予兆 ZERO
ep.5-4 予兆 ZERO
––––さて、これよりの一幕はある少女の夢の中ゆえ、実際の凌辱とは一切の関わり無き事を心に留め置いて頂きたい。
言うなれば、ここで辱めを受ける彼女達は実体を持たぬ影像である。
諸兄に於いては、その点をしかと心して––––ああ、何かを期待しておられる紳士諸君、あまり妄想を暴走させぬよう––––読み進めていただけたならば幸いである。
以上の点に留意していただいた上で、続きをお楽しみあれ。…………ぶひひん♪
……
…………
………………
––––どことも知れない、薄闇の中で。
私は、悍ましくも恐ろしい、信じられない光景を見て……いえ、見せつけられていた。
怖くて、怖くて、怖くて。
いっそ、喉が破れるほどに叫び出してしまいたいのに。
すぐにでも駆け寄って、救い出したい。それが叶わないのなら、代わりにこの身を差し出しても構わないとさえ思うのに。
……私の喉からは、ため息ほどの声も出てはくれなかった。
私の身体は、指先一つも動いてはくれなかった。
それは、あまりにも残酷で。
あまりにも冒涜的な悪意に塗れた、最悪の結末。
目を逸らすことも許されず。
きつく瞼を閉じようにも、まるで瞼が剝ぎ取られてしまったかのように、まざまざと見せつけられる淫獄の狂宴。
雄々しき勇は欺かれ。
気高き誇りの剣は無残に融け崩れ。
……優しい翼は、暴風のような悪意の前に引き千切られてしまった。
『––––嫌だ!や、ら!……止まって!止まっれアタシのゆびぃぃぃひぃぃぃぃぃぃぃっ!んくうぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!イッた!もうっイッ、た、からぁ!ダメェ!ダメらめらめっ!ま、た!イッ、イッ……イキゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥッッ!』
……触手に脳を弄られたお姉さまは、終わることなく自らの手で自身を辱め続け。
『––––くっ!この程度で私が屈するとでも……な、なんですの?一体何が……ひっ!わ、私の、からだ、が、くずれ––––!そんな!ありえませんわ!融かされて気持ちいいだなん、てえぇぇぇぇぇぇぇぇ!ひっ、ひっ…………ほ、ほほほ、ほほ、とけ、融ける……わたくし、が、融け、て……おひゅぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ‼』
……巨大な人型の粘体に取り込まれ、四肢を融かされながらも狂ったような嬌声を上げ続けるお姉さまが。
『––––ちょ、ウソでしょ?そんなの、入るわけ……お願い!ムリだからぁ!やめ––––んぎっ!ぎっひっ!い、たい、痛い!痛い!いだい!いだい!いだい!ムリムリム––––っ!がっ!はっ!––––こひゅっ!……ご、ごわれ、りゅうぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……』
……恐ろしく歪で巨大なソレに引き裂かれ、刺し貫かれたお姉さまが。
…………………………………………壊されてゆく。
私の大切なお姉さま達が。
私の、大好きなお姉さま達が。
私の目の前で、壊されてゆく。
無残に。
容赦なく。
徹底的に。
尊厳の一欠けらすら残さずに。
その一切を、ただ見続けることしかできなかった私は……
動かない拳を握りしめ。
声を為すこともない喉を震わせて。
声なき声で、ただただ獣のように叫び続けていた。
お姉さま!お姉さま!お姉さま!……と。
––––––––––––
––––––––
––––
「––––っ!お姉さまっ!」
「……ん……うっさい、エリュシア……」
跳ね起きた私の頭に、ぼふっと音を立てて枕がぶつけられる。
慌てて辺りを見渡すと、そこはいつもの宿の部屋の中。
私は、いつも通り床に敷かれた毛布の上にいて、ルビィお姉さまは、寝台の上ですやすやと寝息を立てている。
……夢、だったのだろうか?私は、未だに早鐘を打つような動悸を抑えようと胸に手を添えた。
たった今見た悪夢を振り払おうと、二度三度と頭を振ってみる。
けれど、あの恐ろしい光景は頭から離れてはくれなくて。不安は増してゆくばかりで。
胸の奥にわだかまり続けるどす黒い何かが、そこだけぽっかりと抉り取られたように冷たく、寒々しく私を蝕んでゆくような気がした。でも––––
「……絶対に……護って、みせます。……もう、あんな思いをしないように……」
私は、お姉さまが教えてくださった言葉を思い返し、短杖をそっと手に取る。
明日をチャンスに。お姉さま達と笑いあえる明日を手に入れるために。
私も、もっともっと頑張らないと……
うっすらと差し込む月明かりの下、私は胸の内に誓いの言葉を刻み込んだ。
––––––––––––
「……そいつぁまた、エグい夢を見たもんだな。で?俺はいなかったのか?いたら絶対に護ってやったのに」
夜が明けて、私はテッドさんに夢の内容を(詳細は伏せて)相談していました。
詳しくなんて言えるはずもないですし、内容が内容なのでお姉さまに言うわけにもいかず。かと言って自分の胸の中だけにしまっておくのも怖かったからです。
「……えっと。テッドさんは、すでにドロドロのぐちゃぐちゃになって、動かなく、なっていた、と言いますか……」
「Holy shit!マジかよ……じゃあ、そんなことにならねぇように気を付けないとな」
「はい。ですから私も、この後クレアさんのところへ行って、もっと色々教わってこようかと」
正直、この人のことを信用しているとか、そういう気持ちはこれっぽっちもありませんけど(ルビィお姉さまを見る目がイヤらしいですし!)、ただなんとなく、この人ならこんな夢のお話でもバカにしたりしないで聞いてくれるんじゃないか、と。
……そう思っただけですからっ!
