『貳ノ柱 ✿ 己躰内 de 蟄魂』
「此処は… 何処なの…… 」
周囲が、不自然な程に美しく真紅に染め上げられた、天地左右すら何もない異空間の中で、少女はそう呟く。
するとまるで その言に応えたかのように、深紅一色だった空間の中で突如一点、直径2尺程もある球状の物体が、白翠色に輝き始めた。
少女はそれをすぐに見付け、空間を泳ぐように近付いて行く。
「綺麗… こんな何もないところに、まるで御月様みたい… 」
そう独り言ちると、少女は その月のように光輝く透明の丸い何かを両掌で優しく包み込み… その向こう側の世界を窺い覗き込むようにして、眼を くっ… と凝らしてみる。
すると ――
覗き込んだ向こう側には、少女がつい先程まで寝かされていた、寝座のある部屋と数々の儀式道具…。
そして、父親である晴親や、母 煕子たちの姿が見えた。
「うーん… どうやら音は何も聴こえないようですけれど… でも、この翡翠色の大きな水晶玉の奥に皆が見えるということは… 取り敢えず『向こう』がお部屋の中… で、間違いないですわよね…?」
少女… 蓮御門 緋子は、自らの置かれた状況がよく判らないことによる不安を紛らわせるように、まずは誰もいない空間で独り、敢えて思いをいちいち口に出しては、自分自身とその声を確認してみる。
そして、現状唯一の標となりそうな眼前の光る玉を 改めて大事そうにしっかりと抱え込むと、更にその奥を ぐっ… と喰い入るように覗き込んだ。
すると何やら、あの両親たちが ――
こそこそと互いを突き合いながら、滑稽な動きであたふたし始めたかと思うと、挙句 呆けたような表情を浮かべ…。
そして終いには、まるで途方に暮れたような顔で、こちらに向かってぺこりと頭を下げている姿が見える。
「まったく… 御父様と御母様は、一体何をなさっているのかしら…。 本当に何だか挙動不審で、華族らしさのカケラもありませんわ… 」
両親の そんな珍妙しな動静を、少しく呆れながらも半笑いで見ていると、今度は部屋の外から妹の丹子が、血相を変えた様子で突入してくるのが見える。
「丹子さん、相変わらず行動が大胆で勇ましいですわね…。 私と同じ姿なのに、性格はまるで正反対」
緋子が そんなことを独り呟いていると、光る翡翠色の玉越しに、何やら驚いた表情を見せている丹子と視線が合ったような気がした。
どうも、外からこちら側を覗き込むようにし、何かに驚いているように見える。
「あら… もしかして、あちら側からもこちらの中が見えるのかしら…… ん? あちら… こちら…… 中?」
そこで緋子は再び、自らの『状況』についての把握に思考を引き戻す。
今現在 自分が居る場所は、ただ延々とひたすらに真っ紅な、地面ですらも何もない異空間…。
そして そこにぽっかりと浮かぶのは、白翠色に光り輝く球状透明の柔らかな物体…。
これらのみが 今の緋子にとっては全てであり、唯一の頼り ――
その不思議な玉を使って『外』の様子を見てみれば、いろいろと突っ込みどころはあるものの、相変わらずの家族たちの姿と、そして変わらぬ室内の様子。
そして両親も妹も何かを話したり、また何故か こちらに向かって頭を下げたり…。
あとは室内の位置関係などを勘案すると、もう答えは一つだ。
「皆が話しかけている相手は… 未だ室内に居るままの私の… 身体? そしてこの翡翠色の玉は眼… その裏側なのかしら……? でも、『私の身体』が外にあるのだとしたら… 今この中にいる私は一体……?」
漸くそこまで考えが及んだところで、緋子はふと あることに気付く。
「そう言えば私… この場所に来てからず~っと、身体の感覚がありませんわ… 」
◇
ちょうどその頃、外では… 丹子が漸く、『緋子の魂はどうなってしまったのか』という疑問に思い至り、それを周囲に告げているところであった。
「姉貴って… 一体どうなっちまったんだ?」
そんな丹子の至極的を射た問いに対し、例のあの両親たちの反応は 予想通り鈍い。
「はぁ? お前さん、何を言うとんのや。 緋子ならさっきからず~っと、目の前に居るやないか」
「あらあら丹ちゃん、疲れて ぼぉ~っとしちゃったのかしらねぇ… 」
目端が利き 聡い丹子としては、あの両親たちのこの反応は、取り敢えず全く以て 想定の範囲内である。
「あー… うん。 いやぁ… ぼぉ~っとしてんのはどっちなんだっつー… まぁいいか。 いやさー、そこにいんのはぁ…『姉貴の身体』と、そん中に憑依り込んじまってる『パドっちの魂』… みたいなもんなんだろ?」
「パドっち… え、我れのことか?」
この反応も想定内であり黙殺。
「だったらよー、姉貴の魂… ってか、心ってぇのかさー。 そのー… 中身? 『本体』はさ、一体どうなっちまったんだっていう話なんだけど… 」
