去りゆく君の回帰譚-2
宵闇の悪魔が私を連れて行ったのは、王都より遥かに遠く、荒廃した街の中にある堅固な石の城だった。
周囲を威圧するような堂々とした佇まいは、圧倒的な威厳があり、風格をも感じさせる。
ここが宵闇の悪魔の牙城……!
繊細な彫刻が施された高い天井を見上げ、無意識に息を飲んだ。
この城の事は、噂話に聞いた事がある。
おびただしい数の骸が散乱し、床は血の色。聞くに堪えない悲鳴が、城内に響き渡っているのだと言う。
……でも、やっぱり噂は噂なのね。おかしな悲鳴は聞こえてこないし、虫の死骸すら落ちていないもの。
宵闇の悪魔は魔界屈指の狂人と悪名が高く、その手の噂話はごまんと持っている。
有名なのは「朝と晩に新鮮な血肉を浴びて、死体の数で月日を計っている」と言う話だ。誰が見たのか、それすら知れないのに、聞けば大人も子供も「怖い男だ」と声を潜ませる。
だけど、そんな普通ではあり得ない噂が、まことしやかに囁かれてしまうのも、彼の不徳がなせる業なのだ。
昔、父王がぼやいていた。
「宵闇の悪魔には秩序が無い。ふらりと戦場に現れては、敵をいたぶり弄んで殺していく」
噂ばかりでもないのだ。
ひたひたと塵一つない清潔な石の床を踏み、一歩先を行く宵闇の悪魔の背中を眺める。
強い魔力を帯び、異様な雰囲気を纏っているが、恐怖は感じない。
……どこまでが本当の話なんだろう。
聞いてみたい。けど、薄暗い城内に広がった重苦しいまでの沈黙に、話しかけるのが躊躇われて、黙っていた。
宵闇の悪魔は私を気にかける様子も無く、石の回廊を迷いのない足取りで進んでいく。
広い城だ。進んだ逆の方向にも建物が続き、その窓から無人の大広間が見えている。
……宵闇の悪魔は、こんな広い城に一人で住んでいるのかな。
城には死体はないが、人の気配もまるでない。
どうして私を連れて来たのかしら。
カリガネ、今頃すごく心配しているだろうな……。
半ば強引に連れてこられたとはいえ、カリガネを思うと胸が痛い。だけど、宵闇の悪魔の城に興味が無いと言えばウソだ。
胸の中で罪悪感と好奇心とが、せめぎ合っている。
ごめんね。
心の中で詫びを入れながら、宵闇の悪魔が兄上だなんて凄い事、どうして教えてくれなかったのよ! と、少しの悪態もついてみる。
そうすると、罪悪感が紛れるような気がしてくる。
「聞かなかったから言わなかった」カリガネなら、そう言うかもしれない。
だって、帝国の第一皇子は存在も希薄で、歳も離れているし興味なんてまったく無かったもの。
でも、その正体があの宵闇の悪魔なら話は別。
もし私がカリガネの立場なら、自慢して歩くわ!
