『肆ノ柱 ✿ 幽冥界 de 輪舞』
緋子は、その両腕に抱え込んだ翡翠色に輝く球体を覗き込み、外の様子を窺っていた。
何やら 向こう側の家族たちの動きが慌ただしくなってきたかと思えば、蓮御門家に仕える使用人たちまでもが呼ばれ、何かの準備をしているようだ。
そして、一度部屋を出て行った丹子が、何故か猫の黒揚羽を連れて来たりなどしている。
「えーっと… あの人たち、一体何をしているのでしょう…。 まぁ 取り敢えず順当に考えれば、今現在で一番の異常事態は…… やはりこの私ですわよねぇ…。 もしかして、此処から助け出してくれるのかしら? いえでも… 此処ってそもそもが私の身体の中な訳ですから、出されちゃっても困りますし…… 」
… と、緋子があれこれ思考を巡らせていると… 翡翠色の球体の向こう側、儀式の場にいる母 煕子が急に近寄って来るのが見えた。
そして この大きな色眼鏡越しに、明らかに此方側に向かって何かを語り掛けると… 何故だか満面の笑みを浮かべ、すぐにまた離れて行ってしまう。
その謎の笑みが、緋子にはただひたすら 不穏当なものに思えてならない。
「い… 一体 何でしたの? 今の怪しげな笑みは…。 でも生まれてから長年 あの人と一緒に居りましたから、何となく解る気がしますわ…。 あれは… あの微笑みは、ちょっとやばいやつかも知れませんわね… 」
直感的にそう思い身構えるが… とは言え、力んだところで今の状況下の緋子には、何が出来る訳でもない。
… と、ここで緋子は ふとあることに気付く。
「そう言えばこれまで… そう、先程の御母様も… 此方を向いている時は何だか、まるで『会話をしている』ような素振りに見えましたわ…。 え… 誰と? 私…? でも私は此処に居る訳で…… 」
しかしながら更に思い返してみると、先刻想像した通りに、この翡翠色の球体が『緋子自身の眼の裏側』であったのだとすれば ――
「先程からずっと… この球の先の風景って、彼方此方に視線を移動させておりましたわよね…。 それに時折、私自身の手振りのようなものも見えていたり…… 」
緋子がそこまで思い至るのとほぼ同時、その『緋子自身の手』の甲が玉の向こうに大きく迫ってきたかと思うと、そのまま完全に視界を塞いでしまうのが見えた。
だがその刹那、目の前に浮いている翡翠色の玉が、それ自体の発光か外からの光かは判然としないものの、突如 膨大な光の渦を内側に流し込み始め ――
「きゃぁ! ま… 眩しぃ!!?」
その光の奔流が更に光量を増していくのに合わせ、そこから溢れ出た幾つかの光の束は、まるで意志を持った火の玉のように幾筋かの触手となって伸び始める。
そしてあろうことか、緋子の身体に次々と纏わり付いてきた。
「えっ!? ちょ… なな、何ですのこれは!!?」
… と、緋子が自らに起こりつつあるこの異常な状況を見定めようとする暇もなく ――
それら光の触手たちはもの凄い力で、今度は件の玉の方へと その身を引きずり込もうとしてきたのである。
そしてその向かう先のそれは、今では更に白翠く輝きを増大させており ――
兎も角も あまりの目映さに、直視することも儘ならない程の有り様であった。
「ちょっと、もう… な、何なのこれ……。 一体何なんですの!? この状況はぁぁぁああああ!!?」
◇
気が付くと緋子は ――
つい先刻まで身を横たえていた部屋の中を、自分自身が何か光のような実体のないものに成り果てた姿形で、ぐるぐると旋回し飛び回っているのを感じた。
室内には、どうやら自分の他にももう一つの光の玉が飛び回っており… それらを見上げる父 晴親や母 煕子… 妹の丹子と、そしてもう一人 ――
「え… 寝座に座っているのって… 私……?」
緋子には、突然の出来事の累次続きで思考が全く追い付かず 訳が解らない事ばかりであり… 全く以て、なかなかどうしてな状況である。
「ん~… お部屋の中を… ぐるぐると飛んでいる私が… 私自身を上から俯瞰で見下ろして…。 あぁ… これってやっぱり私… 死んでしまっているのかしら……?」
しかし今現在、寝座の八重畳上に座って右手を眼前に翳し… そしてその右眼付近から、如何なる仕儀か膨大な光を迸らせ続けている『緋子の身体の方』は ――
どうやら煕子と何かを話しながら、あれこれと動いているように見える。
「でも… あの私の身体… 何かしっかりと動いてますわよね…。 じゃあ、死んで… ない?」
あまりに異常な状況とその変化の連続に、一時は『死』をも想起し放心し掛けた緋子であったが、同時にその違和感にも気付き、いろいろと悩み始める。
「え……………? それでは… あの私は一体… 誰なんですの? そして今、此処に浮いているこの私って一体…… 」
見下ろした先に居る『自分』である筈の身体が、どうやら緋子の意思とは無関係に… ひいては恐らく、全くの別人格として行動していることを、ここで漸く認知。
「 …って、ぃやだ! あの私ったら、未だに裸のままではありませんの! それに… それに何か、全身が蒼白く光ってますしぃぃぃい!!?」
そう… そしてあまつさえ、その眼や身体が異様に発光している様を目の当たりにした途端、急速に膨れ上がるそれら奇怪な疑問の数々によって、緋子の意識は再び覚醒し始める。
