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糜芳andあふた~  作者: いいいよかん
41/111

動乱編・・・終わりの始まりと、始まりの始まり・・・その1

この物語はフィクションです。


実在する人物・地名・組織・団体とは全くの無関係であります。


とりあえず新編です。


ダラダラと長くなりましたが、ご容赦を。

糜芳に拠る、糜芳的解釈・視点での黄巾の乱と周囲の顛末


糜芳が洛陽から徐州に帰って年明け早々、黄巾の乱の始まりを告げる序幕が開けた。


1月初頭、馬元義を始めとする太平道の信徒達が、「朝廷に対して大規模な反乱を企てている」と密告が有り、捕縛されて厳しい詮議(拷問)を受け、計画を自白した馬元義と信徒達は即日処刑され、司隷方面にいた信徒達も悉く捕縛されて、馬元義と同じ末路を辿った。


1月中頃、太平道による反乱計画を知った朝廷は、


「後漢朝廷に対して不埒な企てを考えている、不義不忠の輩を討伐する!」

公言、大々的に軍を召集する。


一方太平道の教主・張角も、馬元義達と司隷方面の信徒達からの音信が途絶えた事と、朝廷の公言を受けて計画が露見した事を察知、実行時期を前倒しで行う決意を固め、信徒達で構成された反乱軍を召集する。


そして、2月に張角は召集した信徒達の前で、


「蒼天既に死す!黄天正に立つべし!」

(後漢王朝はもう終わっている。今こそ我々の時代がやってきたのだ!)

宣言し、地元・冀州鉅鹿(きしゅうきょろく)郡に於いて挙兵。


張角に呼応して豫州汝南郡・穎川(えいせん)郡・荊州宛郡でも太平道信徒達が蜂起、反乱を起こした。


因みに宛は不明だが穎川は、たけのこのさ・・・もとい荀一族を始めとする名家連中と、張譲を始めとする宦官連中のメッカ(地元)で在り、汝南は四世三公・袁家のホームグランドで、どれだけ両派閥連中が、領民達が将来を絶望して太平道に救いを求める程、地元で苛政・暴政を敷き、恨み辛みを買っていたのかが如実に判る好例であった。


それはさておき、


黄天に合わせて、太平道信徒達は皆黄色の巾(頭巾・鉢巻き・バンダナ)を頭に着けていたことから、後漢朝廷から「黄巾賊」と呼称される事となる。


そして反乱を起こした黄巾賊に対して、朝廷・・・と言うよりは名家閥・宦官閥が行った対応は、ド素人の糜芳でさえ、


「コ、コイツ等ホンマもんの阿呆やろ・・・?」

二の句が告げない程の愚行・アホの極みであった。


1月から馬元義の処分及び、2月初頭の反乱に備えて兵を集めるまでは素早く適切な対応だったのだが、両派閥連中は、反乱討伐軍の司令官に名家閥は崔烈(さいれつ)、宦官閥は張純(ちょうじゅん)を推した上に、それぞれ派閥出身の若手将校を付けて意気揚々と派手な出陣式を行って、黄巾賊討伐に向かった・・・だのだが・・・。


この崔烈・張純、政治家としては実績があった一方、軍務経験が殆ど無い素人に近かった。


軍事的素養・経験が求められているのに、軍事素人の政治家をトップに据えるという、冬将軍がいらっしゃる北方の旧体制国家の独裁者が、軍隊がク一デタ一を起こすのを警戒して部下の政治家を、将軍・将校兼監視役として起用したのと同レベルの愚行を、両派閥共ナチュラルに行ってしまう。


まぁ、司馬懿・曹操の様に政治・軍事に長けた傑物も稀にいるので、優れた軍事的素養を持っている可能性は微レ存で無くもなかったが、当然両者共に持っていなかった。


それに加えて派閥出身の将校も、実力で軍将校になったと言うよりも、派閥のコネや実家の金で将校の地位を得た、必ずしも有能と言い難い者が多く、又ほぼ全員が経験不足でもあった。


トドメに上層部が高々農民反乱程度の、ボーナスステージ(自分達の出世・名声を得るチャンス)と安気に構えていた為兵士の士気も弛緩してしまい、俗に言う「驕兵(きょうへい)」((おご)って油断し、注意力が散漫になっている兵士の事)と化し、完全に物見遊山気分になってしまう。


将軍は軍務素人、将校は才能・経験共に乏しく、兵士は驕兵と化しているという、これでもかと悪条件を重ね、余りにも酷い軍容で黄巾賊に戦いを挑んだが、反乱を起こして後の無い、死兵と化した黄巾賊に当然の如く連戦連敗、満足に統制もとれずに潰走してしまった。


