合宿と適性 ③
那珂川の支流にあたる木ノ俣川でキャニオニングを楽しみ、民宿に戻ってきたのは午後四時過ぎだった。
陽がいくらか傾いている。明るいうちに、あいを連れて隣の牧場へ行った。
牧場の主人とは叔父を介して顔馴染みになっており、従業員も加奈恵を覚えていてすんなり中へ通してくれた。
他に客はおらず、売店や食事処はすでに営業を終えている。
山羊を飼っている囲いの前を通り、奥の放牧場へ向かった。
放牧場の手前で道を右に曲がると、牛舎と並んで建てられた厩舎の前に出た。
厩舎は、牛舎の五分の一ほどの大きさだが、手入れは行き届いていてみすぼらしい感じはまったくない。
厩舎と牛舎の並びには、搾乳した生乳を冷やし、一時的に置いておく貯蔵庫がある。
「あの車、なにやってるの?」
あいが、貯蔵庫の隣に横付けして停まっているタンクローリーに、物珍しそうな目を向けて訊いてきた。
「集乳やな。あのタンクローリーが、この辺にある中小規模の酪農家を回って、搾乳された生乳を回収するんや」
北海道など、大規模な農地を持ち、生産量の多い牧場はどうか知らないが、加奈恵の実家が酪農を営んでいた頃も、この形式で生乳を集荷してもらっていた。
集められた生乳は、加工工場へ運ばれ、検査、殺菌などの工程を経て、牛乳として市場の卸されるのだ。
むろん、バターやチーズ、ヨーグルトなどの製品に加工される場合もある。
厩舎の中に入ると、八つの馬房があり、加奈恵の家から引き取ってもらった二頭の馬は、右端から二つの馬房にいた。
二頭とも加奈恵の気配を察知し、覗き穴から首を出している。
「半年ぶりぐらいか。元気にしとったか」
近づくと、湿った鼻先を擦り寄せてくる。
ひとしきり撫でてやってから、厩舎の外へ出し、鞍と頭絡をつけて乗馬場へ曳いていった。許可はあらかじめ取ってある。
片方の馬は、あいが曳いた。
ちょっと接しただけのあいを、馬はすんなり受け入れた。もともと人見知りする馬ではないが、それにしても落ち着いている。
「馬の扱いはさすがやな。当然か。小さい頃から綾とずっと一緒におって、競馬学校でも毎日馬の世話しとるんやもんな」
あいと、特別な絆で結ばれた馬。綾。
中学時代にあいが描いたという綾の絵を、スケッチブックで見せてもらったが、実によく描けていた。他の絵は、からっきしらしかった。
綾だけは、見なくても描ける。
つまり、競馬学校に入学するまで、あいの世界には綾しかいなかった、ということだろう。
加奈恵も、馬には愛情を注ぎ、高校では馬術部にも入部したが、家には親に代わって面倒を見なければならない小さい弟、妹たちがいた。
雇っていた従業員はほとんどが高齢で、誰かが体調を崩すと、加奈恵が手伝いをしてその穴埋めをした。
とても馬だけに心を向けていられる環境ではなかったのだ。
そういう意味では、あいは恵まれていた。
騎手課程生の保護者参観があった時、あいが母親と話しているのを遠目に見かけた。
仕立てのいい服を着た、土いじりなどしたこともなさそうな、品のある母親だった。
父親は海上自衛隊の幹部なのだと、噂で聞いたこともある。
裕福な家で育ったのだとは、容易に想像できた。
「ほな、軽く駈けようか」
「うん」
普段は客を相手に乗馬体験をさせている砂地の馬場に入り、加奈恵は馬の背に跨った。小柄なあいは、よじ登るようにして馬に乗った。
並んで、速歩で駈ける。あいはほぼ手綱を使わず、脚で意思を伝えている。馬上での身のこなしもさりげない。
「馬術競技なら、」
加奈恵は、言いかけてやめた。
馬術競技ならいい選手になる。
あいを身近で見ていて、ひしひしと感じていることだった。
競馬騎手だと、わからない。
馬術と違い経験がないのもあるが、馬術と競馬では、ともに馬を操る競技でも、競技としての性格が大きく異なる。
正直に言えば、あいが騎手に向いているとは思えなかった。
どれだけ巧みに馬に乗ろうと、レースの勝敗が分かれる場所で、馬を過酷に追い込んでいるあいの姿が、どうしても想像できないのだ。
一方で、あいが騎手に懸ける想いも知っていた。
強い自分になる。
それがすべてなのだ。
おそらく、自分の生まれを恵まれていると考えたこともないだろう。
「加奈恵、もう少し早くても大丈夫?」
「さっきキャニオニングにビビりまくってたんとは別人やな。上等や、ついてったる」
それほど広い馬場ではない。弧を描くような進路でしか駈けられない。
あいが前に出た。馬の後ろ脚で蹴り上げられる砂を被らない位置につけ、追走した。
「気持ちいいね、加奈恵」
あいは手綱から手を離し、上体を大きく反らして振り向いた。
一瞬肝が冷えたが、落馬しそうな気配はない。駈けている馬の背で、手放しで振り返るなど、加奈恵には真似できない。
騎手課程の訓練には、馬上で上半身を使った体操をするものがあるとは聞くが、せいぜい速歩でやるものだろう。いまは軽い駈歩で、スピードも出ている。
無邪気に楽しむあいにつられ、加奈恵も笑い声をあげた。
鬣が風に靡いている。
陽が、西の空に沈もうとしていた。




