fragile 5
~北条~
悠香が退院した翌日から3日間、今西家には連続して来客があった。
1日目は門馬。
2日目は原沢と江藤と田嶋。
最後に国枝と野口。
彼らはそれぞれに、悠香が好きだと言っていた花やらケーキやらを持参し、悠香も腕によりをかけ手料理を振舞った。
最初こそ、落ち着かなさげに俺の服をキュッと握り、ぎこちない笑顔で受け答えしていたが。
しかし自宅という最大のテリトリーにいるせいか、人見知りはじきに治まった。
特に国枝とは完全に打ち解け、国枝の方もいつもの無口な彼女からは想像もできないほど悠香と話し込んだ。
家にやってきた誰もが、初めて食べる悠香の手料理を褒めちぎった。
実際、彼女の手料理は文句なしに美味い。
とはいえ俺は退院した日の晩、悠香が料理を作ると言いだした時、密かに彼女が料理をもしくは以前の味付けを忘れてしまっていたらどうしよう、と心配した。
何を出されても「美味い」と食べて見せる自信は勿論あったが、敏感な悠香の事だ。
微妙な表情の変化から事情を察し、落ち込まないとも限らない。
しかしながら、出された料理は以前と全く同じ味付けで、心配は杞憂に終わった。
そんな事を考えながら悠香の横顔を見つめると、視線に気付いた彼女がにこりと笑みを返してくる。
「…ゴチソウサマです」
そんなつもりは無かったのだが、見せつけるなと口々に文句を言われ、悠香の手料理をほぼ毎日独占していた俺は、羨望の眼差しで見つめられた。
そこで敢えて胸を張って自慢すると、悠香は以前と同じように「恥ずかしいからやめてください」と真っ赤な顔で囁くように言った。
その場の雰囲気だけ見れば、以前と何1つ変わらない「いつも」の風景なのにな。
話の弾む悠香に代わって冷蔵庫にビールを取りに行き、彼らの後ろ姿を見つめながら口元を歪める。
何1つ変わらないように見えるのに、決定的に違うものが1つだけある。
「…智、さん?」
視線を察知した悠香が振り向いた瞬間、俺は表情を苦笑から微笑に変えた。
酒が進むと彼らは自分達が知る「今西 悠香像」を熱く語った。
そして皆のマドンナであった悠香を落とす為、どれ程俺が苦戦したか(余計なお世話だ)そして2人が互いをいかに思い合っていたか力説した。
門馬などはどさくさにまぎれて悠香が好きだったと打ち明け、俺に散々絡んだ。
悠香も時折恥ずかしそうに俯いたりするものの、終始にこやかに人々の話に耳を傾け、楽しそうにしていた。
けれど日を重ねるごとに悠香が自分を責め、眠れぬ夜を過ごしている事に俺は気付いていた。
退院した日の晩別々に眠るつもりでいた俺は、しかし悠香の強い懇願で彼女の隣りに潜り込んだ。
そう広くもないセミダブルベッドの上で、しかも惚れた女をその腕に抱いて何もしないで眠るなど、はっきり言って苦痛以外の何者でもない。
しかもまるで煽ってでもいるかのように、悠香はキャミソールにホットパンツと言うごくごく露出の多い薄着でぴったりと身を寄せてくる。
無論、悠香は拒んだりはしないだろう、と言う妙な確信はあった。
しかし…俺は鋼鉄の忍耐力とありったけの理性を総動員して眠りについた。
親しかった同僚と会い話をする事が、もしかしたら何か思い出すきっかけになってくれるかも…という思惑は見事に外れてしまった。
悠香は表面上は穏やかだが、内心はひどく落ち込んでいるらしく、少し情緒不安定になっていた。
自分の事なのに何も思い出せない事にひどくイラつき、自分の頭を拳で叩く事もたびたびあった。
「どう…して?」
「悠香…」
「どうして忘れてしまったの!
どうして何も思い出せないの?
