第一話
私の人生は幸せだった。
特別、何かあったわけではない。平凡でありきたりな人生だった。
ドラマのような恋愛をすることもなく、ただ好きな人と結婚をした。
子供は、大学進学と同時に私たちの元から離れていった。
同じ時間を過ごして、どこにでもいるお年寄りになった。
そんな、お話にもならないような人生だった。けれど、幸せだったと、ちゃんと思える。
夫とは職場結婚だった。二人とも、目立つような存在ではなかったから、私が寿退職をしても、たいして騒がれることもなかった。
彼は仕事熱心な人だった。家庭のことは、あまり顧みない人だったかもしれない。
それでも、私の作ったお弁当を毎日持って行って、空にして帰ってくれた。
結婚記念日には、いつも花を買って来てくれた。
無言で差し出されることも少なくなかったけれど、私はとても嬉しかった。
「ありがとう」
そうお礼を言えば、夫はこくり、と頷いた。
子供も手を離れ、夫婦二人の時間ができた。
夫は、多くを語る人ではなかった。物静かな人で、読書が好きな人だった。
私も、陽気な性格ではなかったから、ちょうど良かったのかもしれない。
コーヒーを淹れて、手作りの、かぼちゃのマフィンをそばにおいた。
私も隣に座って、何を話すわけではないけれど、一緒な空間を過ごす。
ぱら、とページがめくれる音が心地良い。
本を置かずに、夫はマフィンに手をのばす。一口頬張ると、「美味しい」と言った。
「あなたのお気に入りでしょ?」
私は笑う。
「ああ」
「今、かぼちゃの季節なのよ」
「へぇ……」
それだけだった。
けれど、私は幸せだった。そんな、なんでもない日々が好きだったから。ずっと続けばいいのに、とも思っていた。
もちろん、思い通りにはいくわけないのだけれど。
――夫がなくなったのは、初夏のよく晴れた日の午後だった。
今でも、澄んだ青空を見ると……少しだけ、その日を思い出してしまう。
夫が大好きだった本を捲る。
ぱら、とその静かな音でも、私ひとりの空間では、大きく響いた気がした。
仏壇にお線香を焚いて、手を合わせる。しわくちゃな私の手は、お世辞にもきれいとは言えない。
「……純さん。今年も、かぼちゃの季節になりましたよ……」
曲がってしまった腰では、もうキッチンに立つことすら難しくて、かぼちゃのマフィンは、もう作れそうにない。
あなたの大好きだった、かぼちゃのマフィン。来世でも、あなたと一緒になれたら、作ってあげられるかもしれない。
「ふふ……こんなにお婆ちゃんになっちゃってたら、気付いてもらえないわね」
あなたより、十も年を重ねてしまった。きっと、見た目も変わっているだろう。
せめて三途の川の向こう岸で、「真理」と、もう一度、呼んでくれないだろうか……。
写真の中の老いない夫に、思わず苦笑を漏らした。