官軍としてピカピカの武装で意気揚々と出陣した浮かれポンチ達は、意気消沈して汚泥にまみれ、無様な敗残姿を以て帰還する。


結果、「官軍、賊軍に手も足も出ずに敗れる!」という情報が、「醜聞(スキャンダル)、千里を走る」の(ことわざ)が有るように、醜聞はあっという間に国全土に駆け巡り、様子見をしていた後漢王朝に不平不満を持っていた民衆が「後漢王朝恐るるに足らず!」と全国で蜂起し、盗賊達犯罪者もこれ幸いに便乗して暴れ回った。


そしてそんな切迫した状況を引き起こし、アホな人事(推挙)で中国史上稀に観る弱軍を作り上げたアホな両派閥連中達が、官軍敗走後真っ先に共に行った事は、危機感を持って協力して善後策や次善策を練ったのだった!・・・訳もなく、善良無垢な人々が理不尽な暴力や死に怯え逃げ惑う中、責任逃れと言う名の「蜥蜴の尻尾切り」だった・・・ド腐れな屑である。


前世のテレビ等のニュースでちょくちょく視た、肩書きと給料だけは一丁前に貰っているバッジを付けた職種の如く、両派閥のトップ、宦官の張譲・名家の袁隗は、


「「部下(秘書)が勝手に(推挙)しただけ、自分は把握してなかった。」」

部下を切り捨てて逃げ、それを観た崔烈・張純はそっくりそのまま真似て、


「「部下達(将校)が命令を無視して勝手な行動を取り、不覚を取りました!」」

本人達がその場に居ない事をいいことに、責任を全て将校達に擦り付けた。


本来なら幼稚園児でも言わない様な、ふざけた見苦しい言い訳が通じる筈も無いのだが、全く同じ見苦しい言い訳をした張譲と袁隗が、自己弁護を兼ねて擁護した為、その言い分が通ってしまい結局張譲と袁隗は無罪、指揮官の崔烈と張純は官職こそ没収されたものの、実質的にお咎め無しで済んでしまった。


上が上なら下も下と言うか、 上には上が下には下がと言うべきか・・・。


その反面推挙した人や従軍した将校達は悲惨を極め、推挙した人は「主上に恥を掻かせた」として改易処分(官職・官爵・財産を没収)されて庶民に転落、没落が確定。


従軍した将校達は、謂われのない冤罪(一部は敵前逃亡・抗命した奴もいたらしい)で裁かれ、崔烈達と違って弁明の余地も無く処罰されて、数多くの人が処断(死刑)された。


この様な顛末になった事で、民部・軍部双方に激震が走り軍部は、


「文弱共の巻き添えを食ってたまるか!」

赤くはないが彗星の如く凄まじい速さで、民部との距離を取って、両派閥からの軍部受け入れを拒絶。


僅かに生き残った派閥出身将校は、極一部(曹操等)を除き厄介者扱いにされて、軍部とは別管轄の羽林(うりん)虎憤(こほん)(皇帝直属の部隊で宮中警備や身辺警護を担当)に飛ばされ、出世や活躍の場を失った。


民部は民部で、「成功した手柄はトップのモノ、失敗した責任は部下のモノ」と言うジャ○アンも真っ青な状況になっている事に恐れ戦き、貝のように口を閉ざすか、言を左右に振って他人に投げて保身に努めた。


そうなれば当然の如く、両派閥が双方に推挙を押し付け合う事となり、刻一刻と情勢が悪化していく事を無視して事態は紛糾する。


流石に埒が明かない事に苛立った、白アン○ンマンこと霊帝は、他人事の様にボケ~っと側に突っ立っていた外戚(妻や母親の親族)の何進に視線を向け、


「何進よ勅命を発する!

お主を大将軍に任ずる故、軍を統率して朕に刃を向ける逆賊を討伐せよ!」

大将軍に任命して、事態の収拾に当たらせる事にした。


因みに急展開な上に、降って湧いたとばっちりに、


「うぇ!?はっ!ははぁ!拝命仕りました。」

何進はマジでこんな戸惑った返事をしたそうな。


さて、文字通り降って湧いた話で、大将軍になってしまった何進は頭を抱えてしまう。


「儂、商人の出で全く軍部連中との繋がり無いのだけど・・・どないせいと!?」

頭を抱えて懊悩する何進。


この何進さん、元々故郷では主に羊肉を扱う卸売業を営んでいた、糜家と同じく地元で有数の大手商家出身だった。


偶々近隣で評判の美人な妹が宮中に上がり、霊帝のお手つきになって長子劉弁を出産、宦官の手助けで皇后になったおかげで、外戚として立身出世を果たした人であった。


出自柄その辺の血筋・家柄や金持ちなだけの、馬鹿名家や強欲宦官よりは余程、経済観念・利害得失の感覚を持っていると自負している何進だったが、当然出自柄荒事とは全くの無縁で、ド素人だった。


