべく無感情に、鳴海の揺れ惑う不安定なペースに決して飲まれないように、静かに事実だけを述べて背を向ける。
背を向けていないと、悲痛なまでのその表情を見続けていると流されてしまいそうなのだ。
今すぐにでも、妹の零れる涙を拭ってやりたい衝動を堪えて拳を握りしめているのだから。
「なんでよ……? 待ってよ? ねえ、偽物の兄妹って言ったこと怒ったの? ねえ、謝るから、ちゃんと謝るから許してよ……?」
困惑を滲ませながら、まるで追い縋るように俺の背に手を伸ばして触れてくる。
その、おそるおそる触れられた指先から躊躇いと怯えがない交ぜになって伝わってくる。
「お前、言っただろ? お願いを聞いてくれるくらいしか良いところがないって」
「ちが――」
「実際その通りだから最後に、ちょっとだけ格好付けたかっただけだ。怒ってなんてない」
「待って――」
「それなのに俺の作戦を全部台無しにしやがって。とにかく今すぐに教室に戻れ。なんとかする、なんとかなるようにもう一回作戦を立て直す」
「お願いだか――」
「いいから戻れっ!!」
みっともないほどぐらぐらと揺れる気持ちを断ち切るつもりで発した自分の声が、階段の踊り場に思いのほか大きく反響した。
背に触れていた鳴海の手がビクリと強張り、驚きと怯えをありのまま伝えてくる。
それなのに、怯えて震える手をそれでも決して離そうとはせず俺の背中に押し付けたまま、ついに堪えきれなくなったのだろう、
「……真潮のこと、そんな風に、お願い聞いてくれるしか良いところがないなんて思ってないよ? 本当よ! 本当に思ってないよっ?」
しゃくり上げて絶叫じみた涙声で訴えかけてくる。
「ねえ、本当よ、信じて! わたしじゃどうにも出来ないことばっかり重なって、頑張ってるつもりなのにぜんぜんうまくいかなくって、自分が惨めで情けなくて悔しかったの。わたしなりに頑張ってたつもりなのに、ちっとも努力が報われないままどうしようもないことばっかり起こって、だから誰かのせいにして――、ううん、真潮のせいにして酷いこと言って……」
母親の仕事上での災難に巻き込まれ自宅を失い、再婚相手の連れ子はこれまで歯牙にもかけずにいたクラスの陰キャ男子。
そのうえ、そいつの暮らす六畳二間に転がり込むしか選択肢もない。選ぶ権利すら与えられず受け入れるしかない鳴海はずっと振り回されてきたのだ。
悲壮感漂う散々な状況を押し付けられ、自分では何をどうすることも出来ないのだ。
同じ立場になったらさすがに俺でも気が滅入って誰かに愚痴の一つも零すかもしれない。
「……ごめんね? 酷いことばっかり言ってごめんね? ちゃんと、ちゃんと妹が出来なくて、いい妹が出来なくってごめんね? 今度は、次からはちゃんとするから! いい妹でいられるように頑張るからっ!」
そう、俺たちの関係は、いい妹でいることを頑張らないといけない間柄なのだ。
意識の片隅で常に気を張っていないと簡単に崩れてしまう脆弱な積み木の城みたいに。
「本当はわかってるの! 真潮はずっとわたしのために頑張ってくれてたって! ずっとわたしのことを見てくれてたって! ちゃんとずっと助けてくれてたって!」
「それでも、俺とお前は血の繋がりもない偽物の兄妹なんだ。それに明日にはお前のお母さんも帰ってくる。そうすれば今の辛さは全部終わる。つまり、もう頑張らなくて良いんだ。だったらもう俺にかまう必要もないだろ」
声を詰まらせて鳴海は必死に思い付くことを思い付く端から、飾り立ても取り繕いもせずにぶつけてきていた。ぼろぼろと涙を零して湿らせた声を振り絞って。
だから、あくまで優しく、決して嫌みたらしく聞こえたりしないよう、そっと穏やかに突き放す。
こうすることがどれだけ身勝手な優しさであるかくらいわかっている。
疑いようもなく血の繋がりのない偽物の妹を、それでも大切に想わずにはいられないから。
大切に想うからこそ終わらせられる機会を逃すわけにはいかないのだ。
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