「ふわぁ……おはよー、二人とも。なに?朝っぱらからなんの話してんの?」
お目覚めになったルビィお姉さまが、食堂に降りて来られるなりそう尋ねられて、私は「え?あ、あの、その、これは、ですね……」と、とっさには言葉が出てくれなくて、しどろもどろになってしまいます。
「おう、おはようルビィ。いやなに、こいつが怖い夢見た~って泣きついてきただけだよ」
そんな私を見かねたのでしょう。テッドさんが軽い口調でフォローをしてくれます。けど……
「違いますぅー!泣きついたりなんてしてませんー!あと、私のことを『こいつ』だなんて呼ばないでください!馴れ馴れしすぎます!」
気を遣ってくれたのであろうことは分かりますけど、そこだけは断固として訂正させていただきます!
「……ふぅ~ん。いつの間にかずいぶんと仲がいいのね?」
「い、いや違うって!マジそういうんじゃねぇから!」
口元はにっこりと笑いながら、ジトーっとした冷ややかな視線を向けるお姉さまに、テッドさんは慌てた様子で否定を––––
「やっぱりあの胸?大っきいのがいいんだ?……ホンットにもぎ取ってやろうかしら!」
「ひぅっ!––––強烈な既視感っ!」
テッドさんに向けられていた剣吞な空気が急転直下で私にまで向けられ、思わず涙目で自分の胸を抱いてうずくまってしまいます。
「……まぁいいわ。二人とも、朝ごはんまだでしょ?一緒に––––っ!」
その時、お姉さまの言葉を遮るように、カンカンカン!と、急を告げる教会の警鐘が鳴り響いたのです。
「二人とも、ギルドに行きましょう!何があったのか確認しないと!」
「はいっ!」
「おう!なんにせよ、朝めし食いっぱぐれたまんまじゃ、お前の胸も大きくならねえしな!」
「––––なんですってぇ!」
ギャーギャーと騒ぎながら、私達は急いで宿を出てギルドに向かいました。
………………………………けれど。
––––今にして思えばこの時、悪夢は始まっていたのかもしれません––––
……ルビィ達が緊急の鐘の音に駆けだしたころ。
パドキの街の南方、マ二ブ砂漠の中央を、砂煙を上げて疾走する一つの影がございました。
向日葵のような色のローブを頭から被り、砂を蹴立てて驀進を続けるサソリ人間の背に揺られ、ひたすら北へ。パドキの街へ。
時おり現れる砂蟲や砂甲虫を蹴散らしながら、緊張の面持ちを浮かべたフェルネットは先を急ぎます。
「十一号さん!あとどれぐらいで着きそう?」
「はいーーーっ!このままの速度でしたら、昼前には到着できそうですよぉ!」
「なんかごめんね!夜通し走らせちゃって!」
「なんの!フェルネット様のお役に立てるのならこのわたくし、例え火の中水の中……スカートの中!」
「––––あんたなにマスター目指してんのっ⁉」
「それよりもお急ぎでしょう!ラストスパートに是非!もうひと踏み!」
「もうっ!背中、穴だらけになっても知らないからね!」
果してふざけているのか真剣なのか、サソリ十一号の請願にツッコミとともに応え、フェルネットは履いていたピンヒールで彼の背を踏みつけます。
「Oh!Yes!未知とのSo!Gooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooood!んんんおっほぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ‼」
「もうヤダぁ!このパターン!––––っきゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ‼‼‼」
フェルネットの悲鳴を共連れに、猛り声(?)を上げたサソリ十一号は更に速度を上げてゆきます。
彼女たちが先を急ぐ理由。それは三日ほど前のこと––––
「––––というわけで、我が子にした仕打ちを恥じたわらわは、我が身と我が命をもって償おうとしたのじゃが……それをこ奴が止めてくれたのじゃ。『それでも我らのマザーは貴女しかおりません』と言うてくれてのう」
