(第12章 年齢が語る女の悲哀)
知恵との夜遊びは、楽しかった。さすが、医者の奥様。あんな贅沢が普段、当たり前なのだと思い知らされた。両親の元で贅沢三昧だった頃も、あれほどではなかった。自分の自由になるお金や時間があるというのは、羨ましい限りだ。2人の子供たちも、ベビーシッターに頼んでいるので安心して飲んでいられるのだと言っていた。自分で稼いでいると言っても、広い邸宅に住んで外車を乗り回すことができるのは、バックグラウンドが違うと思い知らされた。苦労しているのかもしれないけれど、愛人をしている由美だけには言いたくないのだろうと察知できた。だけど、胸がチクリと痛い。会話が今頃になって胸に刺さっているのに気づく。『どうして知恵を飲みに誘ったのだろう?』と。
こんな風に傷つくのは、わかっていたはずだ。旦那の浮気によって、生活費ももらっていないと先日聞いて、もっと悲惨な状態を期待していたのかもしれない。愛人生活が長い由美には、本妻の苦しみがあるなら知りたかった。もちろん、付き合っている彼の妻ではないが、浮気されている本妻の本音が知りたかった。自分の存在を知らないわけないのに、離婚もしない。別れて欲しいとも言って来ない。無視して、嘲笑っているのかとも思うと腹立たしくなる。家に乗り込んで行って、幸せな家庭をぐちゃぐちゃに破壊したくなる時もある。その衝動にかられて、夜遅く無言電話を何回もかけたこともある。おびえる妻の様子に納得して、やっとぐっすり眠ることができる。
まだ小さい子供がいるので、土日は会えない。一度、ショッピングセンターで家族サービスをしているところに鉢合わせしてしまったことがある。両親の手にぶら下がりながら、楽しそうに歩いていた。由美の視線に気づいて、決まり悪そうな顔をしたが、すぐに家族に気づかれないよう、逃げるように去って行った。その時、夫婦仲が悪いということも、離婚調停しているということも嘘だと気づいた。なので、次に会った時も、その話題には触れなかった。知らんフリをして、良い愛人を演じていた。見ないフリをして、居心地の良い場所を提供しようと努めていた。捨てられるのはわかっていた。でも、奥さんと何かあった時、逃げ込むところは自分のところだけだと、一部の希望を持っていたのだった。
しかし、愛し合って、仮眠する彼の首を、何度絞めようと思ったかわからない。自分が壊れて行く。彼の嘘が、世間を敵に回すのが怖くて秘密にしている由美の嘘が、闇をどんどん広げていく。自分は病んでいる。でも、彼に問いただされても、明るくシラを切ることもできる。それ以上、彼は尋問できない。こちらのボタンを外す手に、むしゃぶりついてくる。悪徳の喜び。「今日だけで、もう会わないようにしよう」との思いが2人を野獣にする。「ダメだ。別れなければ破滅する」との思いが、逆に2人を燃え上がらせる。そこには、本妻への嫉妬がある。彼と身体を重ねていても、目を閉じれば美しい妻の悲しげな顔が浮かんでくるのだ。最近は、その顔が知恵の顔と重なっている。友達という仮面を被って、親切を装いながら、その心を引き裂く時をうかがっている。いつか、知恵とも、対峙しなければならない時が来るかもしれない。愛人の代表として。そこまで考えると、おかしくなって首を振った。タクシーを降りてお金を払ったら、7千円以上手元に残った。『これで、知恵に奢った分もタダになって、明日の食事代にもなりそうだ』と、つい思ってしまう所帯染みて貧乏性の自分が情けない。
マンションのロビーには川島努が、寂しげに立っていた。いつものTシャツにジーンズ姿で。「いつから待っていたの?」と聞くと、捨て犬のように嬉しそうに近づいて来る。「どうしても会いたくなっちゃって」と、申し訳なさそうに言う。
内心『せっかく気持ちよく酔って帰って来たのに。どうせ、お腹を空かして、アルバイトで嫌なことでもあって来たんでしょう。面倒くさいなぁ。今日くらい、このままベッドに倒れて、眠りたいのに』と思うのだが、顔には微笑を湛え、優しい女性を気取ってしまう。
年下の男には甘えて、「今日は疲れているから、帰って」などとは言えない。
15歳も下のフリーターのイケメンの努が、自分に恋してくれていることだけが、今の自分のプライドなのだから。邪険にはできない。美味しい料理でもてなし、覚えたての女性との情事に付き合ってあげなければならない。あと数年したら、もっと若い女に愛情は移ったとしても。
35歳。あと5年経てば、子供も男も諦めなければならない40歳になる。『この若い男を騙して結婚しようか?』と、たまに思うことがある。友達たちは、彼との結婚を、どう思うだろう?若くてハンサムな容貌に嫉妬するだろうか?それとも、学歴もない、家柄も悪い彼としか結婚できなかった自分を哀れに思うだろうか?ブルジョワであることを自慢に思っている知恵は、『ほら見たことか』と喜ぶに違いない。さっき飲んでいた時に、「愛人なんてしたら、女もおしまい。他人の男を横取りした女で幸せになった人は見たことがない。他人の幸せを奪っておいて、幸せになれるなんて妄想はやめた方がいいわよ。他人を呪わば穴二つ。いくら我慢したって、愛憎の波に飲み込まれた者は、生霊によって修羅の道を進まされるのよ」と言われた。その言葉が、呪文のようにまとわりつく。そんなことは、今さら言われなくても重々わかっている。愛人になって、彼を好きになればなるほど、自分が愛に飢えてのたうち回る餓鬼になっているのがわかる。ほんの少し、寂しかった時に彼の優しさに、つい身を任せたのが地獄への入口だったのだ。本当は苦しくて仕方ない。すぐに別れるのが賢い選択なのだと頭ではわかっている。本当に彼のことを愛しているのだろうか?あの美しい奥さんに負けたくないだけではないのか?奪い取って、結婚したいとは思ったことはない。父も亡くなって、ただ誰かの庇護のもとで安心したかっただけかもしれない。
マンションは、2年前、突然亡くなった父の遺産で買った。住むところだけあれば、少ない給料でも、どうにか生活できるだろうと思ったからだ。独身女性が自分でマンションを買ったら、結婚は遠のくと、よく言われた。この年になれば、生活のために結婚を求めれば、再婚も考慮に入れなければならない。この年齢なら子供ができないことも考えられるし、相手に連れ子もいるだろう。最悪、義父母と旦那の介護で人生は終わるかもしれない。それなら、気ままに独身の方がマシだ。収入が少ない年下の恋人と、同棲していたって何が悪い?この年になったら、誰と暮らしていても迷惑にもならないだろう。実家の母も、「独り者の小姑なんて、みっともないので帰って来るな」と言っている。母とは、相性が悪いのか?それとも弟ばかりに愛情を注ぎ、ほとんど手をかけてもらえなかったトラウマが、今も母を遠ざけているだけなのか?




