本屋デートがしたい
フィリプが作り出した造花は、昼食を食べる前に、彼自身の手でディアナから外されて、魔法の炎で燃やされた。
曰く、《やっぱりディアナには生花のほうが似合うから、造花で妥協したのは無し。忘れて》ということらしい。
自分に似合うかどうかはともかくとして、造花は造花でかわいかったのに、と、ディアナはちょっと唇を尖らせた。
昼食後、フィリプは《ディアナに辞書をプレゼントしたいな》と言って、ディアナを伴って自動車で家を出た。
2人の家から30分以上自動車で走ると、王都のはずれにある学園通りにたどり着く。
フィリプの出身大学やその付属機関、書店や文具店、学生向けのボーディング・ハウスが立ち並ぶ学園通りは、行き交う人々の眼鏡をかけている割合が高く、ディアナはちょっと笑った。
「辞書くらい近所の書店でも買えるし、なんなら僕のものを使ってもいいんだけど、せっかくの土曜日だしデートがしたくて」
とフィリプは運転しながら言い訳のように言った。
ディアナは、お忙しいでしょうに妻への心配りを忘れない素晴らしい方なのね、と感心しながら、車窓から景色を眺める。
ディアナは、《ディアナを好きだ》というフィリプの冗談を受け流すことに慣れてきていた。
あまりにも頻繁に言うので、いちいち照れていたり謙遜したりしているとキリがないことに、ディアナは気づいてしまった。
言われると、少し胸が高鳴るのは気のせいであることにして、ディアナは冗談を言うフィリプに、流れ作業のように微笑みを向けるのだ。
学園通りのはずれに自動車を停めると、フィリプは、少し散歩しよう、とディアナを誘う。
ぜひ、と頷いて、ディアナはフィリプの差し出す腕におずおずと手を添えた。
あれが法学部の建物、とか、あっちは学生御用達の定食屋、とか、あのカフェの2階はろくでなし学生のたまり場なんだ、とか、歩きながらフィリプは楽しそうに解説をしてくれる。
デイドレスでのお出かけにまだ慣れないディアナは、歩くことに必死であんまりフィリプの話を聞けなかった。
それでもフィリプが楽しそうだとちょっと嬉しい。
「旦那様は、大学生活、楽しかったんですね」
ディアナが、フィリプに微笑みかけると、彼は、瞬きを数度してから、ゆっくり頷いた。
「うん、まあ、そうだね。やっぱり勉強は楽しかったな」
郷愁に浸るような、吐息の多い呟き。
ディアナは、フィリプが年上だと思い込んでいたその原因の一端に、再び触れたと感じた。
これほど落ち着きのある色っぽいまなざし、どうしてそんな年でできるの?
ディアナは、エスコートされるために組んだ腕にどうも居心地の悪さを感じて仕方なくなった。
それに、もう秋なのに、熱くて仕方ない。
土曜日なので学生も少ない通りを二人は歩いた。
紙とインクの香りが漂ってきそうな気すらする、気品と歴史のある街並みにディアナはどきどきする。
表音文字がやっと読めるようになっただけの女が、こんなところを歩いている場違いさ。
それでもフィリプの隣を歩いているのだからと、毅然と顔を上げて歩いた。
「さあ、着いた」
フィリプは、庇と窓枠が濃いグリーンに塗られた店の前で足を止める。
金色の文字で、店名が書かれているけれど、ディアナにはまだ読めない。
けれども、ショーウィンドウを覗くと、背の高い本棚に無数の本がディスプレイされているのが見える。明らかに書店だ。
大学に近いのではディアナにはまだ難しいような専門書ばかりだろうと思っていたけれど、その予想に反して子ども向けの絵本や流行のロマンス小説もディスプレイされているのが見受けられた。
意外だわ、とディアナが思っているのを見透かしたように、フィリプは言った。
「ここは、王都で一番大きな書店なんだ。ああいう絵本を子どもの教育にどう役立てようか考える先生も大学にはいるし、ああいうロマンス小説から僕たちの話す言葉の変遷について考える先生もいる。ここの書店は、今王都で流通している本ならたいてい置いていると思うよ」
へえ!と感心してディアナは目を丸くする。
ヘレナにしろフィリプにしろ、ディアナの想像の埒外のことを学んできた人たちだと思っていたが、また想像の埒外の分野を知ってディアナはただただ驚いた。
「入ろうか」
ディアナよりも、フィリプのほうが、待ちきれないようで、ディアナの返事を待たずに、彼は既に扉を押し開けている。
ディアナは、はい、と頷きながら書店に足を踏み入れた。
混んでいる、ということもないけれど、店員のほかにもちらほらと人がいる。
静かな店内にふさわしいよう、ディアナはヒールの靴音を立てないように慎重に歩いて、フィリプのエスコートに従った。
こっちだよ、と声をひそめるフィリプ。
小声だからという配慮なのか、耳の近くに口を寄せられて、ディアナはちょっとどきどきする。
入り口から入って右手に進むと、開放的な大きな窓のある明るい小部屋になっていた。
その小部屋の中央には、ディアナの腰ほどの高さの台に厚みのある本が何種類も大量に積まれている。
「ああ、あった。これ」
フィリプは、その何種類もある本の中からほとんど迷うことなく一冊を手に取った。
ディアナはフィリプが笑顔で差し出してくるその本の表紙のタイトルを見て、頭の中の文字表と必死に対比させる。
「…じしょ。旦那様、これ《じしょ》って書いてあります?」
ディアナは自信があった。
なぜならそもそもフィリプはディアナに辞書をプレゼントするといって書店に来たからである。
そんな状況で、これこれ、と差し出してくる本は辞書だろう。
それに、きちんと読めた。すぐには読めなかったけれど、《じしょ》と書いてある、と分かった。
ディアナの知識を状況が補完したのだ。
彼女は自信をもってフィリプに微笑みを向ける。
「そう、そうだよ。《じしょ》って書いてある。こっちは表意文字で《辞書》って書いてあるんだ」
フィリプは、大きく何度も頷いて、ディアナよりも嬉しそうに笑った。
秋の午後。
日光が差し込む書店の小部屋で、二人して子どものように笑いあう。
「これで分からない言葉の意味は調べられるはず。調べ方はまた帰ってから教えるね」
そう言いながらフィリプはディアナから辞書を引き取った。
「せっかくだし、ほかの本も見ていこう?」
見ていかない、と答えたらちょっと落ち込んでしまうんじゃないかと思えるほど、フィリプはきらきらした笑顔でディアナを誘った。
可愛い。
ディアナは、はい、と答えながら、ちょっとだけフィリプの顔から目をそらした。
次の更新から「夢見がち未亡人と溺愛しがちな旦那様
-新婚生活を送っていたら旦那様に殺人鬼疑惑が浮上しました-」にタイトルを変えてみようと思っています。