正気を取り戻したスコーピオン・クイーン、サヴァはサソリ十一号を伴ってお礼のため、ラダの街にあるエレシュの館を訪れておりました。
「……それはなによりだけれど、その姿はどうしたのかしら?」
エレシュが送る胡乱な視線の先、十歳ほどの幼女の姿になったサヴァは、「うむ。わらわの至らなさと子供らへの罪滅ぼしのため。あとはわらわの肉体を狙っておった輩への対抗策として、新たな我が身を産み落として、あの身体は微塵に砕いてやったわ」などと申します。
そうしてから、よほど腹に据えかねていたのでしょう、くくくっとほくそ笑んで、自らの肉体を利用せんと目論んでいた何某かの企みを挫いたことに満足している様子でございました。
「我が身を産み落として––––って、そんなことできんの⁉」
「うむ。生涯に一度きり、じゃがの」
驚いたフェルネットの、少々ぶしつけな言葉づかいにも特段気を悪くした風もなく、サヴァは鷹揚に頷いて答えます。
「––––ならば、再会と再生を祝っての杯は、お酒ではなくハニーレモネードが良いかしらね。今のその身体は子供に戻っているのでしょう?」
「何を言うかエレシュ!わらわは蜂蜜酒を所望するぞ!酒なくして何が祝杯じゃ!」
からかうようなエレシュの物言いに、喰ってかかるようにサヴァが言い返し。年来の間柄を感じさせる気安げなやり取りを続ける二人の杯に、ドゥムジが黄金の蜂蜜酒を注いでゆきます。
「再会と再生。それと、お前の新しい家族に––––」
「うむ。––––乾杯じゃ」
穏やかな微笑を交わし、澄んだ音を立てて酒杯を打ち合わせた二人は、旧交を温め合うように、ゆるりと杯を傾けるのでございました。
––––––––––––
「それで、お前のもとに現れたという何者かに心当たりはあるのかしら?」
「うむ……わらわが見たのは、宙に浮く葦船のみでのう。中に潜みおった者の姿は見ておらんのじゃ」
杯を交わし、唇を潤したエレシュの問いに、サヴァは記憶をたどるように顎に指を当て、中空に視線を向けながら答えます。
「葦船って……あんな感じの?」と、傍らの別卓に着いていたフェルネットが中空を指差します。
見ると、室内の天井近くの薄闇に紛れて、葦で編まれた小舟がふわりと浮いていて。
「おお、そうそう。丁度あのような感じで––––って!あ奴じゃぁ!」
怒声とともにサヴァが指差した先、幻のようにぼうとした輪郭の葦船は、くつくつと笑うかのように揺れて、やがてどこからともなく、男とも女ともつかない声が聞こえてまいります。
『ありゃりゃ、バレちゃった♪ボクのものになるはずだった身体を壊してくれたキミに、最後にイヤガラセでもしていこうかと思ったのに♪』
小馬鹿にするような愉し気な声に、じわりと全身から怒気を滲ませたエレシュが「––––そう。お前がサヴァの精神を壊そうとしたのね。取り敢えず、死体にしておきましょうか」と、【死の瞳】を葦船に向けます。が––––
『おお怖い怖い♪だけど無駄だよ♪なんてったってボクは、最初っから半霊体だからね♪キミお得意の雷の魔術で仮死状態にしようったって、ほとんど肉の身体がないボクには通用しないってワケ♪』
嘲笑うかのようにゆらゆらと揺れる葦船に、エレシュは尚も不愉快そうに視線を送ります。
「……ふん。どこぞに潜んで覗き見でもしておったというわけか。––––もう良い、エレシュ。わらわとしては、こ奴の目論みを無にしてやっただけで充分じゃ」
「……お前がそれでいいと言うのなら。それに、どうやらまともに相手をしても、莫迦を見るのはこちらになりそうだし」
油断なく葦船に睨みをきかせながらサヴァが言うと、不承不承といった様子で、エレシュも視線の矛を収めるのでございました。
『ふふっ♪賢明なんだね、キミ達は。ボクと戦うことのめんどうくささに、直感で気付くなんてさ♪……さて、これ以上ここにいてもしょーがないし、身体は現地調達でどうにかするしかないかなぁ♪––––そんじゃまったねーぃ♪ばいびー!』
