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なにやら鳴海のご機嫌ゲージが振り切れてしまうような出来事が昼休みにあったらしい。
俺はずっとスマホでスーパーの特売情報を照らし合わせ、最短ルートでタイムセールを巡る算段を立てていたからまったく知らないし、正直なところ興味もない。
「なんて素敵な気分! 綿摘くんがわたしの変化に気が付いてくれるだなんて!」
玄関ドアを蹴破る勢いで帰宅するなり踊るように軽やかな足取りで靴を脱ぎ捨てる。
「変化? うーん……、便秘でも解消したのか?」
「違うわよ! まったくアンタってデリカシーとかどこに置き忘れてきたのよ!」
興味が湧かないのだから仕方ないだろう。
晩ご飯の準備をしながら適当に答えると、声を荒げて俺のふくらはぎにローキックをお見舞いしてくる。
しかし普段の抉るような鋭さがまるでない。
条件反射で繰り出されただけで本来のキレもない。その証拠に口では文句を言いつつもだらしなく緩んだ頬が隠しきれていなかった。
「シャンプーよ! わたしがシャンプー変えたことに綿摘くんが気が付いたのよ! すごいと思わない? ううん、すごいと思って見習いなさい!」
「ええ……、クラスの男子からシャンプー変えたとか言われるの気持ち悪くないか?」
「陰キャのアンタだったらね。綿摘くんは別。勝手に同じ男子って括らないで」
「……陰キャってだけで何一つ罪はないはずなのに男って性別のカテゴリーからさえ外されてしまうのかよ? あと何度も言うが俺は陰キャじゃねえ」
「シャンプー変えたことに気が付いたってことは、前のシャンプーの香りも知ってたってことでしょ! ヤバいヤバい! どうしようっ!!」
「気持ち悪さが増しただけに聞こえてマジでヤベえ気がするんだが、顔面に恵まれているのって本当に役得なんだな……」
「あのシャンプー、じっくり吟味して選んで良かったわ!」
「じっくり吟味する間の、あの地獄みたいな問答を忘れたのか……?」
ドラッグストアで繰り広げられた、生きるか死ぬかの瀬戸際みたいな大討論を思い出す。
まるっきり子供じみた駄々に付き合わされた挙げ句にクソ高いシャンプーを買わされた、途方もない疲労感が改めて押し寄せてくる気分だ。
「あそこでわたしがあのシャンプーを譲らなかった結果がこれよ! 本当に良かった!」
「……だったら俺はなるべく綿摘に近付かないように気を付けないとな」
「は? なんでよ?」
「綿摘は鼻が利くんだろ? お前と同じ匂いってことに気付かれるかもしれないだろ?」
「え、ちょっと待って? もしかしてわたしの大事なシャンプー勝手に使ってるの!?」
「それしかシャンプーねえんだから使うに決まってるだろ?」
「信じらんないっ、もったいないから使わないでよ! アンタは元々使ってた、あの量り売りみたいな安物のやつでいいじゃない!」
「量り売りのシャンプーなんてないってこの間お前が言ったんだろ。洗えれば何だっていいんだから、量り売りがあるんだったらとっくに変えてるぞ」
「それよそれ! こだわりが欠片もないんだから使わないでよもったいないっ!!」
「あと、親父も使ってるはずだぞ」
「なんでよ!?」
「だから何度も言うが、それしかシャンプーがねえんだから当たり前だろ。みんなお揃いの匂いで良いじゃねえか」
「どこに良い要素があるのよ!? ぜんぜん嬉しくないんだけど!?」
「そんなにお揃いが嫌なら、次からはレモン石鹸にしてやるからそれで頭洗えよ」
「レモン石鹸!? 嫌よっ! 石鹸なんかで洗ったら髪ギッシギシになるじゃないっ!!」
「だったらお揃いに文句言うな」
「お揃いが嫌なんじゃなくって使わないでって言ってんのよ!」
「あと、ここだけの話だが最近親父のヤツ密かに毛量を気にしているんだ。お前のシャンプーで親父の悩みに貢献するくらい良いだろ?」
