幼女いろは-4
魔術研究会。部室は黒い布に覆われ、薄暗い。
その中にあって、爛々と輝く夏帆の瞳には、呆れ顔の幼女が映っていた。
「お姉さま! 夏帆、嬉しくて気絶してしまいそうですわ! 魔法のお店が魔界にあったなんて!」
出入りしていた“魔法の店”その正体を知った夏帆は、不思議に触れた喜びを、強く噛み締めているのだ。
恐れるべき場所だと忠告しても「魔界の空気を吸った」と興奮している夏帆には、伝わらないだろう。
「あら……?」
「柊さん……! 鼻血が……!」
「あああ……垂れる、垂れる、ほら上向いて」
穂積が慌ててポケットから、ティッシュを取り出し、誠司が夏帆の後頭部を抱えた。
それでも夏帆は夢見心地なのか「信じられない!」と、陶酔したような身振りで、受け取ったティッシュを鼻に詰めた。
この様子では、魔界の魔物に遭遇し、たとえ絶命したとしても、本望なのかもしれない……。
「あんな天幕、よく見つけたな。魔界の気配が無ければ、通り過ぎる所らったお」
「うふふ! 見ようと意識しないと、見えない不思議なお店ですのよ!」
「……幻術らな」
はぁ、と深いため息を付き、闇姫とのやりとりを思い出す。
人間相手におかしな商売をするな。そう言った俺に、闇姫は「人間界で遊ぶには、外貨が必要なのじゃ」と悪びれもせず、笑って言ったのだ。
夏帆が言うに闇姫の店は、そういった愛好家の内で広まっていたようだ。ガラクタに惜しまず金を出す夏帆のような客など、良い“カモ”だったに違いない。
「じゃあ、その店の人が、リュウトを子供に変えた魔女ってわけ?」
「厳密には魔術士らな」
「魔術士ですの……!」
「上向いて! 上! 七瀬さん、新しいティッシュちょうだい」
「……まったく」
呪術でも、もっとも高度なものは魔術と呼び、その中でも闇姫は、高位な魔術士とされている。
魔力と魔術の知識量によって測られるものだが、闇姫の場合、魔力は封じられ、ひとえに説明するのは複雑だ。
そして、魔力の高い純血の悪魔は“魔術士”とは、呼ばず“大悪魔”を名乗る。
魔術の公式にとらわれず、森羅万象の理を操るため、魔術士を凌駕する存在なのだ。
その中でも俺は、魔力がずば抜けて高い者の最高位“賢人”その“心理”と異名を持つほどの大悪魔なのだが、この身では説得力に欠けるだろう……。
「夏帆。とにかく、不用意に不思議なものに近づくのあ、止めろ。カエルに変えられ玩具にされても、文句あ言えなかったのらぞ」
言いながら、机の上に並ぶ、古びた小瓶と小袋の数々に目を落とす。
闇姫から買った、怪しげな品を持ってくるよう言いつけると、これだけの数が集まったのだ。
中身は、液体に粉末と形状は様々だ。
ビンに貼られたラベルは擦り切れ、ボロボロだが、いくつかの魔界文字が読み取れる。
「ヒ素、トリカブト、リン、真核生物……」
「まぁ……!」
「まぁ! であない。毒にも薬にもなるような代物であないか」
試薬した夏帆の爺さんが、ピンピンしているという事は、死なない程度に希釈してあるのかもしれないが、俺には扱いきれない。
ゴミ箱に投げ入れると「酷いですわ」と非難の目が向けられた。
「お……!」
馴染みのある薬液が目に止まった。
「アルサグリアの涙ら」
「……なんですか?」
穂積が、嫌なものでも見るような目で聞いてきた。
「ひらたく言えば万能薬らな」
頭が痛いといえば、アルサグリアの涙。熱が出たといえば、アルサグリアの涙。擦り傷、歯痛、捻挫、とりあえずアルサグリアの涙と言われるほど、大衆的な薬だ。
……これは、効き目があるかもしれない
棚から大きめのティーカップを取り出し、アルサグリアの涙、その緑の溶液を注ぐと、どこか懐かしい魔界の香りが部室を包んだ。
今は亡き、曽祖母の館を思い出す。
ホズミも似たような事を感じたのか、尻尾をピンと立て、カップの中を覗き込んでいた。
「なんだかカビ臭いですね……」
「少し古いのかもしれないな。お! これあ、石蛇の鱗らな。 こっちは、三頭兎の目玉ら!」
「……グロイ」
