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Ⅴ・風が流れる(3)

     * * *


 男は足元に転がっている《肉塊》へと視線を向けた。

 大天使長が施した不死の呪いはまだ働いている。このまま数千年ほど放っておけば、肉体の復元はされるだろう。だが…、悠長にそれを待つつもりはない。

「愚かな――…ふっ…、まぁ、貴様だ。予想の範囲内、ではあっただったがな」

 責める口調でも、貶す口調でもない。男は僅かに苦笑し、静かに目を伏せる。

 さて――…、強制的に死神から大天使長の魂をもぎ取った次に、今度はバラバラになった大天使の肉体の復元か。自分が属する世界ではない地で立て続けに大量の魔力を使えば、さすがの自分も多少骨が折れるのだが…、致し方あるまい。

「――…さぁ、起きよ。いつまでそうしておるつもりだ?」

 魔力を帯びた男の言葉は、強制的な命令となる。

 その声を受け――、肉塊は瞬時に元の形へと再生したのだ。


 ――…リオンはすぐ傍らに強烈なまでの強い気配を感じ、頑固な眠気と倦怠感を我慢して瞼をこじ開けた。

 横たわったまま、焦点が定まらない目でぼんやりと男を見上げ――…ゆっくり、二度、瞬く。

「……え…、タオ……?」

 信じられない心境で、つい間の抜けた声が漏れた。

 目の前にいるのは、確かにあの魔族だ。だが…、何かが違う。十年前の――否、それ以上の存在感と覇気と気高さ。その引き締まった気配からは、普段の彼ならば絶対に見せないはずの疲労も僅かに感じて…。呆然としたまま上体を起こし、しばしポカンとしてしまう。

 すると、男が表情を僅かに和らげた。リオンが見慣れている表情。

「――…瘴気に覆われているとはいえ、イシュヴァは魔族の俺には辛い世界だ。この状態でなければ、まともには動けんからな」

「タオ…」

 まったく…、と。タオが大きなため息をついた。

「さて大口を叩いた馬鹿天使はどうしやがったかな、と思って来てみれば、案の定だったな。呆れ果てて、何も言えねぇわ」

「悪い」

 心底呆れ顔の友に謝ると、タオは自分の外套を脱いでリオンに羽織らせた。裸の状態だったリオンは一瞬キョトンとしたが、素直に礼を述べる。

 そして周囲を見回し――…ぐったりと倒れている人影を見つけて、ハッとした。

「兄貴ッ」

 タオの目を気にせず、リオンは壇上から転げ落ちる勢いで駆け寄った。半端のない生気の希薄さに肝が冷えたが…、どうやら極度の疲弊から深い眠りについているだけらしい。安堵の深いため息をつく。

 ――同時に、強く胸が締め付けられるような思いを感じた。

「…」

「そいつに頼まれた。貴様の助けになれ、ってな」

 静かに歩み寄ってきたタオに、リオンはただ、そう…、とだけ呟く。

 慎重にシロンを横たえ、仰ぎ見た天。破壊された天井から覗く空…。穢れた大気は暗く、酷く空気が重い。

「………」

 タオに目を向ける事もなく、リオンは逃げるようにその場を飛び去った。



「…たくさん、死んだな…」

 荒廃した地。生命という生命がほぼ死に絶えた世界。

 大神殿の屋上で力なく膝を抱えて座り込んでいたリオンは、静かに背後に現れた友に呟く。

「あのイシュヴァが、こんな事になるなんて…。あの平和の陰で、あんな犠牲があったなんて…」

 リオンは薄茶色の前髪を、くしゃり、と掴むように乱す。

「――…なぁ…、この状態は俺が招いたんだよな…。こんなにたくさん死なせるなんてさ…、俺はまるで死神だな…」

「まっ、案外そうかもな。天使を髑髏姿で描く世界もあるらしいしな」

 想定外の言葉をあっさりと返され、リオンは隣に来た魔族を睨む。

「…ちょっとは慰めろよな、馬鹿」

「ああ? 頭でも撫でろ、ってか?」

 これまた想定外の反応を返され、リオンは何かを言い返してやろうと口を開き――…やめる。

 タオは今、この惨劇の元凶は自分だと落ち込む事を許さず、そして、慰めてくれ、と自分に言わせた。慰めてほしい、とは助けを求める言葉ではあるが、今の自分の場合では、ただ単に落ち込む事を助長させるだけ。それらを理解している彼は、彼らしい方法でそれらを許さなかった。ただそれだけだ。共にわかっているからこその、やりとりだったのだ。