「うう・・・宦官共とは対立関係になってるし、かといって袁家のボンボンは使えんし、名家も軍部から見放されて役に立たんし・・・。」

ああ・・・と、再び頭を抱える何進。


元々何進は妹が宦官の推挙で宮中に上った関係で、宦官閥にべったりだったのだが、袁紹を通じて接触して来た名家閥に乗り換えたのであった。


無論、「名家閥の首領・袁家に認められた!良し、名家閥に乗り換えよう!」などと言った浮かれた理由で名家閥に走った訳ではなく、キチンと利害を計算して決断した事なので、何進的にはその判断を誤ったとは思って居らず、正しい選択をしたと思っていたのだが・・・。


「予想以上に名家連中も馬鹿過ぎる・・・。」

三度(みたび)ため息を吐き、決断した事に揺らぎを感じていた。


そもそも名家閥に乗り換えた理由は、自分自身には甥で次代の皇帝に成る(予定)、劉弁を支えるだけの有力なバック(支持基盤)が無く、じゃあ後見勢力として名家と宦官を比較した場合にどちらが有力かと考えたら、名家閥の方が有力だと踏んだからであった。


この何進が判断した根拠としては、曹操の父・曹嵩が挙げられる。


大宦官と呼ばれ、宦官のトップに君臨していた曹騰の跡を継いだ曹嵩だったが、家名と財産は継承したが権力は継承出来ず、結果的に曹家そのものが権力の座から転落、見る影もなく衰えた。


コレは養子云々ではなく、曹嵩自体が曹操という実子が居るように、「真の意味で宦官(男性器切除した人)」ではなく、「宦官と深い繋がりがある人」という立ち位置になり、宦官閥の本筋を外れてしまい、傍流に自動的になってしまったからだ。


つまり宦官閥は、家柄や血筋に拠る権威・権力の継承が行われず、年功序列などに依る別個人に自動的に移譲されるという、非常に不安定な勢力なのである。


まぁ、それと張譲達の後釜最有力候補が、下っ端のペーぺーに過ぎない曹操と喧嘩をして、コテンパンにやられて張譲に泣いて助けを求めるという醜態を晒した、蹇碩(アレ)だったというのも後押しになったのだが。


その点名家閥は、四世三公の袁家の様に継承が行われ、余程の馬鹿を仕出かさない限り(今回の状態だと普通は死罪)、安定・安泰という強みがあった。


しかし・・・今回の一件で両派閥の権威・権力が失墜、特に軍部の民部離れが顕著化する。


軍部を掌握する為に金をばらまいて将校を送り出し、両派閥が徐々に軍部に浸食していたのだが、今回の件で派閥将校が軒並み処断された事で、軍部からの両派閥(文官)への不信感・嫌悪感は(はなは)だしく、只でさえ予算分配等でワリを食い続けていた軋轢(あつれき)もあった為、関係断絶状態となって両派閥共に、ほぼ軍部との繋がりを失う。


一応、袁紹と袁術は軍部将校の地位を持っては居たが、ジャ○アンも真っ青な状況を作り出した元凶の、身内に近づく自殺願望者など居るはずがなく、特級呪物並みの厄介者として観られ、某人造人間9号の如くマッハの速さで周囲から軍関係者が離脱。


そのまま迅速に軍部から虎憤にパージされ、軍籍も綺麗さっぱりとデリート。

元から居なかった扱いになっていた。


「うう・・・もうどうにもならん。

こうなったら、駄目元で片っ端から有力な将軍に召集を掛けてみるか。

それで応じないなら、大将軍権限を使って強制召集をするしかない・・・恨まれるよなぁ絶対。

全く、アホ玉無し共と馬鹿ボンボン共が・・・要らんことしくさりやがって・・・。」

ここぞという時に邪魔をする宦官閥と、1番頼りになるはずの名家閥が、1番足枷となって障害物と転化している実情に、眉間に皺を寄せてブツブツと呪詛を漏らしつつ、召集令状という名の丁寧で腰の低い招待状擬きを、せっせと書いていく何進であった。