「どこへなりと、疾く去ぬるが良いわ」
「お前の道行きに災いあれ、とだけ言っておくわ」
サヴァとエレシュが毒づくのを意にも介さず、ゆらゆらと揺れていた葦船は、やがて宙に融けいるように消えてしまうのでございました。
………………
「……お師匠様。あれ、なんだったのかなぁ?」
葦船が消え、何ともいえない沈黙に耐えかねたフェルネットが口を開きます。
「私も、話にしか聞いたことがないのだけれど。恐らくあれは––––」
そうして、漆黒の瞳を伏せて思案をしていたエレシュが口を開こうとしたとき……
『おっとそうそう、忘れるところだったよー♪』
「また出たっ⁉」
消えたはずの葦船が、再び姿を現したのでございます。
『––––ねぇ、そこのキミ♪』
「へ?ア、アタシ?」
『うんうん♪キミ、エロトラップダンジョンに関わってるね?』
「な、なんでそん––––」
「フェルネット、口を噤みなさい。余計な情報を与えては駄目よ」
「––––っ!」
思わず答えようとしたフェルネットをエレシュが窘め、慌てて自らの口を押えたフェルネットでございました。が––––
『ふぅん?フェルネットちゃんって言うんだ♪––––ねぇ、その手を下ろして、ボクとお話ししようよ』
「!……え、あれ?なん、で……っ!」
葦船に名前を呼ばれた途端、その言葉に従うかのように口元を押さえていた手はだらりと垂れ下がり、発しようとしているわけでもないのに、頭に浮かんだ言葉は、まるで壊れた蛇口のように彼女の口から零れ落ちてゆきます。
そして、そんな彼女の頭にエレシュが軽く手を添え……
「今、お前の言語野を封じたわ。……成程、これが【コトダマ】というものかしら?言葉そのものに威を持たせ、これを操る。……厄介なものね」
『––––アハッ!アハハッ!やるねぇ、スゴイスゴイ♪今の一瞬でそこまで見切って、対抗策までとれるなんて!……おやおやぁ?それだけじゃないねぇ♪ボクの【言霊】の影響を受けないように、その子の脳の中に隔離領域まで作っちゃってるじゃないか?』
「……お前との問答に付き合うつもりはないわ。即刻立ち去りなさい」
愉し気に身を揺らす葦船の、探りを入れるような問いかけに応じることもなく、絶対の拒絶の意を示すエレシュでございましたが、葦船は尚も言葉を重ねます。
『アハァ♪嫌われちゃったかなぁ?その子のこと、ずいぶん大事にしてるんだね♪……決めた♪ねぇ、フェルネットちゃん?』
「……?」
『キミを、ボクのお人形にしてあげるよ♪丁寧に洗脳して、常識改変してあげてさ♪目の前でボクの言いなりになるキミの姿を見たお師匠様の顔♪実に楽しみだとは思わないかい?』
「……×っ!(ゼッッタイに!)……☟っっ‼(オコトワリ‼)」
どこまでも愉しそうに繰り返される下衆な発言に、言葉を発することができないフェルネットは、両手で大きくバツ印を示し、一本だけ立てた中指を勢いよく下に向けることで意思表示をいたします。
『あらら、またまた嫌われちゃった♪まぁいいや、お楽しみはあとでってね♪そんじゃ、エロトラップダンジョンで待ってるよ~~~ん♪』
「……!!!」
『あ、言ってなかったっけ?あのダンジョン、新しいダンジョンマスターが乗っ取ることになったから、それに合わせてボク達も階層守護者として呼ばれたってワケ♪で、今いるエロモンスターはもういらないから、ボク達が到着次第、大解放!リニューアル記念パーティー!しちゃおうって予定なのさ♪きっと街のみんなも大歓声で喜んでくれるよ♪』
「……っ!っ!っ!」
『さてさて、それじゃ今度こそ……オイトマ~~~~~~~♪』
葦船の非道・下劣な言葉の数々に、フェルネットは歯を剝いて、怒りもあらわに飛び掛からんとしておりましたが、冷静さを失った彼女をエレシュが押しとどめ、その間に葦船は姿を消してしまうのでございました。
––––
––––––––
––––––––––––
(––––急がなくちゃ!早く、早く!)
