賢者と堕天使の黒歴史-2
なだらかな下り坂の途中、ベイサイドと呼ばれる地域が見えてきた。
海沿いに高層の建物がいくつも立ち並び、夜景が見所なのだと誠司は言う。
隣を歩く誠司をチラリと見上げる。
目が合う。
どちらからとも無く微笑み合って、繋いだ手に力を込めた。
「痛ッ、力が強いんだよ、馬鹿……!」
「あはは、びっくりした?」
「お返しだ!」
思い切り強く手を握ったが、誠司は涼しい顔だ。それが悔しくて両手を使いさらに強く誠司の手を握る。
「リュウト、両手は反則だよ」
そう言って誠司は秀麗な顔に笑みを浮かべる。
ああ、これを幸福と呼ぶのだろうか……。
あまりの幸福感に顔にしまりがなくなっていた。キリリと頬に力を入れても、気がつけば頬は緩んでいる。
俺が誠司に好意を持っていると伝えたら、誠司は喜んでくれるだろうか。
だが俺は悪魔で誠司は人間だ。いずれ別れが来る。
「なぁ……俺が魔界に帰ったら寂しいか?」
「そりゃあ、寂しいよ」
「本当にそう思う?」
誠司の大きな手が俺の髪を優しく撫でる。
その心地よさを噛みしめながら、誠司の腕に少しだけ寄りかかって歩いた。
「僕はリュウトが居てくれる時間を大切にしようって思ってる」
穏やかな微笑みに胸が苦しくなった。
「実は、恥ずかしい話なんだけど……彼女と別れてから喪失感がずっと抜けなくってさ」
自嘲するように誠司はポツリと話し始めた。誠司から女の話など聞いた事が無い。
もしや、と誠司から渡されたこのワンピースを見ると、誠司が意味ありげに口元を緩めた。
「どうにか他の事でその穴が埋まらないかなって、馬鹿みたいに遊んだり、格闘技なんかを習って気を発散させてみたり、色々やったんだよね」
言葉に悲壮感は無い、ただ照れくさそうに遠くを見ている。
誠司の頬が夕日の色に染まっていく。
「でもさ、天使が僕のアパートから飛び出して行くのを見た時、僕の世界って狭いんだなぁって気が付いて。そしたら、全部吹っ切れちゃった。だから、リュウトありがとう」
「……フン。俺は何もしてない」
「居てくれただけで救われたんだよ」
誠司が歩みをピタリと止めた。
そして俺の肩に手を置き、いつになく真剣な目で見下ろしてくる。
「あの時から僕はリュウトが―――」
これは……と先の展開を本能的に察したのと、感情は平静を保っている事に気がついたのは同時だった。
「あーー!ちょっと待ってくれ!何も言うなよ!何も聞かないからな!わー!」
とにかく叫んでいた。
胸の中にあるのは後悔と罪悪感、そしてとりわけ大きいのが羞恥心。
それを持て余し、もう叫ぶしかなかった。
「な、なに?」
うなり声を上げる俺の前で、誠司は狼狽している。
「うぅ……」
薬の効果が切れている!一体いつ切れたんだ!?
ぴったりと誠司に寄り添う右腕の存在……。
ざわざわと鳥肌が立ち、慌てて身体一つ分の距離を開けたが、強く握られた指は抜け出せそうに無い。
「ああああ……」
……自分のやらかした恥ずかしい情景が脳裏に次々と再生されていく。
どうして記憶がこうも鮮明なんだ!
「ど、どうしたのリュウト?具合でも悪い?」
この俺の豹変、説明しなければ誠司は傷つくだろう。
さっきまでの俺は誠司に恋焦がれ、好きだと言う気持ちを押さえられない、そんな態度を取っていたのだから。
「……許してくれ、誠司の気持ちを弄ぶ気は無かったんだ」
言い逃れせず「誠司が好きだという暗示」にかかった事を洗いざらい話すと、誠司は噴出し、いつもの優しい面差で「そういう罠だとは思わなかった」と、目を細めた。
「で、なんでそんな暗示をかけたの?」
鋭く咎める教師のような口調で、誠司は首を傾けて見せたが、性交に及ぶ為だったとは口が裂けても言えない。
「これ以上は言えん!全ての出来事が恥かしくて気が狂いそうだ。どうか忘れてくれ」
懇願していた。
「えー?僕には良い思い出なのになぁ」
俺の反応を楽しむように、誠司は悪戯っぽく笑うが、俺は出来事の内の一つを思い出すだけで、胸の中心がぎゅっと縮こまるような苦しさと、この身をやすりで削られるような焦燥感に襲われるのだ。
今すぐこの坂道を転がり消えてしまいたいと願うほどに!