そして召集令状を送って即日、


「「「何進大将軍閣下、賊討伐は我々にお任せを!」」」

軍部から名うての将軍として名高い、朱儁と皇甫嵩が召集に応じて馳せ参じ、今でこそ文官になっているが、異民族討伐で名を馳せた、文武両道に優れた盧植が自薦で訪れた。


思ってもみない大物が釣れた事実に何進は、


「え、ウソ!?ホンマに?あ、夢かコレ!?」

思わず自分の頬を抓ったそうな。


少しして現実なのを実感した何進は、大喜びで3将をそのまま黄巾討伐の司令官に任命、軍歴を考慮して朱儁を総司令に任じ、挙げて全ての戦略を委ねた。


そして3将が真っ先に何進に提言した事は、「党鈷の禁」の解禁であった。


名家専用の懲罰制度で、全く無関係かつ無関心の何進が、「え?何で?」と首を傾げながら確認すると3将は揃って、


「党鈷の禁によって多くの有能な人材が、冤罪で無為不遇を託っており、この国難に於いてその様な人材を遊ばすのは愚の骨頂です。・・・後、助けた形になる閣下に助けられた者達の支持と声望も得れますぞ。」

解禁の公的利点を説き、又個人的な利点も上げる。


「成る程、確かに・・・解った、主上に上奏しよう。」

3将の提言が自分の利になると判断した何進は、軍略は3将に委任して、主上に上奏する。


結果的に上奏が承認され解禁されると、派閥間抗争に巻き込まれて不遇を託っていた、多くの軍将校が自由の身となり、朱儁らは解放された有能な将校をヘッドハンティングして麾下(部下)に組み込み、陣容の充実を果たした。


又、民部側でも蔡邕などの宦官閥から敵視され、名家閥からは煙たがられた硬骨の士が赦免され、名家閥とは離れて(そもそも名家閥に見捨てられた人達なので、名家閥に怨みはあっても恩や義理が無かった)独自のグループを形成し、やがて何進と結び付く下地となった。


こうして人材を得た朱儁達は、素人の糜芳でも「あかんわ、コレ」と思うほどのグダグダな両派閥の軍勢だった為、歴戦の将である朱儁達は予め両派閥の討伐の失敗を見越し、来る有事に備えて密かに準備を整えていたらしく、素早く出陣準備(糧秣補給・部隊編成等)を終えて黄巾討伐作戦会議を行う。


朱儁が議長となり、皇甫嵩と盧植がそれぞれの戦略路線を述べる形で始まった会議は、


「先ずは一部の軍で賊の分隊を足止めし、その間に大半の軍を用いて、本隊の冀州黄巾賊の頭目・張角を討ち果たした後に、散った残党を各個撃破すべし。」

皇甫嵩の真っ先に張角率いる本隊を倒し、纏まりを失わせてから掃討すべし、とする本隊強襲論と、


「先ず一軍は冀州方面軍として、冀州黄巾賊本隊を足止め・牽制して侵攻を抑え、その間に残る一軍で宛・穎川・汝南に散る賊の分隊を討伐し、掃討しつつ冀州方面軍と合流、決戦すべし。」

先ずは地方分隊を潰して後顧の憂いを絶ち、残敵掃討しつつ合流して黄巾本隊と決戦すべし、という盧植の決戦論に分かれて、激論が交わされた。


双方に利点・欠点が有り、皇甫嵩の作戦は短期決戦で決着が付き、黄巾賊の分隊討伐が楽になる利点がある反面、本隊が壊滅して逃げ散った賊徒が、細分化して盗賊行為が国内のあちこちで散発し、討伐が長期化・困難になる可能性を孕んでいた。


又、盧植の作戦は予め分隊を始末する事で後方の安全を確保し、敗走した分隊の賊徒も本隊に合流する輩が多いと見込まれ、後々の残敵掃討が楽になる利点がある反面、時間経過と共に賊徒に組する者が増加したり、敗れた分隊の賊徒を吸収したりする事で、冀州本隊が膨れ上がって官軍を数で上回ってしまい、数上の不利になる危険性が高かった。


皇甫嵩・盧植がお互いの持論と、お互いの問題点を指摘して議論を交わしているのを聞いていた朱儁は、盧植の作戦を支持、2対1となって多数決により盧植の決戦論が採用され、その作戦に沿った軍事行動の議論に入る。


