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第一話 スマホと車窓

 ガタゴトと規則的な振動を繰り返す、夜の地下鉄。

 時刻は22時を過ぎた頃だった。仕事帰りの乗客を乗せた車内は、どこか疲れ切った空気が澱(淀)むように満ちている。


 咲希さきは、車両のドア脇の座席に深く腰を掛け、俯くようにしてスマホの画面を眺めていた。


 ブルーライトが照らし出すのは、SNSのタイムラインや、スクロールしても終わりのないニュースのニュースフィード。周りの乗客も同様だ。誰もが自分の手のひらの中にある小さな画面に閉じこもっている。隣に座るサラリーマンも、向かいに立つ学生風の男も、死んだような目で液晶を見つめていた。車内に響くのは、レールと車輪が擦れ合う金属音と、時折鳴るエアコンの送風音だけだった。


「……はあ」


 小さく息を吐き、咲希は疲れの溜まった目を一度閉じた。

 今日は残業続きで、肩が重い。早く家に帰って風呂に入り、ベッドに潜り込みたい。


 そう思いながら、再び目を開けてスマホに目を落とした、その時だった。


 カシャ。


 静かな車内に、甲高い電子音が響いた。


 スマホの標準カメラが発する、独特のシャッター音。


 咲希は思わず顔を上げた。このご時世、電車内でシャッター音が鳴れば、誰だって過敏に反応してしまう。盗撮か、それともただの誤操作か。


 正面のガラス窓を見る。夜の地下鉄は、窓ガラスが黒い鏡の代わりになる。

 向かいの席には、コートを着た中年の男性が座っていた。男性は自分のスマホを胸の高さまで掲げ、両手で操作している。角度からして、ちょうど咲希の方向へレンズが向いているように見えた。


(……今、私を撮った?)


 不快感が胸の奥からこみ上げてくる。

 咲希は不自然にならないよう、さりげなくその男性を盗み見た。男性の指先は忙しく動いているが、顔はうつむいたままで表情が読み取れない。


 気のせいかもしれない。SNSの操作中に押し間違えただけかもしれない。

 自分を自分に言い聞かせ、咲希は再びスマホの画面に視線を戻した。


 だが、一度芽生えた不信感は、黒いシミのようにじわじわと広がっていく。


 次の駅に着き、ドアが開き、数人の乗客が降りて、また新しい乗客が入ってきた。

 車内の配置が少し変わり、向かいの席の男性はそのまま留まっていた。


 咲希はスマホを操作するフリをしながら、インカメラ(インサイドカメラ)の起動を考えた。スマホの画面を少し傾ければ、インカメラを通じて向かいの男性の動きを確認できるのではないか。


 画面の上で指を滑らせ、カメラアプリを立ち上げる。インカメラに切り替えると、画面には疲れた自分の顔が映し出された。その背景に、向かいの男性が小さく映り込んでいる。


 男性は、やはりスマホを胸の位置に掲げていた。

 だが、よく見ると何かがおかしかった。


 男性のスマホの背面——カメラレンズがあるはずの場所に、小さな「何か」がくっついているように見えたのだ。それは黒い粘着テープのようでもあり、あるいは不気味な突起のようにも見えた。


(なにあれ……?)


 目を凝らそうとした瞬間。


 カシャ。


 再び、シャッター音が響いた。


 びくっと肩が跳ねる。今回は間違いない。音が小さく響いた瞬間、画面の中の男性のスマホが微かに揺れた。


(やっぱり、私を撮ってる……!)


 怒りと恐怖が同時に押し寄せてくる。

 注意するべきか? 車掌に通報するべきか? いや、もし相手が危険な人物だったらどうする? 逆上して刺されたりしたら……。現代の電車内で起きる凄惨な事件が頭をよぎり、声が出ない。


 咲希は息を殺し、次の駅で降りようと心に決めた。自宅の最寄り駅まではあと三駅あるが、この車内にこれ以上留まるのは耐えられなかった。


 ふと、画面の中の自分に目が行く。

 インカメラに映る自分の姿。その後ろの背景。


 ……違和感があった。


 男性の手元にあるスマホのレンズ。それが、どう考えても咲希の顔ではなく、咲希の「すぐ隣」に向けられているような気がしたのだ。


 咲希の隣は、ドア脇のスペースだ。そこには誰も立っていない。ただの手すりと、ドアのガラスがあるだけだ。


(え……?)


 男性は咲希を撮っているのではない?

