第五十章 光にあふれた世界
「これ、摩利の蔵人」
帝が名前を呼んでいる。即座に返事を返して帝を見ると、その姿は瞬く間にかき消えてしまった。
その途端、世界がすべて暗くなって不安に襲われる。まるで置き去りにされた子供のようだ。鈴のような音が聞こえて、周りに雲が漂いだした。
そこで目を覚ました。
「……また変な夢を見たなぁ……」
そうつぶやいて周りを見渡すと、そこは八畳ばかりの部屋の中に、所狭しと棚と西洋骨董が並べられたいつもの骨董店だ。
この西洋骨董店の店主の真利は、眠気覚ましにと愛用の椅子から立ち上がってレジカウンターの中に入る。
ガラスのはまった棚から茶葉とガラスのティーポットを出してお茶を淹れる準備をする。今日のお茶は、銀座の店で買ってきたプーアル茶だ。餅茶とよばれる茶葉を固めて円盤状にしてあるもので、ナイフなどで茶葉を削って使うそうだ。
すでに削ってあった餅茶の茶葉をティーポットに入れ、電気ポットからお湯を注ぐ。するとすぐに黒豆のような香りが漂った。
お茶を蒸らしている間に、雑然としているレジカウンターの内側を整理する。先ほど来た客がプレゼントラッピングを希望したので、それに対応したままになっていたのだ。
そうしていると、店の入り口が開く音がした。
「いらっしゃいませ」
顔を上げて反射的に挨拶をすると、入ってきた男性客ふたりも軽く頭を下げる。
「こんにちは」
「どうもお邪魔します」
このふたりは、この店に度々来てくれている常連だ。だから見慣れた顔ではあるのだけれども、真利はすこし驚く。
「愛さん、恵さん、いらっしゃい。
あ、あれ? おふたりとも知り合い同士なんですか?」
そう。愛と呼ばれた客は、普段は真利の妹の友利と一緒にここに来るし、恵と呼ばれた客も、普段は他の人と一緒に来ることが多いのだ。なんなら、このふたりが一緒にいるところを見るのははじめてだ。
すると、愛がころころと笑ってこう返す。
「すいません。別に黙っているつもりはなかったんです」
続けて、恵もすこし渋い顔をして口を開く。
「まさか、愛が真利さんの妹さんと婚約しているなんて、僕も知らなかったんですよ。
それで、愛の婚約者の話をしたときに真利さんの名前が出て、お互いこのお店の常連だと知ったんです」
ふたりの言葉を聞いた真利は、報連相は大事だなと思いながらティーポットのようすを見る。すこし話している間に、かなり濃くお茶が出たようだ。
真利はそのままレジカウンターの中の棚を開けながらふたりに訊ねる。
「驚きましたが、一緒にいらしてくれて嬉しいです。
ちょうどお茶が入ったところなので、一緒にどうですか?」
すると、恵がどこか疲れた顔でにっこりと笑って紙箱を手渡してきた。
「お茶もすこし期待してきていました。
よかったらお茶請けにどうぞ。
スイートポテトパイを焼いてきたんです」
恵の目の下にある隈と、不満や鬱憤が溜まったときは小麦粉にぶつけがちだと以前聞いた話を鑑みるに、きっとまた職場なりなんなりで一悶着あったのだろう。
そうは思うものの、真利はそれを口に出さず、紙箱を受け取る。
「いつもありがとうございます。
では、ただいま用意しますので少々お待ちください」
いったん紙箱をレジカウンターの上に置き、バックヤードからまるい座面のスツールをふたつ出す。それを、真利がいつも座っている別珍張りの椅子の向かいにふたつ並べ、愛と恵に勧める。
ふたりが椅子に座ったところでまたバックヤードに戻り、小皿を三枚出してシンクでざっと洗って水を切る。布巾で水気をしっかり拭き取ってから紙箱の元へ戻り、蓋を開けてひとつずつ小皿の上に乗せた。
「まずは、恵さんが焼いたパイからどうぞ」
両手で恵と愛にパイを渡し、そのまままたレジカウンターの中の棚からティーカップをふたつ取りだし、ティーポットからお茶を注いでいく。真利の分は、普段から使っているマグカップに注いだ。
「今日のお茶はプーアル茶です。
お口に合うといいのですが」
そう言いながら、真利はティーカップを愛と恵に渡していく。すると、愛が早速お茶の香りを聞いてにっこりと笑う。
「これはいいプーアル茶ですね」
「わかりますか?」
「はい。台湾でよく飲んでいたもので」
そういえば、愛は割と最近まで台湾にいたのだった。
プーアル茶が有名なところと言えば台湾だけれども、その分台湾にはできの悪いプーアル茶も多い。香りは清々しいけれども発酵が不十分で、実際に淹れてみると苦くて飲めたものではないというものもあるそうだ。
そうこうしているうちに全員分のパイとプーアル茶が揃い、おしゃべりをしながらお茶の時間を楽しむ。
パイがおいしいのはもちろん嬉しいけれども、愛と恵がこの店に来ていなかった間の話を聞かせてくれるのも嬉しい。ふたりともそれなりに忙しい生活を送っているようだけれども、その中でもわざわざ時間を作ってこの店に来てくれるのはありがたいものだ。
ふと、愛が真利を見て言う。
「そういえば真利さん」
名前を呼ばれた瞬間、真利の脳裏に先ほど夢に見た誰かの姿が浮かんだ。
その誰かは、なんとなくだけれども、声も顔かたちも愛に似ているような気がした。
けれども、今となってはあれが誰だったのかがわからない。
その疑問を片隅に追いやって、真利は返事を返す。
「はい、なんでしょう」
「実は最近、恵君に勧められて源氏物語を読んだんです」
「ああ、源氏物語ですか。なかなかにおもしろいですよね」
真利が読んだ源氏物語は現代語訳のものだけれども、愛が読んだのは原文だろうか。それとも現代語訳だろうか。
そう思っている間にも、愛は話を進めていく。
「真利さんも読んだことがあるならちょうど良かったです。
真利さんはどの君が好みですか?」
突然の質問に、真利は一瞬口ごもる。そのような視点で見たことがなかったのだ。
「そうですねぇ……
愛さんは誰が好みとか、ありますか?」
「難しい問題ですね。みんな魅力的なので選びがたいです」
愛の答えに、真利はなぜかすごく納得してしまった。
続けて、恵にも訊ねる。
「恵さんの好みは誰ですか?」
すると、恵は一瞬言葉を詰まらせてからこう返す。
「僕は、花散里と末摘花ですね。
なんだか、他人とは思えなくて」
それはそうだろうなと、こちらも納得してしまう。
ふと、どうしてこのふたりの言葉にこんなに納得してしまうのだろうと疑問に思った。このふたりの女性の好みの話など、今までしたことがないのに。
それでも納得してしまったのだ。ふたりとも相変わらずだな。と。なぜそう思ったのかの理由を考えるけれども、全く思い当たる節がない。
不思議な気持ちに包まれながらパイを食べていると、あっという間にパイはなくなってしまった。
「……真利さん、今日は食べるの速いですね」
意外そうに愛がそう言うので思わずはっとする。
「あの、おいしいパイだったので、つい」
考え事をしていたことをごまかすようにそう言うと、恵が嬉しそうに笑う。
「それなら、たくさん食べてください。まだたくさんあると思うので」
「はい、ありがたくいただきます。
でも、お隣にも持って行きたいので後ほどですね」
すこし冷めたプーアル茶を口にしながら、窓から差す光を見る。
今日もこの世界は、光であふれているような気がした。