葦船が姿を消してより二日。
フェルネットは、逸る気持ちを抑えながらサソリ十一号の背に揺られ、一路北へ––––パドキの街へと進路を取ります。
件の葦船、エレシュの言によれば「あれは恐らく『ヒルコ』。目、鼻、口なく、面も、骨すらない。言わばなりそこないの神よ」とのこと。
そのヒルコが姿を消した後、すぐにでも追いかけようとしたフェルネットでございましたが、「たった今、成す術もなく弄ばれたばかりのお前が行って何ができるのかしら?」と窘められ、丸二日を【言霊】の特定と検出、そして対抗障壁の構築に費やしたのでございます。
(やるだけはやった。あとは……)
「絶対に!間に合わせる!十一号さん、もう少しだけ頑張って!」
「ぅお任せください!フェルネット様と、ご友人のために!はいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ‼」
フェルネットに頼られているという充足感と使命感に駆られ、サソリ十一号は奇声を上げて爆走を続けるのでございました。
–––– その前夜 ––––
「……動きがあったようね。早ければ朝にもモンスターの強制排出が始まるわ」
各地に張り巡らせた情報網によって、敵の動きを把握したエレシュが口を開きます。
「ホントですか⁉お師匠様!」
「ええ。しかも、これは通常の迷宮氾濫とは違う。明確な悪意をもって付与を施されたモンスターの一斉襲撃。……恐らく、ギルドや教会の結界も打ち破られてしまうでしょうね」
「そんなっ!」
本来であれば、非常時の避難所としてギルドや教会には結界が施されているのですが、その結界が用を為さないとなれば、そこを頼りに駆けこんだ街の人々が辿る運命も、想像に難くないものとなるでしょう。
「……っ!」
「待ちなさい。どうするつもり?」
血相を変えて駆けだそうとしたフェルネットに、エレシュの鋭い声が飛びます。
「友達が……街のみんなが危ない目に遭うって分かってて、黙ってなんていられない。早く行かなくちゃ!」
「馬車でも二日は掛かる距離なのよ?どうやって行くつもりなの?」
「そんなの!雷速演舞で砂漠を突っ切ってでも!」
「おバカ。だからお前はバカ弟子だと言うのよ。……もう少し冷静になりなさい」
「だって!」
焦るあまりに無謀なことを口走る弟子を叱りつけるエレシュ。けれどもフェルネットは大人しくなどしていられない、と喰ってかかります。そこへ––––
「ならば、こ奴を使ってやってはくれぬかのう」
––––サソリ十一号を伴ったスコーピオン・クイーン、サヴァが声を掛けてきたのでございます。
「……サヴァ?」
「なに、わらわは元より、こ奴もそこな娘には恩義を感じておるでのう。これも一つの恩返しというやつじゃ。それに、こ奴であれば砂漠を縦断するにも都合が良かろ?」
真意を測るかのようなエレシュの視線に、サヴァはカラカラと笑いながら、恩義に報いるためと応えるのでございます。
けれども、ぺちぺちとサヴァに肩を叩かれていたサソリ十一号は気まずそうに––––
「……あの、女王。確かにわたくしはフェルネット様のためであれば粉骨砕身、骨身を惜しまず尽力いたす所存ではありますが……その、夜の沙漠ですと気温が低すぎてわたくしのパフォーマンスが低下すると申しましょうか……」
––––と、歯切れ悪く口を開くのですが。
「えぇい!ぐだぐだ言っておらんで、シャキッとせぬか!」
「どーぴんぐっ⁉」
気合一喝、サヴァは尻尾の先の毒針をサソリ十一号の首筋に打ち込むのでございました。
「––––って!だ、大丈夫なんですか⁉クイーン!」
「呵々、心配には及ばぬ。わらわの毒は、量を加減すれば強力な精力剤になるでのう」
「あ、ああ、あ……お・お・お……」
慌てて駆け寄るフェルネットに、涼やかな表情でサヴァが答え……
「…………ふおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ‼みぃぃぃぃぃなぎるエナジーィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィッ‼‼」
そして、ぷるぷると震えていたサソリ十一号は、あふれ出る衝動の赴くままに雄たけびを上げるのでございました。
「うわぁ……ホントに大丈夫なのかなぁ、アレ……」
「……フェルネット」
サヴァの蠍尾の一撃がキマり、ヤバい程にテンション爆上げになったサソリ十一号をドン引きで見つめるフェルネット。そこへ、一つの小箱を手にしたエレシュが歩み寄ります。
「あ、お師匠様。なんですか?その箱」
「これを持って行きなさい」
エレシュが差し出した箱に手をかけ、蓋を開いてみると、その中にあったものは……
「…………ピンヒール?」
中から出てきたのは、簡素なデザインながらも、ソレで踏みつけたならば確実に刺さってしまいそうなピンヒールの靴。