どうして…」
何度も何度も、幾度となく両手で自分の頭を叩く悠香。
「やめるんだ」
気遣うように見つめたが、悠香は悲鳴のような声で叫んだ。
「だってあなた、私に触れようとしないじゃない!
どうして私に触れてくれないの?
どうして抱きしめてキスしてくれないの?
私があなたの事を覚えていないから?
智さんって呼ぶから?」
痛くないように、けれどしっかりと両腕を掴み、そのまま抱き寄せると悠香は腕の中で小さく息を呑んだ。
——あぁ、そうか。
悠香は、俺が自分からは触れない事に気が付いてたんだ。
そうだよな、スキンシップ過剰なんて言っときながら距離置いてたの、俺の方だもんな。
今更ながら、そんな自分の迂闊な行動が余計に悠香を追い詰めていたのかと、自分に腹が立つ。
抱きしめる腕に力を込め、彼女の耳元で囁くように言った。
「こうしていると、歯止めがきかなくなるんだ。
今でも十分過ぎるほどヤバいんだ。
もうメチャクチャにしてしまいそうになる 。
けれど、記憶がない君にそれをするのは…嫌われたくないんだ。
でもそんなの言い訳だよな、ごめん」
自分でも可笑しいくらい心臓がバクバクいってる。
「…メチャクチャにしてくれていいのに」
悠香の台詞に今度は俺が息を呑んだ。
「正直何もまだ思い出せない。
けれど1つだけ分かった事があるの。
私はあなたのモノ。
そしてあなたは私のモノ。
キライになったりするなんて、出来る訳がないと言う事」
その言葉に、思わずきつく抱きしめていた。
~悠香~
退院した翌日から3日間、我が家には連続して来客があった。
あらかじめ、智さんから職場のごくごく親しかった連中が、見舞いがてら遊びに来るとは聞いていたのだけど…。
初対面ではないけれど、それでも記憶にない「同僚」に会うという事は、少なからぬ緊張を私に与えた。
1日目は門馬さん。
2日目は原沢さんと江藤君と田嶋君。
最後に国枝さんと野口君。
彼らはそれぞれに「私」が好きだと言っていた花やらケーキやらを持参し、私も腕によりをかけた手料理を振舞った。
自分が好きだった物…。
確かに綺麗な花束だったし、ケーキもとても美味しかった。
けれど、やっぱり何も思い出せない不甲斐ない自分に胸がざわめく。
そんな内心を押し殺して、精一杯愛想良く笑ってみせる。
智さんと対面した時に感じた「懐かしい」と言う感じは、正直彼らには感じなかった。
けれどそれでも、ものの数10分でかなり打ち解ける事は出来たと思う。
特に国枝…那月さんには完全に打ち解け、男2人を尻目に長い事話し込んだりもした。
家にやってきた誰もが、私の手料理を大げさなくらい褒めちぎった。
実際そんなに不味くはない筈だけど…そんな大げさに褒めてくれなくても、と照れてしまったほどだ。
とはいえ。
実は退院した日の晩、智さんに自分が料理を作ると言ったものの、以前の味付けを忘れてしまっていたらどうしよう…と密かに危惧したものだ。
彼が覚えている以前の私が作った料理と、今の私が作る料理がもし違っていたら…?
智さんの事だから、どんなに不味くても顔色一つ変えずに平らげてからにっこりと
「美味かった」
と言ってくれる…気がする。
けれど彼が1口食べたところで、どうしても聞かずに入られなかった。
「…美味しい?」
「そんな新婚さんみたいにじっと見つめられると、食べにくいんだけどなぁ。
でもまぁ相変わらず悠香の料理、美味いよ」
少なくとも、お世辞とか慰めが入ってるようには聞こえない彼の声音にホッとして、私も箸を取った。
皆でわいわいと飲むのは、どうやら思ってた以上に好きらしい。
大丈夫かと言いたげな智さんの視線に気付き、にこりと微笑むと
「…ゴチソウサマです」
ボソリと原沢さんから言われ、そんなつもりはなかったのにと少々焦る。
けれど彼らの矛先は、すぐに智さんへ向かった。
見せつけるなと口々に文句を言われた彼は、逆に堂々と胸を張り
「羨ましかろう」
と得意気に見回した。
そんな智さんを彼らは呆れ顔で見つめ、次いで私の真っ赤な顔をやや同情した様子で見比べた。
「そんなあからさまに見せつけんなよな、おっさん。
可哀相に、悠香さん真っ赤じゃねぇか」
「おっさんじゃない!