結果、冀州方面軍は官軍の約半数を率いる事となり、冀州の隣、(ゆう)州出身(因みに劉備(キ○グボンビー)と同州・同郡・同県)で地理に明るく、同郷心に依って幽州地方名家の協力・援護を得やすい盧植が司令官として指揮を執り、皇甫嵩・朱儁がそれぞれ官軍を又半分に割って率いて、先ずは宛・穎川方面に蔓延っている黄巾賊分隊を討伐する事に決定する。


因みに門外漢の何進は、一応名目的に軍議に参加していたが、ボケ~っと座って観ているだけであった。


こうして3将は、3月の頭には作戦通りそれぞれ約20万の官軍を分けて出陣、中頃には朱儁と皇甫嵩が宛・穎川方面の黄巾賊分隊と交戦に入った。


当初こそお互いの連携プレーが上手くいかずに敗れ、籠城を強いられる事もあったが、徐々に劣勢を盛り返して反撃に転じ、朱儁には同じ揚州出身で義勇軍を率いて孫堅が、皇甫嵩には洛陽から増援として曹操がそれぞれ馳せ参じ、若き英傑達の活躍もあって穎川方面の黄巾賊分隊討伐に成功、宛方面の黄巾賊分隊を孤立化する事にもなった。


4月~5月、余勢をかってそのまま残敵掃討しつつ、2手に分かれて、朱儁は孫堅と共にそのまま宛方面討伐に、皇甫嵩は曹操と共に冀州方面に向けて、汝南の黄巾賊分隊の討伐に着手した。


因みに劉備は、三国志演義に書かれている様な派手なデビューをする事も無く、地元で白い目で観られながら義勇軍(実態はヤーさん紛いのチンピラ集団)を結成、長髭ジャ○アンと虎髭ス○夫を率いて、OとNに話題を穫られたレジェンドキャッチャーの神監督の如く、月見草の様にひっそりと地味なデビューを飾った模様。


一方、冀州方面軍司令官として官軍10万の兵を率い、黄巾賊本隊約20万と対峙した盧植は、現状文官だった事も有り、軍部との繋がりが希薄だった事で現場指揮官(将校)の不足を朱儁達に懸念されていたが、大胆な方策でその問題点を解決していた。


その方策とはこの盧植さん、文武両道に長けているだけでなく、学者としても高名な人物で(劉備(キ○グボンビー)も一応名ばかりだが弟子だった)自分の学閥を持っており、大勢の弟子達の中から無名・有名に関わらず、武勇に秀でた者や軍事知識・軍務経験に長けた弟子達を自軍の将校に抜擢、文章や計算に長けた弟子達をそのまま軍政官に抜擢して、人材面の問題を質量共に解決する事に成功していたのであった。


半分師匠の盧植に、巻き込まれた形になった弟子達だが、自身の才覚を認めて抜擢してくれた、第3の親と謂われる師に恥を掻かせまいと奮起奮闘。


そして同じ学閥出身である為、上下関係等の秩序が正常に作動し、お互いが知人・友人という間柄も有って連携プレーも最初は不慣れで齟齬があったものの、どんどん日に日に円滑になり、上手く軍団の動きが良化して、倍近い黄巾賊本隊に対して一進一退の攻防を展開し、徐々に勝ちを積み重ね、敵の本拠地・広宗に迫り包囲するという大手柄を立てた。


又、何気に何進も元食品卸業という昔取った杵柄を利用して、食糧調達・輸送を絶えず支給するという絶妙なバックアップをしており、3将の活躍に裏方として貢献していた。


こうして3将の活躍により黄巾賊の侵攻が止まり、寧ろ逆襲に転じて黄巾賊討伐が進む事となる。


このまま順調に黄巾賊討伐が上手く行くかと思われた矢先、愚行と阿呆さ加減には定評が有る宦官・名家連中達が騒ぎ始めた。


当初は何進達を、


「「フン、田舎将軍と肉屋風情が手を組んだ所で何ほども出来まい、無様を晒すのが目に見えるわ。」」

自分達の事を棚に上げ嘲笑し、せせら笑いを浮かべていた両派閥達だったが、案に相違してトントン拍子に黄巾賊討伐が進んでいく。


「「や、ヤバい。このままだと、手柄と功績を全て奴らに持って行かれるぞ!?