 僅かに笑い――…しかし、次第に曇っていくリオンの笑顔。どうした、と訊かれて目を伏せる。

「…俺、嬉しいよ。タオが来てくれてさ…。俺だけだったら、落ち込むだけ落ち込んで、悲観に暮れるだけだった。今タオがいて、本当に嬉しい。

 ――…でも…」

 屋上からは生き物の気配を感じない世界が広がっている。

 …自分だけではない。生き延びた民も、こんな世界の、どこに、生きる希望を見出すというのだろう…。

「兄貴も俺も、どうにかして民を導かないといけないのに…。どうすればいいのか、全然わからねぇよ…」

 嗚咽を堪えた悲痛な呟き。

 だが、タオは呆れたようにため息をつく。

「まずは、その自惚れた考えを捨てやがれ。

 貴様らみてぇなガキが、民を導く、だ? 馬鹿馬鹿しい」

 静かではあるが――どこか怒りにも似た強い口調に驚き、リオンは弾かれるようにタオを見上げる。

 漆黒の二対の翼を持つ魔族は、複雑な面持ちで遠くを見つめていた。

「…だって…、俺も兄貴も大天使で…、大天使だから当然で…。

 それに…、俺のせいで皆を死なせたんだ。責任があるだろ?」

「ふん…。やっと言い終わったかと思えば、また、俺のせいで、が始まったな」

 鼻で笑われ、リオンはムッとして睨む。対するタオは、口元に不敵な笑みを湛え、尊大な態度でリオンを見下ろしている。

「この馬鹿天使が。あのような自己犠牲もどきの極みを見せておきながら、それでも未だ泣き言を並べるか」

「だって…、俺が……」

 自信なく呟き、膝の間に顔を埋めるリオン。そんな友の頭をよしよしと撫でつけてやり、タオは天を仰いだ。

 瘴気が満ちたままの大気は、魔族でも息苦しく落ち着かない。

「…ほれ、リオン。自己嫌悪に沈む以前に、まだ仕事が残っておるぞ。貴様は大天使であろうが。これ以上、民を死なせたくないのならば、この穢れの残滓をどうにかしてやれ。貴様の大事な天使共が窒息死するぞ」

「…でも、俺は」

「言い訳など聞かぬ。この間にも民は死に向かっておるのだ。今この瞬間に死者が出たと自己嫌悪に陥ったとしても、私は知らぬ」

「…。わかった…」



 ――…暗くたれこめた穢れの雲が次第に晴れ、久方振りの陽の光が、ゆったりと降り注ぎ始める。

 地中深くに潜る事でなんとか生き長らえていた天使達は、暖かな春の到来を想わせるその心地良い光につられ…、一人、また一人と、恐る恐ると地表へと出てくる。

 懐かしいものを見るかのように太陽を仰ぎ、肌を白く照らして心身を温める陽光を全身で浴び、目を細めて。

 停止していた風が天使達を優しく撫で、長い長い冬の終わりを祝福するかのように世界を駆ける。命の風は疾風の勢いで、荒野を緑に、枯れた川を清水の流れへと戻していく――。

 暖かな春の風につられ、小鳥が空を羽ばたいた。

 小鳥を追って空へと視線を移した天使達は――…白き雲の峰に、四の翼を広げて舞う若き大天使を見た気がした。


 彼は歌う。風の歌を。生命を潤す歓びの歌――。

 風は応え、共に歌う。全ての生命の福音を――。





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