訝しげにその靴を見やるフェルネットに、エレシュは重ねて言います。
「これを履いて行けば、あの男の走力は跳ねあがるわ」
「てむれいっ⁉」
あたかも強化パーツの如くピンヒールの靴を勧めてくるエレシュ。その表情は一見常と変わらぬ淡々としたものに見えましたが、付き合いの長いフェルネットの目には、そこはかとなくドヤっている師の様子が見て取れるのでございました。
–––– そして現在 ––––
「––––むっ!フェルネット様!前方にモンスターの集団!あれは……なんて大きい!」
サソリ十一号の発する警告の声に目を向けると、行く手を遮るほどの砂甲虫の群れ。更には、見上げるほどに巨大な砂蟲が立ちふさがっておりました。
「あんなのいちいち相手してらんない!十一号さん、突っ切っちゃって!」
「委細承知!行きますよぉっ!サソリ人間ひき逃げアタァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァック‼」
フェルネットの指図を受けたサソリ十一号が、左肩に装備した丸い鉄製の肩当てを突き出すようにして––––下半身の大鋏も駆使しながら––––タックルの要領で敵を蹴散らし……
「よっし!デカいのはアタシがやるよ!開け、【千物語】!––––【劫火よ 集まれ 我が拳に】!」
フェルネットが、黄金の手甲を装備した右拳を天高く掲げると、手甲を炎が包み、その炎は見る間に凝縮してゆき、やがては全てを灼き尽くさんばかりに眩く白熱して––––
「語られしは【船乗りシン・バード】、第八節【単眼の巨人】より!––––十一号さん、足場!」
「はいっ!」
垂直に立てられたサソリ十一号の蠍尾に足をかけ、そのしなりをも利用して大跳躍を果たしたフェルネットは……
「喰らえ!【単眼巨人の槌撃】!」
まるで太陽そのものを宿したかのような灼拳を、砂上に屹立する巨大な砂蟲に向けて撃ち込むので––––いえ、それだけにとどまらず。
「––––か・ら・の!【散打】!」
敵の体躯を灼く拳より、数多の火球が爆発するかの如く放出され、砂蟲の巨躯は内側よりズタズタに焼き千切られてしまうのでございました。
––––––––––––
「十一号さん、そのまま行っちゃって!」
血霧、火華舞う中を抜け。
サソリ十一号の背に着地をしたフェルネットは、更に先を急ぎます。
––––もっとも、着地の際に再びピンヒールで背中を穿たれたサソリ十一号は「おっふぉぉぉぉっ!」と、苦痛とも歓びともつかない奇声を上げておりましたが。
「はいーーーっ!しっかり掴まっていてくださいませ!……っ!フェルネット様、間もなく砂漠地帯を抜けます!」
「分かった!街に着いたら十一号さんは入り口で待ってて!避難してくるヒトがいたら西側に誘導!モンスターは……絶対に通さないで!」
「承ぉぉぉ知いたしましたぁぁぁぁぁぁぁっ!」
今や完全に地平を離れて陽炎に揺らめく太陽に横顔を焼かれながら、フェルネットは口早に指示を下し、気炎衝天たるサソリ十一号は、どこから取り出したものか二フィートほどの鉄球棍を両手に携えて、乾いた砂を蹴立てながら猛然と駆け抜けてゆきます。
(ルビィ、みんな……お願い、無事でいて!)
改めて頭から被りなおしたローブの下で、フェルネットは祈るように前方を見つめ続けるのでございました。
–––– 同刻 ––––
パドキの街より西、隣国グレナ・モルテ連合王国外れの街、ベン・リーナ。
その一角にある、とあるギルドの裏手の建物の一室で、シャトーは瞑目したまま己と向き合っておりました。
『……中々順調なようじゃないか?』
(また出ていらしたんですの?ご先祖様……)
『まぁそう言わないでおくれよ。本当は誰にも手にして欲しくはないと思っていたこの力だけれど、いざ自分の子孫が……となるとお節介の一つも焼きたくなるというものさ』
彼女の心に話しかけてくるのは、『双児の夢見石』のかつての持ち主。
英雄と称され、幾多の戦いの果てに髄玉に全ての精神を吸い取られた、歴史の闇に消えた名もなき光皇。
(……その割に、姿も見せて下さらないのね?それに、御名前も)
『はははっ!今の私には定まった姿がないんだよ、残念なことにね。それに、夢見石と一体となってしまってからは、人であった頃の名も失ってしまったし……そうだね、私のことはテラ―とでも呼んでくれたまえよ』
そう言って彼、テラーは朗らかに笑うのでございます。
(では、改めてよろしくお願いいたしますわ、テラー)
『うん。【童話語り】の導き手として、蔵書の管理は任せておきたまえ。なにしろ、君の心の天秤は未だ安定しているとは言い難いのだからね、シャトー』
(ええ。まずは一つでも確実に、蔵書を私のものにしなくてはなりませんもの)
––––蔵書、とは。
『双児の夢見石』の力を引き出すため、童話という物語に基づいて形作られる、言わば通常の魔法における『魔法名』のようなものでございます。