だけど宵闇の悪魔が、帝国の皇子だなんて噂にも聞いた事が無い。やっぱり、噂は噂でしかないのかしら。
だけど……。
目に止めたのは、左手側に並ぶ彫刻の列だ。
王宮や屋敷にあるような、美を競い合うような芸術品とはまるで違う。目を背けたくなるような醜悪な黒い像。
太った中年の男、老女、醜いオークをモチーフとした彫刻は、どれも悲痛な表情を浮かべ、もがき苦しむような姿勢を取っている。
噂を肯定するように不気味な物が、時折こうして置いてある。
どうしてこんな物を飾るのかと眉をしかめていると、宵闇の悪魔が声を掛けてきた。
「気を付けろ。それに見入ると寝られなくなるぞ」
「大丈夫よ……!」
言いながら背筋に寒い物を感じ、歩く足を速めた。並んだ宵闇の悪魔と目が合う。
「大丈夫だってば!」
私の声と、宵闇の悪魔の笑い声が、天井の隅で重なって不気味に響いた。
****
「この城は広いだけで、使っている部屋は僅かだ。他は覚えなくて良い」
宵闇の悪魔が塔の扉を押し開くと、薄暗かった城内とは打って変わって、暖かな光が目に飛び込んで来た。
燭台には灯がともされ、ほのかにする甘い香り。
ようやく感じた人の住む気配に、少しホッとする。
「ここは何の部屋なの?」
壁一面が本棚で、書斎なのかと思えば、窓の下には椅子と机が並べられ談話室のようでもある。背の高い樹木を挟んだ奥には大きなテーブルがあり、食堂にも見える。
「俺の部屋に決まってんだろ」
城の機能、その全てを一室に収めたように合理的な造りは、城に住んでいる意味が感じられない。使用人が居ない事も不思議じゃない。
「なんだか想像していたのと全然違う」
「ああ? 髑髏が山のように積み上がっているとでも思っていたのか?」
自身に付きまとう噂を知っているのか、宵闇の悪魔はニヤリと笑い私を見る。
「残念だったな。期待したモノは此処には無ぇんだ」
「他の場所にはあるって事……?」
慎重な言い方をした私に、長い銀髪の間から見える碧眼は「ある」と語っているのに、口元には笑みを浮かべただけだった。
「ない」を期待していた私は、思わず身構える。
からかわれているのか、そうでないのか。宵闇の悪魔は表情も読みにくく、どこかひょうひょうとしていて良く分からないのだ。
もう少し核心をつく事にした。
「ねぇ。血肉を浴びているって本当なの?」
宵闇の悪魔の目が鋭く光り、聞いた事を後悔したのはすぐだった。
「ほう、それを聞くか。勇気があるな」
私を見下ろす視線のまっすぐさに気圧され、とっさに目を逸らしてしまった。
なんて気迫なのかしら……。
気楽な友人のように話しかけた相手は、あの宵闇の悪魔なのだと今更ながら気づかされる。
「知っているか? リンネロッタ――」
その低い声に空気が一変し、本能的に危険があると心臓の高鳴りが警告してくるが、重苦しいまでの緊張に手足が絡め取られて動かない。
「新鮮な血液は温かくて気持ちが良い。特にお前みたいな子供の血肉は、柔らかくて肌に吸いついてくるんだ。高貴な悪魔なら、なお良い。俺がお前をここに連れて来た理由を知りたいか?」
言って宵闇の悪魔が、私の肩に触れたせいで、ビクッと心臓が跳ねて反射的に悲鳴が飛び出した。
「きゃっ!」
「冗談だ。馬鹿め」
宵闇の悪魔はそう言って笑う。
私はといえば驚いた勢いで仰け反り、足がもつれてふらついた。
「わっ……わわわわ」
倒れる、倒れる……!
私を受け止めたのは硬い床では無く、柔らかな褐色の腕だった。
「え……?」
熟した果実のような甘い香りが、私を包んだ。
「だ、誰?」
燃えるような赤い瞳をした美女が、私を見下ろし無言で微笑んでいる。
人の気配なんて無かったのに……いつから私の後ろに居たの?
