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ミスジョッキー   作者: 井ノ上
第三話

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19/97

綾 ⑥

 中山競馬場で零と交わした約束の話を、綾は楽しそうに聞いていた。


 綾と、年を越した。


 年明け早々に雪が降り積もったが、交通が遮断されるほどではなかった。

 ここより少し北の、標高が高い地域では、区間通行止めになる場所もあったようだ。


 馬郷の事務所の柱にある、日めくりカレンダーを、一枚、一枚、剥がしていった。


 雪解けの水が、ちろちろと麓へ流れ、小川をつくった。


 学校の卒業式が済んでからは、家と馬郷を行き来する日々だった。


 天道とは以前ほどの頻度ではないものの連絡は取っていて、トレーニングメニューは試験以降もこなし続けている。


 バス停から馬郷へ向かう道端に、ふきのとうがっているのを見かけた。

 あいは、さっと視線を反らし、足早に馬郷へ向かった。


 月が満ち、欠けた。


「月齢二十四、一」

 事務仕事を終えて出てきた山南が、夜空を見上げ、言った。


 帰宅する山南を見送ってから、馬郷の厩舎で、綾と最後の夜を過ごした。


 夜は、まだ冷える。

 綿入れを着込み、湯たんぽと寝袋にくるまれば、なんとか寒さは凌げた。


 綾と語り合ううちに、いつの間にか眠ってしまっていた。眠りながらも、綾の心臓の鼓動を、馬房越しに聞いていた気がする。


 夜明け前に、綾に鼻で起こされた。


 他の馬を起こさないよう、静かに馬房の柵を開け、厩舎を出た。


 なだらかな丘になっている、牧草地の頂に、綾と立った。


 南アルプスの陰から、陽の輪郭が出てくる。


 綾が顔を寄せてきた。顎の下を撫でながら、陽が昇っていくのを見つめた。


 やがて、馬郷がある山間の集落にも、陽の光が射してきた。すでに陽に輪郭はなく、直視していられいほどの眩さになっている。


「あいさん」

 山南が、丘の下の方に立っていた。いま行きます、と返事をしてから、綾と向き合った。


「お母さんが、迎えに来たみたい」


 別れの時が来た。綾もそれを理解していた。


「今まで、たくさん、ありがとう。いってきます」

 あいは綾の鼻に触れてから、背を向け、歩き出した。


 丘を半分ほど下った。


 足が、石になったように、動かなくなった。心が、ふるえている。どうしようもなくなり、振り返った。


 綾。一歩も動かずに、居た。


 駆け戻り、その首を抱きしめていた。


 綾は、首を下げたまま、小さく、低く嘶いた。


 涙が、とめどなく溢れてきた。


 互いに、言葉はなかった。


 嗚咽するあいを、綾は叱りも励ましもしない。ただじっと、あいの涙がむのを待ってくれている。


「いってきます」


 綾から身を離した。洟水混じりに言って、再び背を向けた。


 あい。私の、大切な姉妹。


 綾の声がした。


 あいは自分の弱さを振り切るように駆け出し、丘を走り降りた。


 山南と、馬郷の駐車場へ行くと、母が車で待っていた。


「もういいの?」

 泣き腫らした跡があるあいを案じて、母が言った。

 頷き、車の後部座席に乗った。


 窓を降ろし、山南にこれまでの礼を伝えた。

「僕はなにも。綾が、望んだことさ」

 少し寂しげな山南に見送られ、馬郷を出た。


 馬郷を、家だと思ったことはない。


 心の故郷。


 それだろう。


 入寮するのに必要な荷物は、昨日の朝、家を出る前にトランクに積んである。

 あいを乗せた車は、一路、CRA競馬学校へ向かった。


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