・・・よし!彼奴(あやつ)等の粗探しをして失脚させて、手柄を横取りしよう。」」

両派閥共に、こういう行為だけは一致団結して足を引っ張る事を決意、軍使だの勅使だのと銘打って職権を悪用し、3将軍を粗探しで失脚させるべく派遣する、というゲスっぷりを発揮。


獅子身中の虫とは、彼等の事を的確に表現している言葉と言えよう。


6月、両派閥による最早利敵行為とも呼べる卑劣な罠に、朱儁と皇甫嵩は華麗に回避・・・と言うか散々今までに賊討伐の際にやられた常套手段だったので熟知しており、引っ掛かる筈もなかった。


しかし、地方での戦闘経験者ではあったが、中央の薄汚い遣り口を知らず、本人も清廉かつ剛直者だった盧植は引っ掛かってしまい、勅命で査察に来た左豊(さほう)という宦官に賄賂を要求され、それを顔を真っ赤にして猛抗議した為、主上を侮辱したとして更迭されてしまう。


その為に盧植率いる冀州方面軍は、周囲の後援や弟子達の献身的努力により、徐々に黄巾賊本隊を追い詰めつつ有ったのに、更迭されて指揮官不在となって戦況は後退、元の木阿弥になってしまった。


そして、どう考えても売国奴的策略で盧植を更迭した張譲達宦官閥は狂喜し、さぁ後任を押し込んで手柄を横取りしようとした時に、豫州刺史の王允が、


「張譲及び他2名が、黄巾賊に内通した証拠を発見!

張譲達は国家を裏切っている売国奴だ!!」

張譲達が黄巾賊と内通していた証拠を携えて上訴、大スキャンダルになる。


張譲は自派閥の幹部だった、他2名を切り捨てて逃げを打ったが、他2名の自白もあって逃げ切れず、冠を取って霊帝に謝罪、財産の殆どを献上する事で赦免され、首の皮一枚で何とか生き延びたのであった。


結果地位は保てたものの宦官閥の筆頭から転落、自派閥も幹部ですら切り捨てた事で、多くが次席の趙忠に走り大幅に衰退化し、趙忠が宦官閥筆頭になり、次席が蹇碩になるという大変動になった。


因みに張譲を失脚に追い込んだ王允さん、ドヤ顔で名家閥に自分の功績をアピールしたのだが、名家閥からはガン無視される。


そもそも名家閥連中からは、「田舎者のポッと出が、自分達と肩を並べるなど烏滸(おこ)がましいわ!」と軽蔑されていた。


その上に、王允が有能さをアピールすればするほど、「(無能な)自分達の立場・地位を脅かす、危険な存在」という認識をされ、ますます嫌厭(けんえん)されている事に王允自身が自覚が無く、名家閥の悪意・悪感情に気付いていなかった。


結果、乱の終息後宦官閥から反撃を受け、


「豫州刺史で有りながら、未然に黄巾賊の動向を把握せず、被害を拡大させているのは、職務怠慢である!」

讒訴され更迭された時も、名家閥は無視して助ける事は無かった。


この辺の周囲の空気の読めなさと、自己主張が強い事が、後年の董卓の時に悲劇を起こす事になるのだが。


それはさておき、


宿敵だった張譲が没落したのを、腹を抱えて笑っていた名家閥の筆頭・袁隗は、混乱状態の宦官閥を尻目に、自信満々に後に「後漢の魔王」と称される、異民族戦で100戦以上の戦歴を持つ、歴戦の雄・董卓(とうたく)を盧植の後任に推挙、何進にねじ込んで承認させる。


7月、袁隗に推されて冀州方面軍司令官に赴任した董卓だったが、盧植と正反対に連戦連敗、多数の死傷者を出し、どんどん戦線後退。

折角追い詰めていたのに、黄巾賊を活発化させ、寧ろ逆に追い詰められる羽目になった。


あまりに無様な惨敗を繰り返す董卓に、推挙した袁隗本人が激怒して権力を使って解任し、責任を全て董卓に押し付けて、当の袁隗は無責任に逃げ出した。


どうやら自己中かつ軽率、無責任なのは袁紹独自ではなく、袁家の伝統芸だった模様。

四世三公という家柄が生み出したモノであった・・・こうして袁隗は無自覚に董卓との負の因縁を作り、後にしっぺ返しを食らうのだが、さぞかし董卓さんは満面の笑みで、袁隗の首をはねた事と思われる。