目のやり場に困るほど肌が露出した服は、使用人とは思えない。
何者かと尋ねる前に、宵闇の悪魔が口を開いた。
「サリッサ、そいつはリンネロッタだ。しばらくこの城に置く事にしたから頼むぞ」
「どういう事? 聞いてないわ!」
「今、言った」
サリッサは無言のまま瞳の形を三日月に変え、私の髪を優しく撫でた。
「あ、貴女は何なのよ……!」
反射的に背中を確認した私に、宵闇の悪魔はサリッサが淫魔と魔人のハーフであると教えてくれた。
どうしてこんな下級の者が宵闇の悪魔の城に? 眉をひそめる私にも、サリッサは微笑みを絶やさない。
「ねぇ! 宵闇の悪魔」
「殿下と呼べ」
「どうしてよ」
「ここに居る時は宵闇の悪魔と呼んでも良いが、外では俺を殿下と呼べ。お前は俺の婚約者なんだからな」
「だから、結婚なんて絶対嫌よ。婚約者だなんて認めないわ」
「フン。俺だってお断りだ。勘違いすんな。俺はお前にかけられた呪いに興味があるんだよ」
背後から伸びたサリッサの褐色の手が、私を羽交い絞めにし、体中をペタペタ撫でまわす。
「きゃ! 変なところを触らないで!」
サリッサは何も言わず穏やかに微笑んでいる。
「サリッサ、その呪いは触って分かる呪いじゃねぇ。リンネロッタ、とにかくここに居れば、呪いの効力も薄れてその正体も図れるだろうよ」
「……私は帰るんだってば!」
「帰さないとは言ってねぇ。だが最低でも月の半分はここに居ろ。俺がエテルナの魔女を欺いてやる。魔術も見てやろう。どうだ? 自慢できるぞ」
宵闇の悪魔に魔術を教えて貰える! それが魅力的な事に違いない。婚約はともかく断る理由が無くなってしまう。
「よし。決まりだな。部屋を用意してやる。サリッサ、足りない物があれば見繕ってやってくれ」
ニコリと笑ったサリッサが自分の胸を押さえた。任せてと言う事なのだろうか。
「それと、ヤバイもんは片づけといてやれ。子供の目に映して夜泣きでもされたらウゼェ」
「ヤバイ物って?」
右肩をポンポンと叩かれ、振り返るとサリッサが唇に指を当てている。
「聞かない方が良いって事?」
サリッサは穏やかに微笑むだけで、宵闇の悪魔も何も答えなかった。
「……ねぇ、城から悲鳴が聞こえてくるって、そんな噂も嘘よね?」
もし本当だとしたら、この城で夜を過ごすのが怖い。
だけど、今までの噂は全部嘘なのだ。宵闇の悪魔は血肉も浴びないし、骸で部屋を埋めていない。だからきっとそれも嘘に違いない。
「俺が浴びるのは生血じゃねぇ」
「え……?」
宵闇の悪魔は、わざとらしく脅かすように言う。
「浴びるのは断末魔だよ」
理解できずに、聞き返してしまった。
「浴びる……断末魔を……?」
「まぁ、それを浴びているのは俺じゃねぇが」
宵闇の悪魔がサリッサに目配せし、サリッサは意味ありげに頷くと、唇を笑みの形に変えた。
「彼は一番残酷な殺し方で私を楽しませてくれるの」
サリッサは甘い声で「ゾクゾクするわ」と褐色の肌を抱いたのだ。
優しげだったサリッサの豹変に唖然とした私に、宵闇の悪魔は目を細める。
「良いか、リンネロッタ。サリッサがこの城のルールだ。逆らうな」
「む、無理よ……やっぱり帰るわ!」
「一人で帰れるなら帰れば良い」
宵闇の悪魔は意地悪く笑う。
帰れないと分かって言っているのだ。
悔しさに無意識で唇を噛んでいた。
「どうせ私の翼じゃ長く飛べないわよ。でもカリガネにお別れだって言ってないし!」
「フン。別に今生の別れでもねぇだろ。俺は王都になんぞ、日に何度も行きたくねぇ。次に行くのは三日後だ。そんとき一緒に連れて行ってやるよ」
「そんな! それに私がいきなり居なくなったら、家の者だって心配するわ!」
「俺と居る事をカリガネが知ってんだろ。まぁ、だからといって安心する奴は居ねぇか」
宵闇の悪魔は自虐するように笑う。
「どうしてそんな嫌われてるの? 宵闇の悪魔は大悪魔なのに誰も尊敬していないわ」
「ずいぶんな聞き方をするじゃねぇか」
「だってそうじゃない。皆が怖がってる。カリガネも……! あんなに嫌悪したカリガネ見た事が無かったわ。実の兄上なのに変よ」
宵闇の悪魔は私を見据えて微笑んだ。
「俺は昔、欲望のままに、快楽を満たすため力を使った事がある。力は制御できなかった。皆死んだよ。俺は自分が恐ろしい。だから他者も俺を恐れる。そう言う事だ」
宵闇の悪魔は私の頭に手を置き、それ以上は何も言わず、私も何も聞かなかった。




