表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/37

fragile 2


生真面目な悠香が無断で休むなど、今まで一度もなかった。

始業時間になっても姿を見せないと根岸部長に聞き、何度も家に電話をしたが留守番電話になっていた。


携帯を呼び出しても電源が入っていないらしく、返ってくるのは「おかけになった電話は~」という無機質なアナウンスばかり。



——何かあったのだろうか?


俺にさえ連絡がないという事実に、不安がよぎる。

強引に昼からの休みをもぎ取り、昼休みになると同時に社を飛び出した。


以前もらっていた合鍵を使ってオートロックのドアを開け、エレベーターに乗り込む。


或いは、よほど体調が悪くて連絡出来ないのかとも思ったが…半ば飛び込むようにして入った彼女の部屋は、も抜けのからだった。

1LDKの広くもない部屋をぐるっと見渡しても彼女の気配は感じられない。


寝室になっているプライベートルームをのぞいても、几帳面な彼女らしくベッドメイキングがされている。


これじゃ、昨夜彼女が帰宅してベッドを使ったのかどうかもわかりゃしない。

もしやと思いトイレと浴室ものぞいたが、悠香の姿はどこにも見当たらなかった。


そこで留守電のメッセージランプが点滅している事に気がついた。

彼女のプライバシーを侵害するような気分がして少し躊躇ったが、もし重大な手がかりが残っていたらと再生する。


1件は根岸部長が社から電話した時に残したメッセージ。


そしてもう1件…。


『今西さんのお宅ですか?

こちらは聖アンドレア病院です。

今西 悠香さんが事故に遭われ、こちらに昨晩より入院なさっております。


このメッセージをお聞きになったご家族、あるいはお知り合いの方は、至急聖アンドレア病院、外科婦長斎藤までご連絡下さい』



…冗談でも比喩でも何でもなく、頭の中が真っ白になった。


——悠香が…事故?…入院?



どれくらい呆然と立ち尽くしていたのだろう。


俺は電話のベルの音で我に返った。


慌てて受話器を取ると、聖アンドレア病院の斎藤と名乗る女性からだった。


『今西さんですか?』


「いえ、俺は違います。

彼女…悠香は1人暮らしなもので。

それで悠香はどうなんですか?

事故って…一体」


『…失礼ですがどちら様ですか?

患者さんのプライバシーもありますので』


冷静な声ともっともな言い分に少しだけ落ち着く。


いや、落ち着こうとした。


簡単に悠香との関係を説明すると


『分かりました。

では恐れ入りますが、こちらまでお出でください。

それと、可能であれば今西さんの着替えと洗面用具等を準備していただきたいのです。

まぁ、これは後でも構いませんので、とりあえず詳しくは後ほど。

病院に着きましたら南棟5階、外科のナースステーションまでお願いいたします』



受話器を置いても、何も考える事はできなかった。


ただ言われたままに、彼女のクローゼットを勝手に開ける。

機械的に下着の類と最低限の着替え、それに洗面所に行ってコップにタオル、歯ブラシ、スリッパなんかを用意する。

それらを小さめの旅行鞄に手早く詰め、部屋を出ると、俺は聖アンドレア病院とやらへ急いだ。



俺自身はかかった事も行った事もなかったが、車で30分ほどの隣町にある聖アンドレア病院は白亜の建物が眩しい大病院だった。

タクシーで釣りを受け取るのももどかしく、南棟の5階に急ぐ。


外科のナースステーションで名乗ると、奥からすぐ恰幅の良い女性が現れた。


「北条さん、ですね?

