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fragile 3


ドアを開けるとそこには不安と怯えを滲ませた悠香がいた。


「悠香…?」


「……誰?」


予想していた事とはいえ、実際にそう聞かれるとやはり心の奥底が冷える。

あれほど覚悟を決めてドアを開けたというのに、現実に直面した途端に足が震えそうになるのを意地でも堪える。



案の定、悠香の俺を見つめる目は打ち解けたものではなかった。

見知らぬ他人に親しげに名前を呼ばれた落ち着かなさが、すぐに思い出せない事を悔やむ表情に代わる。



「俺は北条 智。キミの…恋人だ」


出来る限り落ち着いた声を出そうとしたが、微妙に掠れていたのは仕方ないだろう。


悠香の目が大きく見開かれ、次いで今にも溢れそうなくらい涙が盛り上がる。


「…ごめんなさい」


か細い声で謝られた。



そのやるせない声にこっちが慌てる。

俺は悠香を泣かせたい訳でも落ち込ませたい訳でもない。

そんなつもりでこの場にいる訳ではないのだ。


「謝らなくていいんだ。

悠香のせいじゃない」


目尻から溢れた涙を拭おうと彼女の頬に触れると、悠香はビクッと身体を震わせた。


「何もしない。

涙を拭うだけだから落ち着いて」


親指で涙を拭うが、次から次から溢れる涙に諦め、悠香の頭を抱き寄せる。

腕の中で悠香は大人しく涙を流した。



「まぁ…。

彼女、医師にさえ触れられるのを嫌がったのよ。

とても恐がるのを、何とか宥めすかしてやっと検査をしたの。

でもあなたなら大丈夫なのね」


破顔しながら教えてくれる婦長に軽く頭を下げる。


「お邪魔虫のようだから行くわ。

何かあったらナースコールを押してくださいね」

と婦長は出て行った。



自分が「何者」なのか分からないという事は、俺が漠然と感じているより100倍も不安なのだろう。


自分が知らない誰か。

その誰かは自分の事を知っていて「悠香」と呼ぶのに…。

大切な人だったのかもしれないのに。


何も思い出せない歯痒さ、悔しさ、もどかしさ。

不安と言う名の底の見えない泥沼に沈んでいくような、そんな気持ちなのかも知れない。


今の悠香には何を言っても酷なだけだ。

悠香の包帯の巻かれた痛々しい頭を見つめながら、その背を撫で続けた。



「…不思議」


「何?」


「あなたの事…何も思い出せないのに、でもなんだかとても懐かしい…気がする」


鼻をグズグズ言わせながら悠香はポツリと呟いた。


「無理に思い出せなくても良いさ。

だけど懐かしいって事は、覚えてたって事だろ?