いや… それを一気に通り越し、今度は不安と昂りの極に達していくのであった。
「いや、そもそも眼から光が出てるとか… あの私ってば、一体どういう状態ですの!? うゎ… それに反対側の眼は真っ紅ですし…。 ひぃっ! 今確かに、何か少し嘲笑いましたわよ… 怖っ!!?」
… と、ますます狼狽・驚愕・混乱していく様子の緋子。
しかしそんな中でも気丈なことに、何とか『己自身』の存在を確認するため、まずは自らの身体の感覚を確かめようと試みてみる。
だがしかし… やはり緋子の身体は物質的な実体を失い、光か炎… もしくは気体のようになってしまっているらしく、その身の頼りないこと この上もない。
また面妖なことに、空中を自由に飛び回ることは出来ても、逆に床の方へと降りたり、または壁を通り抜けて部屋の外へ出るなどのことも、どうやら出来ない状態のようであった。
「あ~ん、もぉっ! どうしましょうどうしたらいいのどうしろっていうのよぉ~!? ねぇちょっと御母様ぁ!? ねぇ丹子さん、私は此処よ!? ぐすっ…… もぉ何でも良いから早く助けてぇ~! てか、あの光ってるのは一体… 誰なのよぉぉぉお~~~!!?」
しかしながら、実際にそういった救いを求める声を上げようにも如何ともし難い。
そしてこれは正直、蛇足の些事ではあるのだが ――
緋子自身も特に意識はしていないものの、自分が飛び回っている下で ただぽかんと口を開けているだけの晴親に対しては、とても助けなど求めようという考え自体、凡そ浮かんでこなかったのであった。
◇
室内をあまりにも激しく迸り行き交う、恐らくは緋子や黒揚羽たちの魂なのであろう光の渦の狂乱…。
そして最早、儀式を執り行なっていた煕子たちの側も あまりの光景に慌て狼狽し、秩序も律令も完全に崩壊してしまっているこの混沌…。
「なぁおい、パドっちぃ! 今のこれって、本当に大丈夫なのかぁ!? 予定通りの… ちゃんとした想定内の状況なんだろうなぁ!?」
丹子は思わず、パドマにこの現況の正否を問い質すべく詰め寄る。
「パ… パドマさん!? ぁあ、あの飛んでいる二ぁつの火の玉…。 あれらが緋ちゃんと黒ちゃんということで、間違いないのかしらぁ!?」
煕子は、既に不要と判断して祝詞を唱えるのは止めているものの、舞いの動きはそのまま継続しつつパドマに問い掛ける。
この世ならざる光の、斯様なまでに荒乱過度・無茶出鱈目な超越的溢流の最中にあって尚、儀式を継続させようと狂奔する彼女らの真剣な問いに対してパドマは ――
「あぁ… これはちと流石に、場が荒れ過ぎのようじゃのぅ。 二体とも、突然の事で随分と畏れ慌てておるようじゃ。 ふむ… 此処はもう、我れが出張るしかないかも知れん」
パドマはそう言うと、右眼の前に翳してあったその手を物憂げに頭上へと上げる。
すると、白翠色に輝く直径五尺程の魔法陣が、その手の先の空中に突如出現した。
「うゎ!? なんだそれすっげ… 時計の針み…… 」
「あらぁ綺麗… パドマさん、それは一体な…… 」
「はぁ… これはもう儂なんぞの手には負え…… 」
相も変わらず騒がしい蓮御門家の者たちが、時計盤の文様を施された美しい魔方陣の出現に驚き、手前勝手に何やら銘々 口走っていたようであったが ――
それらに応えていると、またぞろ面倒なことになると悟ったパドマは… 賢明にも一切を無視し、そして ぱちりと音高くその指を鳴らした。
すると、その瞬間 ――
まさに狂気乱舞の体であった室内の動き一切が ぴたりと止まり、同時にその中の色彩全ても、灰茶白黒の世界へと誘われた。
それまで壮絶な状況であった部屋の中は、突如訪れた静寂に包まれ… 急に動きを止めた人間たちと、そして乱れ飛んでいた光の玉までもが、まるで石膏か砂の像のように白翠く 生気の抜けきった無機的な姿を晒している。
但し、そんな不思議なこの光景を視認出来ていた者は、渦中にある緋子と黒揚羽… そしてこの状況を創り出した、パドマ本人だけであったろう。
そしてパドマは 寝座の上で手を上げ座ったままの体勢で、眠そうに細めていた両瞳の内の左側 ――
紅く輝いている方の眼を、今よりも少しく大きめに開く。
すると、その紅眼は これまで以上に輝きを増していき… そこからはなんと三つめの光の渦が、疾く静やかに迸り出でたのであった。
パドマの左眼から溢れ出たその光が天井付近にまで上がっていくと、刻の静止と共に宙で止まっていた二つの光の玉も再び輝きを取り戻して動き出し ――
そしてそれら三つの魂たちは巴のようにくるくると、まるで脈打つ丸い心波形のような輪舞を舞い遊び始める。
そしてこの先は異界……。
黄泉と現し世との狭間 ――
互いに手を取り、動き始めた二つの魂たちに向かって、三つめの魂として宙に踊り出でたパドマが 静かに声を掛ける。
「驚かせてすまぬ。 そして緋子殿、其方とは此れが漸くの『初めまして』じゃのぅ。 我れは、パドマ・バティ・ヴリコラカスと申す者。 所謂… 吸血魔族じゃ」
「 ………………… えーっと… はい?」
「 ………………… にゃー… にゃにゃ?」