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ミスジョッキー   作者: 井ノ上
プロローグ
1/21

夢の舞台

 中山競馬場のターフに立った。

 

 レースコースに敷き詰められた芝は、芝というより、精緻に編まれた緑の絨毯のようである。

 快晴続きで週末を迎え、馬場ばばは良好だった。

 

 あいは、馬上で空を仰いだ。抜けるような青に、思わず息が漏れた。

 

 自衛隊音楽隊によるファンファーレが、高らかに響き渡る。不思議と、観客の歓声は気にならなかった。

 出走馬が列を組み、ターフを小走りで進んでいく。ゲートが近くなると、先頭が緩く弧を描いて折り返した。

 

 ジリッ、と肌が灼けるような視線を感じた。

 

 列の先頭にいた、黒鹿毛くろかげのサラブレッドに跨ったれいと、目が合った。

 

 零は、黒地に黄のラインが袈裟懸けに入った勝負服を着ている。

 

 馬の列がばらけ、それぞれが割り当てられた枠番へと導かれていく中、零の目が、ゴーグル越しにあいに語りかけてきた。


『やっと、この日が来たね、あい』

『うん。あの模擬レースから、三年。まだ三年、なのかな。でも、長かった気がする』


 あいも、目で、零に応じた。


『わかるよ。あたしも、あいとまたこの場所で駈けるのを、待ちわびてたから』

『またあの日みたいな勝負をしよう』

『ええ。そして、あたしとこの子は、有馬記念を獲る』

『私たちだって、負けない。今日、勝つために、できることは全部やってきたんだ』


 ここにいる十六組の騎手と競走馬は、例外なく全員が最大限の準備をしてきたはずだ。それは当然、あいもわかっている。


 わかったうえで、ターフに立ったら自分が積み重ねてきたものと、騎乗する馬の力を信じるしかない。勝って、力を示すことでしか、この世界では生きていけない。


 そういう場所で生きていくことを、一人一人が選んで、騎手となっていまここにいる。


 あいは手綱を握る手が強張っていることに気づいた。指を開いたり閉じたりしても、血の気の引いた指先の感覚がなかなか戻ってこない。


 内枠の零はすでにゲートに進んでいる。外枠偶数であるあいのゲート入りの順番はまだ来ない。


 零はあいより三年早く実戦に出ていて、新人最多勝利記録を更新していた。斤量のハンデが解けた後の重賞でも結果を出していた。零の騎乗は、すでに堂にった感がある。


 零の若くも揺るぎのない風格に気圧されかかっていると、あいの乗る栗毛のサラブレッドが、焦れるように前足で地面を搔いた。馬首を大きく揺らし、手綱を取っている厩務員が左右に振られる。


「ごめん、私のせいで落ち着かないよね。大丈夫、零を意識しないことは、難しいけど、いまは忘れる。レースに集中するから」


 鼻梁に白い墨を垂らしたような模様のあるサラブレッドが、唇をべろりとひと舐めした。ちゃんとせぇよ、と言われたのが、あいにはわかった。


 ゲートの先に伸びる、二千四百のコースに目を向けた。

 次に瞼を閉じ、予想される展開を一度だけ反芻してから、それも忘れた。


 レースが予想通りに運ばないことはざらだった。立てた作戦に頼りすぎると、予想外のことが起きた時に判断が遅れるのだ。


 ゲートインの順番が回って来た。


 栗毛のサラブレッドは暴れることなく、すんなりと入った。レース開始に備え、力を蓄えているのは、馬体から立ち昇る熱気で感じられる。レース前の馬は、出走前から燃えているように熱いのだ。


 早く駈け出したい、という気持ちがありありと伝わってくる。ただ、はやってはいない。意識はしっかりと騎手であるあいに向けられている。


 競走馬としては、理想的な状態だった。


「天道さんに調教を受けたんだもんね。当然か」

 栗毛のサラブレッドは、頷く代わりに片耳を小さく振った。

 あいも高揚しているが、心は落ち着きを取り戻し、精神は研ぎ澄まされていた。


「行くよ、スターハンドレット」

 栗毛のサラブレッドの名を呼んだ。

 馬をゲートに導く整馬員が離れた。


 息を呑む。


 張り詰めた糸がぷつりと切れるように、ゲートが開いた。


 瞬間、人馬一体となり、あいは前へと躍り出た。


 中団前列に位置取った零の後方に、ぴたりとつけた。



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