「俺だって、お前の事が好きすぎて苦しかったんだからな!痛み分けだ!」
にやけた誠司と目が合った。おかしな事を口走ったようだ。
「口が勝手に笑っちゃう」
「俺を殺してくれ……」
「ごめんって」
しかし、愛に満たされ、幸福であり苦しいとも感じた、あの大きな気持ちが消え、今は胸の内に何か物足りないとすら感じる。
これが誠司の言った喪失感の正体なのだろうか。
そして、カリガネを狂気に変えた物の本質なのだろうか。
「笑いすぎだ!」
涙目の誠司と目が合った。
もう手は繋がってはいない。
*****
「僕とまだ一緒に居たいんだったよね?」
茶化すとリュウトは「疲れたから、さっさと帰りたい」と、うな垂れた。
「あーあ、可愛かったんだけどな」
「……今でも十分可愛いだろ」
悪度をつく声も表情も暗い。
そして、よほど恥ずかしいらしく、リュウトは僕の顔を一切見ようとしなかった。
一歩先を僕に抜かれないように、早足で歩くリュウト。
少し寂しくもあるけど、妙に安心している自分もいた。これが日常の距離感だ。
「じゃあ、七瀬さんにお土産買って帰ろっか」
「――おい、あれ」
リュウトが足を止め、正面を見据えた。
お婆さんが僕らの方へと歩いてくる。その背後、一台のバイクが不自然にお婆さんに近寄っていく。
「危ないな」
リュウトが身構えたのが分かった。
そしてバイクに乗った黒ずくめの男は、大方の予想通り、すれ違いざまにお婆さんのバッグをもぎ取ったのだ。
ひったくりだ。
バッグの持ち手を放した反動で、お婆さんが路面へと転倒する。
「大丈夫ですか!?」
僕がお婆さんの元へ駆けたのと、リュウトが車道に飛び出したのは、ほぼ同時だった。
バイクは突然目の前に飛び出して両手を広げたリュウトに驚き、転倒し回転しながら横滑りしていく。
焦げるような匂いと、ガラスの割れるような音が立つ。
後続の車がクラクションを鳴らしながら、バイクから男を引きずり降ろすリュウトの目の前で止まった。
「リュウト!」
なんて無茶をするんだ!
僕もリュウトの後を追い、車道へと飛び出した。
リュウトは、逃げようとするひったくりの両腕を、懸命に掴んでいたがリュウトの力では、簡単に振りほどかれ、地面に尻もちをついて倒れてしまった。
ひったくりが僕の方向へと逃げてくる。
「誠司!」
分かってる。
ひったくりの腕を捕まえ、みぞおちを狙い肘鉄を入れた。すでにどこか怪我をしていたのか、引ったくりは膝関節をカクンと折って、あっさりと前のめりに倒れた。
ガチンッと派手な音を立てて、ヘルメットが路面に激突する。
「大人しくして下さい、すぐ警察呼びますから」
後ろ手を掴み、膝の下に組み敷いてもなお、ひったくりは逃れようと暴れていた。
「お見事!」
パチパチと手を打ちながら、悠々とやって来たリュウトは、暴れるひったくりのヘルメットのシールドを開けると、どこから取り出したのか分からない短剣の柄で、ひったくりの頬を躊躇う事無く殴りつけた。
聞きなれない鈍い音がして、ひったくりはようやく静かになった。
歯でも折ったのか唇から血を流している。
痛そうだ……。
ひったくりも、まさか女の子に鈍器で殴られ、止めを刺されるとは想像していなかっただろう。
「これはリュウト。やりすぎだよ……」
「フン、当然の報いだ」
天使のような顔をしていても、リュウトは悪魔なんだと改めて思う。
「ご老人、怪我はないか?」
リュウトがよろよろとやって来たお婆さんにバッグを手渡し、にっこりと微笑んだ。
バッグを取り戻したお婆さんは、涙すら浮かべリュウトに手をすり合わせている。
お婆さんの目には天使に見えたかもしれない。
「姉ちゃん良いぞー!」「カッコイイ!」「兄ちゃんつえーなー」
行く末を見守っていた通行人、停車した車に乗った人々から大きな喝采が起こった。
「誠司、逃げるぞ」
「え?」
「良いから!」
弾けるような笑顔で、差し出された手を掴む。
「面白かったな」
混乱する僕に、リュウトは薄茶色の瞳を大きく見開いて、屈託の無い笑顔を見せた。
いつもは気取った笑い方をするリュウトだけど、ふいをついて見せる少女のような笑顔は特別に可愛い。
駆けだす華奢な足には、すり傷。
俺の可憐な足が傷ついたと、後で騒ぐ姿が目に浮かんだ。
「急に飛び出したら駄目って言わなかったっけ」
「ああ、そうだった!気をつけよう」
僕はリュウトの事が好きだ。
男友達と遊んでいるような気楽さと、ふと見せる女の子っぽい仕草にドキドキさせられる。
リュウトは僕の事を好きにはならないだろう。
でも、それで良いと思っている。