そこで漸く、両親たちも思考が追い付いた。
「あ~~~、そうかそうか… 『緋子』なぁ~! そぉやった そぉやった」
「あらあらまぁまぁ、すっかり忘れてたわぁ♪」
この反応も、当然ながら丹子の想定内である。
それはそうだ、ここで慌てふためかれても困るではないか。
「じゃあさ、どうすれば姉貴は戻ってこられるんだ?」
「それはねぇ、パドマさんによる憑依が解けたらぁ… すぐにまた、緋ちゃんの意識が戻ってくるのよぉ♪」
煕子がそう言うと、隣にいる晴親も『うんうん』と頷いている。
「だってぇ、元々が『口寄之儀』なわけなのだからぁ… 神様か精霊様が出て行かれたあとはぁ、緋ちゃんが『ただいまぁ~』って帰って来るに、決まってるじゃな~い? うふふ♪」
そして晴親は相変わらず、『そうやそうや』と隣で相槌を打つのみである。
「そっかぁ… じゃあもう少ししたら、パドのやつとはお別れなんだなぁ… 」
丹子がそう言うと両親たちも、パドマ… 緋子の身体の方を見て、少し名残惜しそうな表情になる。
するとパドマは、その視線を受けて一言… 衝撃的な言葉を発した。
「ん… なんじゃ? 我れは此の身体から、自力で抜け出ることなど出来ぬぞ?」
◇
パドマからの衝撃発言の後、室内は混乱の極みにあった。
「ぁぁあ… あの、パド… パドマさん? 自力で出られないってぇ… いったい、どういうことなのぉ!?」
普段であれば、何事があってもほとんど動じるところなど見せない煕子が、この時ばかりは動揺を全く以て隠すことなく、声ばかりか手先や足先までもが わなわなと震えている。
「ふむ… 我れはのぅ、先程も少し話した通り、『吸血魔族の真祖』であり、その力は… そうじゃのぅ、其方ら人間族どもと比した場合、魔素量だけでも相当な… それこそ、天と地程の差があると言えよう。 そうした我が魂魄がじゃ、人間族の… それも斯様に小さくて脆弱な身体に無理やり押し込められたのじゃから…… 」
それは当然、そのまま何もせず 引き寄せられるがままに憑依り込んでしまっていた場合… 恐らく緋子の身体は、跡形もなく弾け跳んでしまっていたであろう。
故にパドマは、術に喚ばれて魂魄が置換されていくと同時、緋子の身体組成を根本から作り替えながら、自らを入魂・定着させていくしかなかったというのである。
「しかしそうなるとのぅ… これはもう、我れの身体になってしまったも同然。 生き物は普通、己が身から魂魄を自由に出し入れしたりなど、容易に出来はすまい? じゃからのぅ… 我れが出たいと思うたとしても、今更それは出来ぬのじゃよ… 」
パドマのその言葉を、晴親… は ただ理解があまりよく追い付かずに呆けて聞いていたのであるが ――
煕子の方は、その内容と状況をしっかりと理解し… だがそれであるが故に、より確信に近い絶望の淵で、同じく呆けたような状態に心を堕とし込んでいたのであった。
「え… じゃあ、姉貴は… 姉貴の魂は、一体どこに行っちまったんだよ… 」
丹子のその問いに対し、パドマは心苦しそうに答える。
「緋子殿の魂は、まだ我れの… いや、すまぬ…… この緋子殿の身体の中に居るよ」
その言葉に、煕子は はっと我に返って顔を上げる。
「では 緋ちゃんは、まだちゃんとそこにいるのね!?」
「ぁ… ああ、随分とその身を小さくして… いや、少し違うのぅ。 我れが入魂り込んだことにより、この身の内に拡がる空間が拡張・増大し… 結果、比して小さくなった緋子殿の魂は、その中をあちこち彷徨うこととなってしまっておる。 そして今はちょうど… ふむ、この右眼の奥からのぅ、今のこの様子も覗いておるようじゃぞ?」
それを聞いた煕子は 瞬時に判断し思考を巡らせると、これまでに家族ですらも見たことがないような機敏な動きと力強い言葉で、晴親と丹子、そしてパドマに対し、まるで厳命するかのように言った。
「丹子、離れから急いで 黒揚羽を連れてきなさい! そしてパドマさん、あなたは出来得る限り魔素量を内に抑え込んで、かつ その右眼の奥にいるという緋子の魂に道を開けてあげてちょうだい!」
「は… はい、母さま!」
「へ!? ぉ…おぅ、解ったぞ!」
いつにない煕子の剣幕に押され、丹子のみならずパドマまでもが、有無を考える暇もなくその言に従い、疾く行動に移る。
煕子はそれを見届けると ――
「さぁ、晴親さん! あたくしたちは急ぎ、『現魂移体之儀』の設えを整えて…… あと、もうひとつ形代の用意を!」
「 ………… な、何やと…!? 煕子ぉ、まさかお前…… 」
狼狽える晴親の様子を尻目に、煕子は気にも留めず きっぱりと言う。
「まずは緋子の魂を開放し、現況から救うことを第一義とします。 黒揚羽の身体を、一時の器とするわよ!」