水溶液に浮かぶ目玉は血走り、糸のように尾を引く神経の束は、人間の目には刺激的かもしれない。
「これは良い滋養強壮の薬なのら」
言いながら、ティーカップへと流し入れ、ぐちゃぐちゃと潰すと、誠司はあからさまに顔を歪め、穂積は背を向けた。
「混ぜますの……?」
「ああ。何が効くか分からないかあな。どんどん混ぜてやるお」
次に目入ったのは、わずかに発光する緑色の薬液の入った小瓶。
「これあ……良く分からんな……」
蓋として詰められた木屑を引き抜くと、ツンとした香りが鼻を刺激してくる。
「星のかけらが入っていると聞きましたのよ!」
夏帆は得意げに言うが、何を意味しているのかサッパリ分からない。
「猫、知ってうか?」
「ニャー?」
愚かなるホズミが知るはずもないか。
「よし! 緑は薬、紫は毒ら!」
そう宣言し、ティーカップの中へ注いだ。
「リュウトさん、変な煙が出てきましたけど……」
「大丈夫なの?」
問題ない。とは、言い切れない。
夏帆が上を向いたまま、横から口を出してきた。
「お姉さま、この赤い粉は“魔除け”青い錠剤は“心の呪縛を解き放つ”ですのよ」
……得体の知れぬ薬だ。
「これ、そもそも……食用、なんですか……?」
「安心しろ、俺に任せていればいいのら」
いつしか、精査するのも面倒になり、直感で薬だと感じた物を、手当たり次第に混ぜていた。
結果、ティーカップの中は、土色の液体で満たされた。
冷たいはずの液体に煙が昇り、何が発泡しているのかは分からないが、底からブクブクと泡が沸き、時折、プシュッと透明な粘液が噴出する。
調子に乗って、とんでもない物を作ってしまった……。
この薬は失敗だろう。
「……」
だが、誰一人として、口を開き、その事を指摘する者はいなかった。
吸い込めば肺が腐るのではないかと、錯覚を起こしそうなほどの悪臭に、全員が無意識で息を止めているのだ。
穂積が鼻を摘みながら、そっと窓を開けた。
通りに抜けた新鮮な風を、逃さぬよう吸い込む。
「……猫、飲んでみお」
「ニャ?」
ホズミがティーカップに鼻先を近づけると、タイミングよく底から沸きあがった泡が弾けた。
「ニ゛ャッ」
毛を逆立てて震えた。
「闇姫に術をかけられた者同士、おまえが適任ら」
「ニャニャニャーニャニャ!!」
「俺を元に戻したいと思わないのか?」
「ニャ!?」
「リュウトさん……やめて下さい、可哀想ですよ」
鼻と口を両手で押さえながら、誠司も頷いている。
「猫ちゃん、無理しないで下さい」
「ニャーニャニャ……!」
ホズミは穂積に飛びつこうと、空をかいたが、夏帆が後ろから捕まえた。
「ニャニャニャーニャニャ?」
「猫さん、許して下さいまし、お姉さまの為ですもの」
「そうら。腹を決めろ」
「ニャ……」
ホズミは緊張に前足をピンと立たせ、硬直した。
「よし、いい子らな」
頭をなでると口をパカリと開け、二本の牙が覗き見える。
「……悪く思うなお。猫が治る。かも、しれないのらから」
息を止めながら、どろりと粘り気のある液体をスプーンですくい、口の中へ一気に流し込む。
途端ホズミは目を丸め、全身の毛を逆立て、夏帆の腕から飛び上がった。
「ニャー!! ニャッニャッ!」
「水か?」
「ニャッ!」
「猫ちゃん、お水です!」
小皿の水を夢中で舐め尽くし、舌をだらしなく出して「ニャーニャー」鳴く。
「どうら? 効くような気はあるか? もう少し飲んでみお」
ホズミは後ずさりをすると、ソファの上をピョンと飛び、書庫の上まで逃げた。
完全拒否だ。
「……怯えてるじゃないですか、よほど酷い味だったんですよ……」
「フン! 不味さに死にはしないらろう。戻ってこい!」
ホズミは目を三角にし、牙を剥いた。
「死んだら、お恨みしますぅ!」
「フン。墓くらいは立ててやおう。成仏しろお」
「そんなぁ……!」
隣に座る穂積が俺の肩を揺すり、夏帆は興奮した様子で立ち上がる。誠司に至っては、鼻を塞ぐ手を下し、ポカンと口を開けていた。
「ん?」
天井に貼り付く猫と目が合う。
小豆色の体に片耳の猫。
「おまえ……喋ったのか?」