て言うか江藤、お前いい加減年長者に対する口の聞き方覚えろよな」
突如始まった口論に目を丸くした私に、当事者でもないのに何故か済まなさそうに頭を下げる田嶋君。
「気にしないで下さいね悠香さん。
いつもの事なんで」
隣りで原沢さんが江藤君の耳をギューっと引っ張っている。
思わず笑みがこぼれた。
お互いを素直にさらけ出し、想いあっているらしい原沢さんと江藤君が心の底から羨ましかった。
* * * * * *
3日目那月さんと話し込んでいた時、ふっと視線を感じた。
振り向くと智さんが笑顔で私を見つめている。
けれど私には、直前、智さんが浮かべていた悲しそうにも見える苦笑がはっきりと見て取れた。
心の中で何かがまた悲鳴をあげる。
それから後は一体どんな話だったのか、全く覚えていない。
ひたすら愛想笑いを仮面のように顔に貼り付け、智さんの方を見ないようにして過ごした。
那月さん達が帰った後、私はどこにもぶつけようのない感情を持て余していた。
結局、同僚達と会って話をしても何も思い出す事は出来なかった。
自分の事なのに、何1つ思い出せない事にひどくイラつく。
やり場のない感情のまま、私はこぶしを自分の頭に打ちつけた。
「悠香!」
智さんの制止の声も聞かず、何度も何度も叩く。
——正直、手加減なしに叩いているので結構痛い。
けれど…こんな痛みで思い出せるものなら思い出したい。
「私」が智さんを愛していたという記憶を。
どう接すれば智さんが喜ぶのか。
どうすれば智さんが心から笑ってくれるのか?
思い出したい、全てを。
取り戻したい、この人の笑顔を。
そんな私の両手を俺は痛くないように、けれどしっかりと智さんは押さえた。
「やっ…放して」
「いやだ」
キッパリと言い、智さんは心配そうに私を見つめる。
けれど今はそんな眼差しさえ辛かった。
「だってあなた、私に触れようとしないじゃない!
どうして私に触れてくれないの?
どうして抱きしめてキスしてくれないの?
私があなたの事を覚えていないから?
智さんって呼ぶから?」
最後は悲鳴のようになってしまった。
感情が昂ぶりすぎて涙が溢れたが、じっと智さんを見つめる。
何も思い出せなくとも、この恋心だけは消せようもない。
記憶が無くとも、何も思い出せなくても…心が覚えている。
彼を愛している事を。
そんな私の両腕を掴み、智さんはそのまま抱き寄せた。
思いがけない彼の行動に腕の中で私は息を呑んだ。
「こうしていると歯止めがきかなくなるんだ。
今でも十分過ぎるほどヤバい。
もうメチャクチャにしてしまいそうになる。
けれど、記憶がない君にそれをするのは…嫌われたくないんだ。
でもそんなの言い訳だよな、ごめん」
掠れた少々心許なさ気な声で囁かれる。
彼の言葉を裏付けるように押し付けられた胸から、異常に早い鼓動が聞こえてくる。
「…メチャクチャにしてくれていいのに」
私の台詞に今度は智さんが息を呑む。
「正直何もまだ思い出せないけれど、1つだけ分かった事があるの。
私はあなたのモノ。
そしてあなたは私のモノ。
キライになったりするなんて、出来る訳がないと言う事」
言った途端、息が止まるかと思うほどきつく抱きしめられた。