そして、蔵書を紐解きその力を解き放つためには、物語の追体験を通してそれぞれの物語の核を手に入れる必要がございました。
おとぎ話、として語られる物語の原初に潜む、人の心の中の闇と悪意。
それらを無為自然のままに受け入れること。それがシャトーに課せられた試練だったのでございます。
(……焦っては駄目……吞み込まれないよう……澄んだ水のように……)
『そう。物語の悪意に心を乱してはいけないよ。それはあくまで過去の悪意。主人公が乗り越えて幸せを勝ち取るためのステップに過ぎないのだからね』
––––テラーの導きの元、【童話語り】の力を己がものとするために修練を続けるシャトーでございましたが、不意に響いたノックの音に、彼女の心は現実へと引き戻されるのでございます。
「シャトー。修練中のところ悪いけど、体調管理も忘れちゃいけないよ。ほら、朝食を貰って来たから食べな」
そう言って、パンとスープの乗った木盆を手に入室してきたのは褐色のエルフ、リリィ=オリエンタでございました。
「……リリィ。ありがとうございます。……なんだか、すっかりお世話になってしまって申し訳ないくらいですわね」
「なに、構やしないさ。お前さんにその髄玉を渡した以上、そいつをモノにするまでの環境を整えてやるのもあたしの役目ってヤツさね」
食事を受けとりながら恐縮してしまうシャトーに、リリィは優し気な眼差しで応えます。
「それに、これはあいつとの約束でも––––」
そうして、リリィが何事かを言いかけた時––––
「リリィ=オリエンタ!リリィ=オリエンタは居るか!」
––––慌ただしい足音とともに、一人の女性が駆けこんできたのでございます。
勢いよく扉を開けて姿を現したのは、真紅の修道服に身を包んだ長身の女性。
一枚の紙片を手に、ずかずかと室内に入ってきた彼女に対し、露骨に忌々し気な顔をしたリリィは、「ッチ!このクソ脳筋ゴリラ女が。今はシャトーに余計な刺激を与えたくないから、この部屋には入るなって言ったはずだけどねぇ!あぁ、それとも頭ン中まで筋肉が詰まってるから覚えてられなかったってのかい?あ゛?」と、舌打ち交じりに毒づくのでございます。
「貴様、誰がゴリラ女か!この魔術オタクめが!––––と、今はそれどころではないのだ!」
リリィに『脳筋ゴリラ女』と蔑まれたこの女性は、修道騎士団は紅玉隊の隊長、ジョルジュ=マッカランその人。
騎士団内では、もはや名物とまで言われるほどに仲の悪いお二方。ついいつもの調子で言い返そうとしてしまったジョルジュでございましたが、すんでのところで気を取り直して、改めて手にした紙片を突きつけて声を上げるのでございます。
「緊急事態だ!パドキの街と言えば貴様の管轄であろう!」
「––––っ!」
「––––ッチ!」
怒声ともとれる大声で告げられたパドキの街、という一言に、シャトーは肩を震わせ、その様を見たリリィは苦々し気に舌打ちを一つ。
「ともかく、先程緊急の火箭鳩によって救援要請が届けられた!それによると、かの街のダン––––」「【沈黙】」「––––っ⁉」
けれども、そんな二人の様子にも気付かずに更にまくし立てようとしたジョルジュのその言葉は、リリィの魔術によって封じられてしまったのでございます。
「……!…………っ!」
「相変わらず煩い女だねぇ。……出な。話は外で聞くよ」
––––––––––––
「––––いきなり何をするか貴様!」
「声を抑えな。あの娘に余計な刺激を与えたくないって言ってんだろうが」
シャトーにあてがわれた部屋を出た二人の隊長は、部屋の扉を窺える少し離れた場所で対峙しておりました。
「……む。そう言えばあの娘はパドキから来たのであったか。……もしや私、失言?」
「ああ。失言も失言、大失言だよ、このタコが。まだ髄玉の力をモノにしてないってのに、あの娘が飛び出して行っちまったらどうしてくれるんだい」
「済まない、それについては謝罪しよう。だが……あの髄玉を使うのは感心できんぞ」
自らの軽率な発言については素直に詫びながら、夢見石の件については目つき鋭くリリィを咎めるジョルジュでございます。けれども––––
「その議論は後だ。それよりも要件を言いな。緊急だろう?」
リリィはこれを受け流し、緊急の案件についての続きを促します。
「むぅ、取り付く島もなし、か。……では、要件を伝える。かの街、パドキにおいて迷宮氾濫と思われるモンスターの大量発生が確認された。発生源は街北方のダンジョンと推察される」
「––––ああクソッ!よりにもよってあのダンジョンかい」
パドキの街北方のダンジョン、つまりはETDにおける迷宮氾濫。その情報にリリィは乱雑に髪を掻き上げながら悪態をつき、頷きを返すジョルジュは、続けて状況の説明を致します。
「うむ。かのダンジョンの特殊性に鑑みて、国軍の出動は難しいであろう。……あそこは男所帯だからな。加えて、修道騎士団の最も近い支部でも隣国の商都・リロ。急いで進発させたところで……」
