夢の舞台
中山競馬場のターフに立った。
レースコースに敷き詰められた芝は、芝というより、精緻に編まれた緑の絨毯のようである。
快晴続きで週末を迎え、馬場は良好だった。
あいは、馬上で空を仰いだ。抜けるような青に、思わず息が漏れた。
自衛隊音楽隊によるファンファーレが、高らかに響き渡る。不思議と、観客の歓声は気にならなかった。
出走馬が列を組み、ターフを小走りで進んでいく。ゲートが近くなると、先頭が緩く弧を描いて折り返した。
ジリッ、と肌が灼けるような視線を感じた。
列の先頭にいた、黒鹿毛のサラブレッドに跨った零と、目が合った。
零は、黒地に黄のラインが袈裟懸けに入った勝負服を着ている。
馬の列がばらけ、それぞれが割り当てられた枠番へと導かれていく中、零の目が、ゴーグル越しにあいに語りかけてきた。
『やっと、この日が来たね、あい』
『うん。あの模擬レースから、三年。まだ三年、なのかな。でも、長かった気がする』
あいも、目で、零に応じた。
『わかるよ。あたしも、あいとまたこの場所で駈けるのを、待ちわびてたから』
『またあの日みたいな勝負をしよう』
『ええ。そして、あたしとこの子は、有馬記念を獲る』
『私たちだって、負けない。今日、勝つために、できることは全部やってきたんだ』
ここにいる十六組の騎手と競走馬は、例外なく全員が最大限の準備をしてきたはずだ。それは当然、あいもわかっている。
わかったうえで、ターフに立ったら自分が積み重ねてきたものと、騎乗する馬の力を信じるしかない。勝って、力を示すことでしか、この世界では生きていけない。
そういう場所で生きていくことを、一人一人が選んで、騎手となっていまここにいる。
あいは手綱を握る手が強張っていることに気づいた。指を開いたり閉じたりしても、血の気の引いた指先の感覚がなかなか戻ってこない。
内枠の零はすでにゲートに進んでいる。外枠偶数であるあいのゲート入りの順番はまだ来ない。
零はあいより三年早く実戦に出ていて、新人最多勝利記録を更新していた。斤量のハンデが解けた後の重賞でも結果を出していた。零の騎乗は、すでに堂に入った感がある。
零の若くも揺るぎのない風格に気圧されかかっていると、あいの乗る栗毛のサラブレッドが、焦れるように前足で地面を搔いた。馬首を大きく揺らし、手綱を取っている厩務員が左右に振られる。
「ごめん、私のせいで落ち着かないよね。大丈夫、零を意識しないことは、難しいけど、いまは忘れる。レースに集中するから」
鼻梁に白い墨を垂らしたような模様のあるサラブレッドが、唇をべろりとひと舐めした。ちゃんとせぇよ、と言われたのが、あいにはわかった。
ゲートの先に伸びる、二千四百のコースに目を向けた。
次に瞼を閉じ、予想される展開を一度だけ反芻してから、それも忘れた。
レースが予想通りに運ばないことはざらだった。立てた作戦に頼りすぎると、予想外のことが起きた時に判断が遅れるのだ。
ゲートインの順番が回って来た。
栗毛のサラブレッドは暴れることなく、すんなりと入った。レース開始に備え、力を蓄えているのは、馬体から立ち昇る熱気で感じられる。レース前の馬は、出走前から燃えているように熱いのだ。
早く駈け出したい、という気持ちがありありと伝わってくる。ただ、逸ってはいない。意識はしっかりと騎手であるあいに向けられている。
競走馬としては、理想的な状態だった。
「天道さんに調教を受けたんだもんね。当然か」
栗毛のサラブレッドは、頷く代わりに片耳を小さく振った。
あいも高揚しているが、心は落ち着きを取り戻し、精神は研ぎ澄まされていた。
「行くよ、スターハンドレット」
栗毛のサラブレッドの名を呼んだ。
馬をゲートに導く整馬員が離れた。
息を呑む。
張り詰めた糸がぷつりと切れるように、ゲートが開いた。
瞬間、人馬一体となり、あいは前へと躍り出た。
中団前列に位置取った零の後方に、ぴたりとつけた。