「その悩みはさすがに荷が重いわよ!? それこそ専用のもの使いなさいよっ!」
「ほら、手洗い用の新しい石鹸だ。ぐだぐだ言ってないでうがい手洗いして着替えてこい」
台所の戸棚から牛乳石鹸を取り出して鳴海に手渡す。
上機嫌に鼻歌混じりで帰ってきたはずなのに、なにが気に入らないのか潰してしまいそうな圧で石鹸を握りしめて睨み付けてくる。
苛立ちを叩き付けるみたいにうがいと手洗いを済ませ、部屋着に着替えて戻ってきた鳴海は俺の手元を覗き込み、
「――っ! お肉っ! ちょっとちょっと今夜のメニューはなに?」
目ざとく豚肉を見るなり、綿摘にシャンプーを指摘された時と同じくらいに顔を緩ませながら詰め寄ってくる。
色気が食い気に完敗してるじゃねえか……。
「ふむ、そうだな……、今夜は『特選もやしと厳選卵のスパイシーソテー、豚バラ肉をほのかに添えて』だ。大人しく待ってろ」
「どうして豚肉は添えるだけなのよ! しかもほのかに!? 豚肉を主役にしなさいよ!?」
「主役にばかり置かれがちな豚肉をあえて添えるだけにするこの感性がわからねえかぁ」
「ケチってるだけでしょ!? あと創作料理っぽい名前を付けて誤魔化そうとしてるけど、それってただのもやし炒めでしょ!」
「創作フレンチとかただ焼いただけの肉に、何が言いたいのかイマイチわかりにくいまだるっこしい料理名付けてるだろ。テレビで芸能人とかが食べてるじゃないか」
「だったら、ただ焼いただけのお肉を出す時にして!? どんな名前が付いてもこれはただのもやし炒めでしかないから! 名前だけで創作フレンチと肩を並べようとしないで!?」
「うーん、じゃあ『シャキシャキもやしとふんわり卵のマリアージュ』ならどうだ?」
「どうだ? じゃないわよ! 豚肉どこ行ったのよ!? 隙あらばケチろうとしないで!?」
「チッ、気が付いたか。すごい馬鹿だと思って侮ってたが普通くらいの馬鹿だったか」
「誰がすごい馬鹿よっ!」
ベシッとふくらはぎにローキックが食い込む。本来のキレを取り戻して地味に痛い。
「だから料理中に蹴るな! ああ、そうだ。それはそうと明日またスーパーの特売に付き合ってくれよ? どうせ用事なんてないだろ?」
「い、や、よっ! 冗談じゃないわ! わたしがどれだけ忙しいか知らないくせに!! 用事がないとか勝手に決め付けないでっ!!」
完全にへそを曲げてしまったようで、フグみたいにぷくーっと頬を膨らませた鳴海は小刻みにローキックを連発してくる。日に日にフォームが良くなっている気がして腹立たしい。
「いってぇなあ……。うーん、明日の特売は肉を買いに行くんだが――」
「行くぅ~!!」
瞬時にぱあっと顔全体に華やかな笑顔を咲かせ、
「行く、行くぅ~~っ!!」
甘ったるい猫なで声を出しながら俺の袖を摘まんでぐいぐい引っ張る。
これほどまでに華麗な手のひら返しをいまだかつて見たことがなく呆然としてしまった。
「……用事あったんじゃないのか?」
「もう、大事なこと言うのが遅いのよ! 何のお肉を買うの? 牛? 牛でしょ? 牛にしましょう! 近江、松坂、飛騨、神戸! ああん、選びきれるかしらっ!」
綿摘にシャンプーの香りを気付かれたと喜んでいた時以上の上機嫌となって、今日一番の幸せそうな笑顔を覗かせる。
ちなみに明日の特売のお肉は鶏肉だ。
鳴海のゴリラモードを沈静化させるため急遽作らざるを得なかった唐揚げは、当たり前だが漬け込みもあまく納得のいく出来には程遠かった。
必ずリベンジしてやるつもりで特売情報をつぶさに確認し続けていたのだ。なので、まかり間違っても呪文みたいに唱えていたブランド牛であるはずがない。
ないのだが言わない方が良いだろうと黙っておくことにした。
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