第一話 白竜の夢
「あと、どれだけ生きていられるかな。」
暗い洞窟の中で、一人の男が弱々しく呟いた。
涙を隠そうと、骨の浮き出た手で顔を覆う。
傍らにいる竜には、きっとバレているはずだ。
けれど、幼い頃から一緒に過ごしてきた友には、泣いていることだけは知られたくなかった。
かつては、この世界に人がたくさんいた。
畑を耕し、協力し合って獣を獲っていた。
花を愛でる者、歌を歌う者、それにあわせて踊る者……
人の数だけ笑顔があった。
だがある日、その平和は崩れ去った。
始まりは、一頭の竜だった。
人と同じく、争いを好まないはずの竜が、他の竜を喰ったのだ。
まるで獣を食べるのと何も変わらないかのように、腹が空くたびに共喰いをした。
そして、竜たちは気付いた。
その竜が、共喰いをするほど強くなっていることに。
爪や牙が鋭くなり、身体も大きくなっていた。
「共喰いをすれば、強くなれる――」
その事実を知った竜たちは、次々と仲間を喰い始めた。
身を守るために共喰いを始めた竜も、いつしか力を求めるようになっていた。
しかし、力を得ることには代償もあった。
共喰いを繰り返すうちに魂は穢れ、温厚だった竜たちは凶暴になっていった。
大地に血の雨を降らせる竜たちは、とうとう人にも牙を剥いた。
やがて彼らは、邪竜と呼ばれるようになった。
畑へ向かった先で、生きたまま身体を焼かれた者。狩りに出かけたまま、二度と帰らなかった者……
歌と踊りに満ちた幸せな世界から笑顔が消え、悲鳴と絶望だけが残された。
そんな中、力を求めず共喰いを拒む竜もいた。
彼らは邪竜に比べてとても弱かったが、魂は穢れていなかった。
弱き竜たちと生き残った人々は、隠れるように谷底にある洞窟へ移り住んだ。
初めは、絶望の中にも小さな幸せがあった。
人にも竜にも新しい命が芽生え、子の成長を喜ぶことができていたのだ。
しかし、危険を冒して洞窟の外に出ても、焼かれた森で食べ物を探すことは難しかった。
それでも彼らは、希望を捨てることなく生きるために足掻き続けた。
尽きかけの食糧、外に出たまま帰ってこない者たち……
少しずつ、しかし確実に彼らの心は蝕まれていった。
そんな彼らに追い打ちをかけるように、洞窟内で暮らす人々の間に病が広がっていった。
それは本来、命を奪うほどのものではなかった。
しかし食べ物も薬もない場所で、病はいとも容易く、人々の命を奪った。
洞窟内で生まれた子が大人になる頃には、生き残ったすべての人が病に倒れていた。
人々が一人、また一人と命を落とし、最後の一人になった男も、今まさに命を奪われようとしていた。
幼い頃から一緒にいた友が食べ物を運んでくるが、男はもう身体を満足に動かせなくなっていた。
まるで「早く食べて!」と言うかのように、鼻先で手の甲をつつく。
指先で少し撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めた。
「死にたくない」
押し殺していた思いが、とうとう言葉になった。
男の目から涙が溢れる。
もう、それを隠そうとは思わなかった。
心配そうにこちらを見つめる友の顔が、涙で滲んでいった。
穏やかで悲しい時間が流れていた。その時――
外から竜たちの苦しげな鳴き声が聞こえてきた。
男の傍らにいた友は「大丈夫だよ」と言うようにその手に鼻先をすり寄せ、洞窟の外へ向かった。
悲鳴とともに恐ろしい咆哮が聞こえる。おそらくは邪竜がやってきて、弱き竜たちが襲われているのだろう。
自分の最期は、先に逝った人々のように苦しくとも竜たちに看取られ、穏やかなものになると思っていた。
しかし、そうではない。
自分も、邪竜によって無惨に殺されるかもしれない。
それを理解した瞬間、死への恐怖が一気に押し寄せた。
「嫌だ……」
一度こぼれた言葉は、もう止まらなかった。
「嫌だ、嫌だ!死にたくない、こんな死に方……あんまりだ!」
繰り返される「死にたくない」という叫びは誰にも届かず、暗闇に吸い込まれ消えていった。
「あぁ、ボクも竜だったら――」
男の傍を離れ洞窟の外に出た竜は、身体を震わせた。
弱き竜たちが、男を守るために邪竜の前に立ちはだかっていたのだ。
力の差ははっきりしていた。それなのに、逃げようとする者はいなかった。
誰もが、最後の人を邪竜の餌として終わらせたくはなかった。
そんな彼らをあざ笑うかのように、邪竜は吠えた。
弱き竜たちの身体を切り裂き、喉に喰らいつく。
己の力に酔いしれ、邪竜は口元を歪めた。
血に染まる大地、何度立ち上がっても倒される仲間たち。
そして、傷一つない邪竜――
仲間たちの多くは、まだ息をしていた。
しかし、立っているのは一頭だけ。