それはさておき、


袁隗の身勝手で任務を押し付けられ、責任まで押し付けられた董卓は、大金を持って何進の元を訪れて助命嘆願し、助けられて何進と(よしみ)を持つ事となる。


この一件で今までの名声を落とし、酷評された董卓だったが、かなり同情の余地が有った。


董卓が主に戦った匈奴は遊牧民族で、騎兵を主体とする敵だった為、董卓配下も当然騎兵を中心とした軍団だった。


つまり縦横無尽に駆け回る騎兵による機動戦を得意とする武将に、鈍重な歩兵を任せるような不適正な戦闘を強いらせたのである。

現代で言えば空軍の戦闘機指揮官に、陸軍の歩兵団の指揮を任すのと同義であった。


又、兵の質自体が違いすぎたのも原因だった。


董卓が率いている涼州兵は、常に匈奴の脅威に晒されている土地柄、幼い頃から剣をとり弓馬に親しみ、武芸を磨くのを当然とする精強な兵なのに対し、官軍といっても精々司隷周辺の賊退治や、(へい)州・幽州・涼州の精兵達が蹴散らした後の、異民族の残敵掃討という露払いをした事がある程度の、董卓からすれば非常に弱兵だったのである。


董卓配下なら当たり前に出来る事が出来ない、言わずとも動く事が動かない、言っても動けない、といった深刻な齟齬が発生し、冀州方面軍からも、「董卓将軍は無理・無茶な指示ばかりを出す」と不平不満を持たれ、ますます相互の隔たりが生まれ、惨敗を繰り返す事になったと思われる。


中世日本で例えれば、最上位兵種の殺マニア兵(薩摩隼人)から、最下位兵種の尾張兵(日の本一の弱兵)に互換された訳である。

絶望的に無理ゲーに決まっていた。


8月、こうして宦官閥の讒訴、名家閥の横槍で2度に渡って冀州方面軍司令官が不在となる事態となり、再びキレた霊帝は勅令を発し、豫州方面の黄巾賊討伐と掃討を終えて、冀州の南隣の兗州(えんしゅう)で黄巾賊討伐を終えたばかりの皇甫嵩を後任に指名、休む間も無く勅命に従い冀州に赴く皇甫嵩であった。

・・・超絶ブラック職場である。


9月、兗州から冀州に入った皇甫嵩は、軍団の再編成を行い、盧植配下の弟子達に、数万の元々の冀州方面軍を遊軍として任せ、残りの兵は自分の直轄として編成、何故か動きが鈍くなった黄巾賊と交戦を開始する。


実はこの時黄巾賊側は、深刻な食糧不足に陥り、満足に飯も食えずに弱体化していた。


それと言うのも最初期に、馬元義達が処刑された事が大きな要因だった。


この馬元義は元々結構な大店の商人だったらしく、黄巾賊の各方面の連絡役以上に、物資調達の統括責任者でもあったのだが、配下と共に処刑された為に物資調達の関係者が根刮ぎ居なくなってしまっていた。


結果的にマトモな補給路が確保出来ず、周辺地域を略奪して補っていたのだが、そうなれば当然地域住民達は逃げ散るか、同調して反乱に加わるかの2極化して、誰も耕作する事なく田畑は荒れて放置され、遂には略奪するモノ自体が無くなり、飢えてしまった次第であった。


それともう一つ、黄巾賊の首領である張角が危篤状態に陥っていたのが、黄巾賊の動きが鈍くなった要因である。


張角が危篤状態になった事で、黄巾賊内で纏まりが喪失し、穏健派と強硬派が意見の相違で激突、内部分裂を引き起こし、黄巾賊本隊が混乱状態にあったのだ。


10月、みるみる弱体化する黄巾賊相手に皇甫嵩は、快進撃を続けて張角の兄弟で副将だった張梁を討ち取り、本拠地・広宗を攻撃して陥落させる。


この時既に死亡していた張角の遺体を晒し、トップの死亡を周囲に知らしめる事で、黄巾賊は完全に纏まりを失い組織が崩壊、離散する。


同時期に宛方面討伐をしていた朱儁も、黄巾賊宛方面分隊を滅ぼし、鎮圧した。


そしてかろうじて組織として残っていた、もう1人の副将・張宝も皇甫嵩が討ち取り、黄巾の乱は平定されたとされ、終息宣言が為された。


こうして1年足らずで終わったとされる黄巾の乱だが、実際は依然として残存しており、完全に鎮圧された訳でなく、白波賊だの黒山賊だのと名を変え場所を変えて、後々色々な所で活動する事となる。


そしてこの乱は、後漢王朝にも色々な変化・影響を齎した。


例えば中央=洛陽では宦官閥・名家閥が、それぞれが観るに耐えない醜態・痴態を世間に晒し、己達自身の無能力と有害性を満天下に喧伝して大いに名を落とし、地方・中央軍部を中心に地方名家連中からも愛想を尽かされた。