 じゃあ、一体何を撮っているというのだ。


 カシャ。


 三度目のシャッター音。

 今度は、間隔が短かった。


 男性の指が素早く画面をタップしている。まるで、連写でもしているかのように。


 カシャ。カシャ。


 車内の他の乗客は、相変わらず誰一人として顔を上げない。まるでそのシャッター音が聞こえていないかのように、全員が自分のスマホを食い入るように見つめている。この異常な静寂が、恐怖をさらにあおった。


 咲希は恐怖に震える手で、自分のスマホのインカメラの画角を少しだけ横にずらした。

 自分の顔を画面から外し、自分の右隣——ドア脇のスペースを映し出すように。


 画面に映る、薄暗い車内。

 ドアの金属フレーム。

 そして、黒く透けたガラス窓。


 そこには、夜の地下鉄のトンネルの壁が猛スピードで流れているはずだった。


 しかし、スマホの画面に映し出されたガラス窓には——何かが張り付いていた。


「ひっ……」


 喉の奥で小さな悲鳴が漏れた。


 それは、人間の形をした「何か」だった。

 ガラスの外側、走る電車の窓にべったりと顔と両手を押し付け、車内を覗き込んでいる。

 全身が濡れたように黒く、顔には目も鼻もなく、ただ巨大な口だけが縦に裂けていた。その裂け目が、ぐにゃりと歪んで笑っているように見えた。


 電車は地下を時速数十キロで走っている。

 そんな場所に、人間が張り付いていられるはずがない。


 カシャ。カシャ。カシャ。


 向かいの男性のシャッター音が速くなる。

 咲希は恐る恐る、画面越しではなく、肉眼で右隣の窓ガラスを見た。


 ——誰もいない。


 ただの黒いガラスと、そこに映る自分の青ざめた顔があるだけだ。


 肉眼では見えない。

 だが、スマホの画面レンズを通すと、そこに「それ」が存在していた。


 咲希は悟った。

 向かいの男性は、咲希を盗撮していたのではない。

 咲希のすぐ隣に張り付き、咲希の首筋をじっと見下ろしている「それ」を、恐怖に狂いそうになりながら撮影していたのだ。


 スマホと車窓:第四話「通知」

 カシャ。


 男性のスマホから、また音が鳴る。

 男性の手が、激しく震えているのが見えた。顔を伏せているが、彼の額から大量の汗が滴り落ち、膝の上にこぼれている。


 彼は知っていたのだ。

 自分が声を上げれば、あるいはスマホから目を離せば、あの窓の外の「何か」と目が合ってしまうことを。だから、スマホの画面越しにしか、あの存在を確認できないのだ。


 咲希の全身から血の引く音がした。


「それ」は、窓ガラスの外から、じわじわとすり抜けるようにして——車内へと侵入してきていた。


 インカメラの画面の中で、黒い影がガラスを透過し、咲希の右肩のすぐ上にまで伸びてきている。長い、骨と皮だけの指が、咲希の髪に触れそうなほど近くにある。


 冷気。

 右側の首筋に、氷を押し当てられたような恐ろしい冷気が吹きかかった。


(嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ……!)


 立ち上がって逃げ出そうとしたが、腰が抜けたように力が入らない。


 その時、咲希の手の中で、スマホが「ブッ」と激しく振動した。


 画面の上部に通知がポップアップする。


『近距離共有(AirDrop)から受信:1件のファイル』


 送信者の名前は表示されていない。ただのランダムな英数字の羅列。

 向かいの男性からだ。彼が、恐怖のあまり周りの人間に助けを求めるように、あるいはこの異常を共有するために、写真を飛ばしてきたのだ。


 咲希の指が、恐怖で誤って「受け入れる」を押してしまった。


 瞬時に、受信した写真が画面いっぱいに広がる。


 それは、ほんの数秒前に撮影された車内の写真だった。


 写真の真ん中には、スマホを握りしめて青ざめている咲希自身が写っていた。

 そして、咲希の背後から伸びた無数の黒い手が、咲希の首、肩、頭をぎっちりと掴み、今にも暗闇へと引きずり込もうとしている光景が写っていた。


 しかし、本当の恐怖はそれだけではなかった。


 写真の中に映る、向かいの席。

 そこには、あのコートを着た男性も写っていた。


 男性の背後にも——咲希の背後にあるものよりも遥かに巨大な「黒い影」が、天井から覆いかぶさるようにして巻き付いていた。影の巨大な顔が、男性の耳元に口を寄せている。


 男性は、自分が撮られている(狙われている)ことには気づかず、咲希の隣の怪物だけに怯えて写真を撮り続けていたのだ。


 お互いに、相手の背後にいる恐怖しか見えていなかった。


 ピンポンパンポン——


「まもなく、〇〇〜、〇〇〜」


 車内アナウンスが無機質に響き、電車が速度を落とし始めた。ホームの明かりが窓を照らし出す。


 咲希は振り絞るようにして立ち上がり、開いたドアからホームへと転がり出た。


「はぁ……! はぁ……!」


 ホームのコンクリートの冷たさを感じながら、咲希は必死で息を整えた。

 電車は静かにドアを閉め、再び暗いトンネルの先へと走り去っていく。


 開いたドアの窓越しに、あの男性の姿が一瞬見えた。

 男性は相変わらず、胸の前でスマホを構え、画面を見つめたまま固まっていた。


 その背後で、天井から垂れ下がった黒い影が、ゆっくりと男性の頭全体を呑み込んでいくのが見えた気がした。


 咲希はガタガタと震える手で、自分のスマホを見つめた。


 画面には、まだ先ほど受信した写真が表示されている。


 写真の中の「黒い影」たちが、静止画であるはずなのに——ほんの少しだけ、カメラ(こちら側)に向かって顔を忍ばせ、笑ったように動いた。


 カシャ。


 誰も操作していないはずの咲希のスマホから、小さくシャッター音が響いた。

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