お待ちしておりました。

お電話差し上げた斎藤です」


俺の顔を見るなり、彼女は何故かにっこり微笑んだので首を傾げる。


「失礼しました。

笑ったりしてごめんなさいね。


実は今西さんのご家族の方と連絡をつける為、彼女の持ち物をチェックさせていただいたんです。

その時、拝見した携帯の待ち受けが貴方の写真だったものですから。

大事な方なんだろうなぁ、と勝手に思っておりましたの。


そして一番最初に連絡がついたのが貴方だったものですから、あぁやっぱり…と思って」



——悠香が俺の写真を待ち受けにしてくれてるなんて知らなかった。


曖昧に頷いてみせるとそれを照れ隠しと判断したのか、更に微笑みながら


「とりあえず、まずは医師の話をお聞きください。

今西さんに会われるのはそれからの方が」


と斎藤婦長は歩き出した。


別室に案内される途中、悠香の怪我の具合がどうなのか、そもそも何故彼女は怪我をしたのか尋ねてみた。


その瞬間ほんの僅かだが、婦長の笑顔が強張った。

婦長というからには相当ベテランの筈。

しかも、おそらく修羅場を何度も経験してきて、内心動揺を隠すのが上手な筈の婦長が、一瞬見せた表情。


そんなものに気付いてしまう自分の目聡さが、ひどく疎ましくなる。



「怪我自体は…大した事はありません。

原因は交通事故でして、詳しくは知りませんが信号無視の車と接触したようです。

怪我の程度は頭部と左腕に打撲。あと転んだ際にできた擦り傷が数箇所ですね」


怪我自体は…という事は、まだ他に何か問題があるのだろうか?


案内された部屋で1人待つ間に、不安が果てしなく膨らんでいく。



——何故、先に悠香に会いに行ってはならないのか?


どうして「その程度」の怪我なら悠香は自分で連絡してこないのか?


仮に動く事が出来なくとも、看護婦に頼めば社に連絡くらいしてもらえそうな物なのに。


何より「怪我自体」ってどういう意味だ?



…イヤな予感がした。


我ながらつくづく嫌になるが、こういう時の予感というのは、まず外れた例がない。


という事は、これも満更ただの「嫌な予感」では済みそうにないという事なのか。



——今回だけは外れてくれ。


それがダメなら、せめて「なーんだ」と言って笑い飛ばしてしまえるレベルのものであってくれ。


柄にもなく神サマとやらに祈りたくなる。


しかしそんな俺の願いはその後、医師の説明を聞いて無残にも打ち砕かれた。


「外因性ショックから来る一時的な記憶障害…?」


「今西さんの場合、事故の際に頭を打ったショックで一時的に記憶が混乱しているものと思われます」



月並みな言い方だが、目の前が真っ暗になった。

椅子に座っていてよかった。

でなければおそらく立ってはいられなかっただろう…。


長々と医師の説明は続いたが、殆どが頭に入ってはこなかった。


ただ、一時的な記憶喪失といわれても、いつになったら治るという明確な期限などない。


明日になれば記憶が戻るのか。

それとも一年後か。

そして、どうすれば失った記憶を取り戻せるのか。


そんな事は誰にも分からない、という事だけはよくわかった。



「今西さんとお会いになられますか?」


何を今更、と思ったが口には出さずただ頷く。


「それなら、失礼ですがどうか患者に対して怒らないで下さい。


このような場合、患者に対して最初は自分が理解してもらえなかった事に驚き、そして次に怒ったりなじったりする方が、ごく一部ではありますがいらっしゃいますので。


そういう行為は、患者に対して恐怖心と不信感しか与えませんし、それでは治るものも治らなくなってしまいます。

ですからどうか、できるだけ優しく接して下さいますようお願いします。

一番辛いのは患者自身ですから」


医師が立ち去ると、すぐに斎藤婦長が現れた。


「事情が事情ですので、今西さんには個室に入ってもらってます。

ご案内いたしますのでこちらへどうぞ」



これから起こる事を予想して、情けなくも足が竦んだ。

考えうる最悪の事態を想像した途端、背筋を冷たいものが駆け上がる。


彼女は自分の名前すら覚えてはいない、と医師は言った。

それどころか、自分の誕生日も血液型も家族の事も、何もかもを忘れてしまっている。


そんな状態で俺の事だけ都合よく覚えているなんて保障、どこにもある筈がない。



——もし…悠香が俺の事を本当に忘れてしまっていたら?


それは決して悠香のせいではないのだが…。

それでも俺は冷静ではいられないだろう。


爪が掌に食い込むほど強く両手を握り締め、落ち着こうと努めて深呼吸を繰り返す。



「こちらです」


幾重にも予防線を心に張り巡らして、最悪のケースを覚悟する。

それでも今すぐこのドアを開けて確かめたいような、もう逃げ出してしまいたいような、そんな矛盾した思いに苛まれる。


取っ手に伸ばした手が小刻みに震えていた。

もう片方の手で震えている手を掴み、きつく握りしめる。


ドアの前で立ち尽くす俺を、婦長は何も言わずにただじっと待っていてくれる。


それはそれで結構プレッシャーなのだが、けれどこのドアの向こうにいるのは…たとえ記憶を無くしていたとしても悠香なのだと、意を決してドアを2回ノックした。



「悠香?」


返事がないのでそっとドアを開ける。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