その上に、何進が両派閥と違ってキチンと成果を挙げた事で、何進に対する世間の評価が急上昇。


挙げ句に両派閥が愚行を繰り返した結果、皇甫嵩・朱儁を始めとする軍部との繋がりが出来て、軍部の支持を得た事で、黄巾の乱前には何進が持っていなかった、支持基盤まで提供するというアホの極みを行い、盛大な自爆をかましていた。


ついでに、党鈷の禁を解禁した事で両派閥が罠に嵌めたり、見捨てた連中がこぞって何進に付き、政治面でも充実させるというオマケ付きで有った。


これにより人間関係にも変化が生じ、乱前までは何進が、名家閥のパイプ役で有る袁紹にヘイコラしていたのだが、逆に現在は軍部のパイプ役である何進に、袁紹がヘイコラする状態になっていた。


理由としては何進自体が外戚で、元々皇帝とのパイプを持っていたし、政治面の弱点も党鈷の禁の解禁で多くの文官を得た事で、家柄と血筋だけの最早落ち目の名家閥を頼る必要性が全くなくなったからである。


それ故に逆に袁紹が、名家閥に於ける現状唯一と言っても過言では無い、何進と何進を通じて軍部との繋がりのある人物となってしまい、パージされれば自分と派閥の将来が無いと理解している袁紹は、必死にゴマをすってすり寄って居るので有った。


宦官閥も宦官閥で愚行を行い、利敵行為まで及んだ事で、宦官閥の権力の源泉である霊帝から不信感を持たれ、衰退化。

寵が外戚の何進に徐々に移行していた。


又、軍部の繋がりも唯一、乱で活躍した曹操ぐらいしか居らず、曹操に対しては宦官閥のトップになった趙忠でも、一定の遠慮会釈をしなければならない状態になっていた。


曹操の存在価値、爆上がりである。


結果的に両派閥共々、大量のオウンゴールを決めてしまい、全くのダークホースだった何進を新興勢力化させて、三つ巴・三竦み処か何進一強状態に押し上げるという怪奇現象を引き起こす事となる。


・・・本当に何がしたかったのか、理解に苦しむアホ集団であった。


そして地方=地方名家と地方軍閥と言えば、中央の身勝手さとアホさ加減に、危機感を持つと同時に愛想を尽かし、


「彼奴等に頼っても無駄だ!

自分達の身は自分達で守らないと・・・。」

積極的に州・郡・県の兵を好待遇を提示(両派閥の推挙で私服を肥やす、ロクデナシの屑しか殆ど赴任して来ず、兵士達に給料未払いが多発していた)して、取り込んで私兵化していき、武装化して豪族と化していった。


こうしてドンドン豪族化していき、州牧制度が定められた頃には、日本の戦国期の如く豪族同士が殺し合って領地を奪い合う、戦乱の時代になっていった。


・・・・・・因みに、何故これ程の情報を糜芳が詳細に知り、把握していたかと言うと・・・


「如何ですかな?糜芳導師。

我々浮屠の情報網は、糜芳導師のお役に立てると思うのですが?」

「いや、マジで凄い。怖いぐらい。

マジでお宅等と関わりたくないんだけど・・・。」

ニコニコと凶相に笑顔を浮かべる笮融(さくゆう)=浮屠からの使者からの情報提供が有ったからであった。


                     続く





























え~と、補足です。


大まかな流れを理解して頂きたく、このような形式で書かせて頂きました。


表現力が乏しくて申し訳ありません。


一応窄融というキャラは、三国志でもチョロッと登場しており、熱心な仏教徒(浮屠)であったと記述されている事から、田舎の徐州に引きこもる(予定)の、糜芳の便利な情報ソース役として登場させました。


前々回に浮屠の坊さんを絡ませたのは、この伏線の為のモノであったのです。


後、黄巾賊討伐に関しては、多分に自己解釈が含まれておりますので、悪しからず。


長々とすみません。


楽しんで読んで頂けたら嬉しいです。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 名家がしっかりとアホ認定制度されていることと何進がしっかり評価されていること [一言] 個人的にはですが名臣4人の中でも盧植は確実に名家的なアレ側な存在だと思います 理由としては将なら何よ…
[一言] 何進大将軍、出来ないこと(軍事指揮)は出来るやつに丸投げ。出来ること(陛下への上奏・平坦補給確保)は己の出来る範囲でやる 実はコレが出来る偉い人って、なかなか居らんのよね どっかのルーピ…
[一言] 何進はなー、個人的には魏延、曹操、淳于瓊並の演義被害者感。黄巾後の反乱も色々あったがそれでも更迭されず大将軍やれてるから無能とは言い難いだろ。と
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