死が目の前に迫っていた。
仲間の身体を切り裂いた爪が、血の滴る牙が近づく。
自らの終わりを受け入れるしかない現実。
罪のない命が蹂躙される理不尽さ。
そして何より、友を守れない己の弱さに涙が溢れた。
目を閉じ、その時を待つ。邪竜の足音がほんの数歩先まで迫ってきた。
その時、背後から吹いた暖かい風が頬を掠めた。
目を開けると、自分と邪竜の間に純白の竜が立っていた。
邪竜の目が、新たな獲物を前にぎらりと光る。
だが白竜は、怯むことなく真っ直ぐ邪竜を見据えた。
邪竜が地を蹴った。
鋭い爪が、白竜の身体を捉える。
しかし、純白の鱗には傷一つつかない。
白竜が大きく翼を広げると、巻き起こった風に邪竜の巨体が押し戻される。
その目から、先ほどまでの余裕が消えた。
怒りに満ちた咆哮を上げ、再び白竜へ飛びかかった。
牙を剥き、喉元へ喰らいつこうとする。
白竜は逃げなかった。
迫る邪竜へ一歩踏み込み、その身体を尾で薙ぎ払う。
鈍い音とともに、邪竜の巨体が宙を舞った。
地面へ叩きつけられ、血に濡れた大地を何度も転がっていく。
弱き竜たちが何度立ち向かっても、傷一つ負わなかった邪竜。
その鱗はたった一撃で砕け、血が滲んでいた。
それでもなお立ち上がる。
しかし、その目にもはや愉悦はなかった。
あるのは、恐怖。
白竜はゆっくりと歩み寄る。
一歩。
また一歩。
邪竜が後ずさる。
白竜は足を止めなかった。
倒れた仲間たちを背に、ただ静かに邪竜を見据えていた。
敵わぬと悟った邪竜は、傷ついた翼を羽ばたかせ空に逃げた。
もっと力をつけ、必ず白竜を喰らってやる。
そう誓うように、憎き相手の姿を目に焼き付けようと、振り返ったが――
白竜の姿は、どこにもなかった。
その瞬間、邪竜の背に重い衝撃が走る。
何が起きたのか理解する間もなく、上空から飛来した白竜に叩き落とされ、その巨体は大地へ一直線に墜ちていった。
もはや、邪竜に起き上がる力は残されていなかった。
見上げた先には、死がいた。
白竜は瀕死の邪竜のもとに降り立つと、そっと首に噛みついた。
そして、骨の砕ける音が響く。
絶望の化身は、静かに息絶えた。
弱き竜たちは、歓喜に身を震わせた。
これまでにも邪竜に挑んだ仲間はいた。だが、生きて戻った者はいなかった。
誰も倒すことのできなかった邪竜を、たった一頭の竜が呆気なく葬った。
危機は去った。
友にそれを報せるため、竜は慌てて洞窟内に戻った。
しかし、友の姿はどこにもなかった。
そこにあったのは、空になったベッドと男が着ていた服の残骸。
そして――
あの白竜と同じ、純白の美しい鱗だけだった。
洞窟から出ると、白竜が瀕死の仲間に問いかけていた。
「生きたいか?」
それは本来、竜には話すことのできない人の言葉だった。
「生きたい」――そう応えるように、仲間は最後の力を振り絞り、首を持ち上げた。
白竜はその姿を静かに見つめると、倒れ伏す仲間たちへ視線を巡らせた。
「お前たちは、選ぶことができる。一つは竜のまま生きて死ぬ道。そしてもう一つは……記憶や自我を失う代わりに、ヒトとして生まれ直す道」
「全てを捨てられるか?」
そう問いかける白竜に、瀕死の竜は力強い眼差しで応えた。
その瞬間、目を開けていられないほどの眩い光が彼を包んだ。
輝きがおさまった時、そこに竜の姿はなく――
一人のヒトがいた。
その後も、ヒトとなる道を選ぶ竜たちを見届けると、白竜は洞窟から出てきた竜に向き直った。
「私には、全ての邪竜を倒すという使命がある。後のことは君に任せるよ」
そう言うと、大きな翼を羽ばたかせ、白竜の姿は空の彼方へ消えていった。
数年後――
最後の邪竜を倒した白竜は、再び谷底の洞窟に舞い降りた。
そこには多くのヒトと竜が集い、温かな笑い声が満ちていた。
かつての悲しみと絶望の影は、どこにもない。
ある竜はヒトの夫婦と心を通わせ、彼らの子になりたいと願った。
すると竜の魂は母となるヒトの胎内に宿り、ヒトの子として生まれた。
やがてヒトは洞窟を出て、世界各地へと散っていった。
森で暮らすヒト、山で暮らすヒト、海で暮らすヒト。
彼らは十二歳の誕生日を迎えると、その土地に根付く姿へと変わった。
森の者はエルフィディアに。山の者はビースティアに。そして海の者はマーメイディアに。
彼らはそれぞれの地に国を築いていった。
一方、世界の中央には、竜たちと十二歳になっても姿を変えないノーディアスが集まり、どの国にも属さぬ平穏の地――ノアが生まれた。
「そうして白竜アルシェドは、皆の幸せを見届け、永い眠りにつきました」
最後の一文を読み終え、少年は静かに本を閉じる。
その瞳には、溢れんばかりの憧れが宿っていた。