「二日は掛かっちまうね」
「そういうことだ。そこで、この街の冒険者ギルドにも救援要請が入った。こちらからであれば一刻もあれば到着できる。現在、女性冒険者の有志を募っているところだ」
「分かった。あたしもすぐに出るよ」
話を聞き終えたリリィは、踵を返して歩き出し、後を追うようにジョルジュが「……先の詫び代わりに、私も行こうか?」と声をかけるのでございますが……
「止しとくれ。あんたが暴れたんじゃ街が火の海になっちまうよ」と、皮肉交じりに返すのでございます。
「––––さて、と。シャトーが変な気を起こさないように見張りを付けとかないとね。チェリー・ベル!チェリー・ベル!」
「………………は、はいっ!お呼びでしょうかリリィ様!」
リリィが声を張り上げると、少しの間をおいて彼女の従者が慌てて駆け寄ってまいります。
「遅い!何やってんだい!……ん?何だか表が騒がしいようだねぇ。何かあったのかい」
「そ、それが……」
苛立たし気な主の問いかけに、どこか戸惑った様子で彼女の従者が語るには……
「––––はぁ?あの異界から来た小僧が女にされて?赤髪の女剣士と、胸のデカい魔術師風の女に攫われてったぁ?何言ってんだいお前」
「ほ、本当なんですよぉ!」
己の従者によって告げられた珍事件に、アタマ大丈夫?と言わんばかりに訝し気な視線を向けるリリィでございましたが、すぐさま気を取り直して要件を切り出します。
「まぁいい。それよりも仕事だ。あたしは今からパドキに向かう」
「あ、はい。話は伺ってます。僕の方も準備はできて––––」
「いや、お前は留守番だよ。あたしの槍だけ寄越しな」
「そんな!僕はリリィ様の従者です!是非ともご一緒させてください!」と。
必死の訴えを続ける従者の少年でございましたが、リリィの「バァカ。ちゃんと話を聞いてたのかい?エロモンスターだらけのところに行って、美少年凌辱でも披露しようってのかい、お前は」という言葉に、思わず数歩後ずさってしまうのでございます。
「とにかく。お前には他に頼みたいことがある。シャトーが飛び出して行かないように、しっかりと見張ってておくれ。……何しろあのゴリラ女が余計な口を滑らせちまったからね」
「ハイッ!ワカリマシタ、オマカセクダサイッ!」
「……お前のその変わり身の速さ、キライじゃないよ」
ピシリと姿勢を正し、それはそれは見事な手の平返しを披露する己の従者に苦笑を浮かべ、二条の金剛石の突撃槍を携えたリリィはその場を後にするのでございました。
(……迷宮……氾濫……ETDで?)
––––一方、扉に寄り添って耳をそばだてていたシャトーは、漏れ聞こえてくる言葉の断片から状況を推察しておりました。
そうして彼女は寝台へと向かい、おもむろに掴み取ったポーチを手に備え付けの鏡の前へ。
鏡面に映る己と正対し、森で闇雲に剣を揮っていた、恐らくは怒りに歪んでいたであろう自分とは違う、幾分吹っ切れたような今の自分の顔を見つめて彼女が取り出したもの。
それは、彼女が愛用している化粧道具でございました。
大きく、静かに息を吐き出し、努めて穏やかな表情を浮かべながら、乳液成分のあるエマル草(アロエベラのような多肉植物)で下地を整えて白粉を塗り––––
『……行くのかね?』
(ええ。……よくお分かりになりましたわね)
シャドウとアイライナーで目元を装い––––
『なに、これでも武人だったからね。戦、それも決戦前となれば、私も頬に紅くらいは差したものさ』
(お止めに、なられますか?……無謀な行いだと)
『本来ならば止めるべきなんだけれどね。……でも、止まれないのだろう?』
薄紅の頬紅をはたいて、頬を桜色に染め––––
(今行かなければ……友達の危機を見て見ぬふりをしてしまえば、私は私でなくなってしまいますもの)
『……友達を助けられるとは限らないよ?それどころか力及ばず、今度こそ君の心に一生残る傷を負ってしまうかもしれない。それでも?』
(行きます。名を偽り、身分を偽り、この上冒険者としての自分に背を向けることなどできませんもの。これは私が……)
紅差し指に取った口紅を、微笑を描いた唇に引いて––––
「……シャトー=リューズ=イエーガーであるための戦いですわ」
静かな決意を瞳に湛え、手早く装備を身に着けたシャトーは、夢見石の嵌め込まれた刺突剣と短細剣に、決して違えぬ誓いを口にするのでございました。
そして––––
「––––失礼します、シャトーさん。リリィ様に言われて、僕がお世話を––––って、あれ?」
主から世話係––––実質は見張りですが––––を言いつけられたテリー・ベルがノックをして部屋に入ってみるとそこはもぬけの殻。
窓もなく、入り口の扉から目を離してもいなかったはずなのに、そこにいるはずのシャトーの姿は、跡形もなく消え去っていたのでございました。