そうだとしたら嬉しいな」


営業用の作った笑顔ではなく、自然と笑う事ができたせいか、キュッとシャツが握りしめられる。



今はそれだけでも十分だと、いつか全て思い出してくれる日が必ず来るのだと、俺はそう思う事にした。


  * * * * * *


見つかったのが金曜日だったおかげで、俺は週末ずっと悠香の側にいる事が出来た。


2日間、俺は朝1番に病室へ顔を出し、婦長の計らいで特別に消灯時間過ぎて彼女が完全に寝付くまで一緒にいた。

その間、悠香の症状に格段変化は見られなかった。


ただ前もって聞いてはいたが、悠香は見事なまでに俺以外の全ての人間に触れられる事を拒否した。



それは傷ついた小動物が自分を傷つけた人間達に怯える様子にも似ていた。

絶えず周囲を警戒し怯え、差し伸べられた手を振り払う。


声をかけられただけで竦みあがり、迂闊に大きな物音を立てようものなら、全身で怯えを表した。

必要に迫られてナースが触れればたちどころにその手を振り払い、ひどい時には布団に隠れてしまう。


いくら宥められても懇願されても、悠香は泣きそうな顔をするばかり。

しかし頑として態度を改めようとはしなかった。


そんな様子に困りきったナース達は、彼女の診察に俺が立ち会うよう依頼した。

俺が手を握っていれば、少なくとも悠香が暴れたり逃げ出したりする事はない、と言うのが理由だった。



「本当に申し訳ありません、北条さん。

かといって嫌がる今西さんを、無理やり縛り付けて診察する事も出来ませんし…。

私共の力不足でご迷惑をおかけします」


と深々と頭を下げる婦長に、俺は苦笑を返した。



鳥の雛は孵化して初めて見た者を親と思うのだそうだが、まさしく今の悠香はそんな状態だった。


まるで後追いをする人間の赤ん坊のように、俺の側から離れない。

所用でやむを得ずほんの少し席を外しただけで、今にも泣きそうな顔する。

いつもどこかが触れていないと落ち着かないらしく、絶えず俺の手をしっかりと握りしめている。


だからだろうか。


周囲に怯え縋りついてくる悠香を守らねば、と義務感にかられたのは。


悠香だからというよりは、無垢な赤ん坊を無条件で守りたいと思うのと同レベルの感情で

あるような気もするが、とにかくトイレ以外は何をするのも一緒だった。


もしかしたらそれはある種の「庇護欲」だったのかもしれない。



それに…彼女は生きて俺の目の前にいる。


記憶はなくしてしまったようだが、幸いな事に嫌われた訳ではない。

記憶の戻る可能性もある訳だし…最悪の事態とは言えないだろう。


とは言えこれがベストの状況、と言うには程遠い訳で。


とりあえず状況を少しでも打開する為、2日間で俺達は色々な話をした。


同じ社の人間で、同じプロジェクトの仲間だという事。

初めて出会った時の事。

よく一緒に呑みに行った事。

出張で同じ部屋に泊まった時の事。

頻繁に手作り弁当を作ってもらっていた事。

好きだと言ったのは俺からだという事。


それから今西 悠香がどういう人間だったのか。


何がきっかけで記憶が戻るか分からない、と医師から聞いていたので、思いつくままに今までの事を話して聞かせた。


俺の主観を交えながら話すのを、悠香は時に頬を赤くしたりしながら熱心に聞いていた。



「智さん、喉渇いたでしょ?

今コーヒー入れるわね」


長い話を終えた俺の為に、悠香はベッドから抜け出した。


「いいよ、んなモン自分で入れるから」


「私も飲みたいから、ちょっと待ってて」


記憶をなくした悠香は俺の事を「智さん」と呼ぶ。

今までの「北条さん」でも、恋人になってからの「智」でもない新しい呼ばれ方。

当然だが、俺はまだその呼ばれ方に馴染めずにいた。


コーヒーにしたってそうだ。


1番最初にインスタントコーヒーにお湯を注いだ後、少し困ったように振り向き


「ブラックでよかったのかしら…?」


と確認してからは、以前と同じ味のコーヒー—たとえインスタントであっても—を淹れてくれる。


…見た目には、悠香はどこも変わってはいない。

入れてくれるコーヒーですら、身体が覚えているのだろうが味は一緒だ。



話し方も仕草も、何ひとつ変わっていない。

だからつい忘れてしまいそうになるのだが、ふとした瞬間に「悠香じゃない」と感じる違和感。


それを感じるたびに、割り切れない何かが心の中に少しずつ蓄積されている事に、俺は気付かないふりを決め込んだ。


   * * * * * * 


2日目の午後「明日には仕事に行かなければ」と何気なく俺が漏らした1言に、悠香は過剰なほど反応した。


面と向かっては何も言わないが、幾度となく俺の様子を盗み見るように窺っては、こっそりと溜息をついている。

明らかに落胆した様子で口数も少なくなり、その日の夕食は気分がすぐれないと言って殆ど手をつけなかった。


1日1回、回診の時にしか顔を合わさない医師でさえ気がついた程だ。


そして俺は後でナースステーションへ来るようにと呼び出しをくらった。

出来るだけすぐ戻るから、と悠香を宥めナースステーションへ行くとそこには婦長もいて、悠香の退院を打診された。


「元々怪我の程度は比較的軽いのですし、慣れ親しんだ生活環境の方が記憶が戻りやすいのではないかという結論に達したのですが」


との言葉にしばし考え込んでしまう。


確かに自宅療養の方が悠香も落ち着くだろう。

けれど、今のこの状況で俺が仕事に行ってしまったら…悠香は大丈夫なのだろうか?


かといって、彼女の両親は既に亡くなっていて頼れる肉親はいない筈だ。


「…彼女と相談してみます」



仕事に行く=たとえ数時間でも離れ離れになる、という事にあれほど拒否反応を示したにもかかわらず、意外にも悠香は医師の申し出にすんなりと応じた。


俺が仕事に言っている間、1人でここで待つよりは家で待っている方が落ち着く、というのが悠香の出した結論だった。

そして2人でよく話し合った結果、俺が悠香の家でしばらく一緒に暮らす事になった。


「…本当に良いんだな?」


「えぇ、是非お願いします」



一緒に暮らす事自体は大した問題ではない。

ないが、記憶がないままというのは大いに問題だった。


本来なら、頭を打ったという事だし人目のある方が安心出来る筈なんだが…。

今の悠香には、1人でここで待つ方がストレスかもしれない。


翌日退院の前に医師に書いてもらった診断書を持って、俺は技術部の根岸部長と矢野本部長に話を付けに行った。


診断書と現在の悠香の状況を詳細に報告したうえで、俺達の持っている有給をフル活用し、互いの業務の進行具合と鑑みて5日間の休みをもぎ取った。


とはいえこの1週間で悠香の記憶が戻るという保証はどこにもない。

ただ今の悠香を1人にしてはいけない。

それだけははっきりしていた。


この1週間が正念場だ。



上司の理解が得られた所で、今度はプロジェクトメンバーを集め、部外者には口外無用と口止めした上で事情を説明する。


「そんな…」

と絶句する原沢とは好対照に


「それで、我々は何をしたら良いんだ?」

冷静に聞く国枝。


今ほど彼女を心の底から頼もしいと思った事はなかった。


「悪いが仕事が終わってから、悠香のうちに顔を出してやってくれないか?

一遍じゃ彼女も疲れるだろうから、何日かに別れてくれた方が良い。

何が記憶を取り戻す手がかりになるか分からないからな。

出来るだけ気心の知れた連中に合わせたいんだ」


何がきっかけになるか、なんて誰にも分からない。

だったら自分が出来る事をしたい、悠香のために。


そう言うと彼らは黙って頷いた。


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