10,難儀な栄養摂取
金曜日の夜に寝てしまっても、土日は始まったばかり! とアリスは翌朝挽回しようとしたが、仕事上でのトラブルがあったということで朝食を終えたところで海が出て行ってしまい、帰ってきたのは日曜日の午後だった。
かなりハードな内容だったのか、海は「寝ていない」と憔悴しきっており、アリスはひとまずベッドで寝るようにすすめた。そこで日曜が終わった。
月曜日からは、またいつも通りの忙しさと出張で、海とのすれ違い生活が続く。
(このままじゃだめ……! 本当にまったく全然恋人らしく過ごしていない……!)
同居でわずかなりとも顔を合わせていなければ、今度こそ本当に彼氏彼女という事実を忘れてしまいそうな日常だった。
アリスなりに危機感を覚えていたものの、その週は出張先で台風に見舞われて飛行機が飛べなくなり、東京へ帰れないまま時間が過ぎてまたもや土日が過ぎ去った。
その次の週は「土日の忙しい日のオペレーションが見たい」と出先で暁子が言ったことにより、帰りそびれた。勢いで、アリスはそのまま現場スタッフとしての業務までこなした。
海と完全にすれ違っていることに心を痛めながら出社した月曜日、副社長室に暁子の姿がない。
珍しく遅い時間に来るのかな? と首を傾げていたアリスのスマホに電話が入り「土日働いたから今日は休むわ。あなたも休めば良かったのに」とだけ言われて通話が終了した。
「……!」
副社長付きの秘書が長続きしなかった、の意味を噛み締めながら秘書課へ向かう。
今日はまだ秘書課で仕事をしていたらしい城戸と、久しぶりに顔を合わせた。
「おはようございます、白築さん。土日も仕事になったと聞いたんですが、代休とれますからね。このままだと体を壊しますよ。少しゆっくりなさっては?」
「おはようございます。お気遣いありがとうございます。家を出る前に代休のことを思いつけば良かったんですが、来てしまいましたので。せっかくなので、秘書課の仕事を覚えたいと思います」
一ヶ月、バタバタと暁子について歩くだけで時間が過ぎてしまい、まともに秘書課で電話番をしたり、書類仕事をしたりということがなかった。
この機会に仕事を覚えよう、と思ったところで城戸に廊下へと連れ出される。
「白築さんは、仕事があればやってしまう性分みたいなので、仕事から離れたほうがいいです。一ヶ月ずっと働き詰めなのは、同じ部署なので把握しています。今からでも休日にできるので、今日は帰宅を。顔色も良くないですから」
あれ? 心配されている? どんな顔色なんだろう? と思いながら、アリスは反射的に笑みを浮かべた。
「大丈夫です」
普段あまり表情の変わらない城戸が、このときばかりはむっとしたように微かに顔を強張らせた。
「弓倉部長にも、今日は早く帰るように言いますので」
強い口ぶりで言われたものの、アリスとしては「自分の体調ごときで、会社の要である弓倉部長の仕事に支障が出てはいけない」という考えが勝ってしまう。
「本当に大丈夫です。出張続きの最初の頃は、私って副社長より全然体力無いなって思ったんですけど、いまは少しずつ体が慣れてきました。今日は一日仕事をしても、定時上がりをすれば夜はゆっくり休めますから」
ようやく体が仕事についてくるようになったんですよ、と言ったつもりだったのだが、これが完全に城戸の逆鱗に触れたらしい。
すっと目を細めた城戸は、叱りつけるような厳しい声でぴしりと言ってきた
「倒れてからでは遅い。帰らないつもりなら、強制的に家まで送り届けます。帰り支度をしてください」
「城戸さんにそこまでさせてしまったら、弓倉部長の仕事に本格的に支障が出てしまいますよ! 私のことは気にしないでください!」
ふう、と城戸が遠い目をして息を吐き出した。
「白築さんが倒れると弓倉部長が魔王化して、手に負えなくなります」
あっ、とアリスはそこでようやく城戸の危惧を了解する。
「すみません。私は今まで家族以外のひとから『親身になって心配される』経験が少なかったもので、いまいち鈍いんだと思います。でも、私が倒れたら弓倉部長が心配するのは想像がつきました。看病するなんて言い出したら、会社の業務に支障がありますよね」
城戸の放つ空気が、先程よりもさらにひやりとしたものになった。
「そこは、香空の一社員としてではなく、恋人としての弓倉海の心情を少しだけでも思いやるところではないですか。謙虚も辛抱強さも行き過ぎると鬱陶しいです。それとも、いまの弓倉海との関係はただ流されているだけで、白築さんにはさほど気持ちはないんですか」
ぐっと心臓を掴まれるような痛みに、アリスは言葉を失ってしまう。
(海さんへの気持ち……)
咳払いをして、城戸が「すみません」と謝罪を口にした。
「言い過ぎました。俺が口を挟むところじゃない」
普段、仕事中は「私」と言う城戸が感情を乱れさせているのを感じて、アリスは「いえ!」と強く食いつく。
「言っていただいて良かったです。最近の私は、弓倉部長に対して、恋人として何も出来ていない罪悪感とか、取るに足りない平社員であることの引け目とかばかりで……。『好き』という気持ちの前に、余計な荷物がたくさん積み上がっていて、自分でも自分の気持ちが見えなくなっていました。真面目に考えてみます」
城戸は、やや困ったような顔で答えた。
「考えすぎなくてもいいですよ。それで白築さんがどこか遠くへ行ってしまったら、俺が恨まれるので。そこは何も考えないで、まずは結婚まで突っ走ってほしいです」
「それは……どうですかね!」
結婚という恐ろしい単語が飛び出したことに、アリスは肝が冷える思いをした。
一方の城戸は、落ち着きを取り戻した様子でにこりと微笑む。
「お二人の年齢を考えれば、決して早すぎるということはないと思います」
「交際期間から考えると若干早いのではないでしょうかね!?」
「ですが、もう一緒に暮らしていますし、生活においては相性の悪さは感じていないわけですよね」
「や、やめてください。そうやってじわじわ追い込んでくるのは! そのへんはまだお試し期間のようなもので!」
口にしてしまってから、アリスは自分自身の言葉に疑問を抱いた。
(海さんとの関係は「お試し期間」なのかな? もし時間経過とともに、この関係をこれ以上続けられないと気づいたら、私はどうするんだろう)
アリスの受ける印象として、海に迷いはない。迷っているとすれば、アリスの方だ。
もし海が心変わりをしたときに、自分がどれだけのダメージを受けるかと考えると、これ以上前に進むのが怖いのだ。
「ゆっくり考えるにしても、疲れていると悪い方へ思考が流れがちになります。いまの白築さんは、弓倉海に対しては無敵状態のはずなので、変に悩まないでください」
「お気遣い、本当にありがとうございます。悩んでぐずぐずになって出した結論より、直感を信じて決めたことのほうが良かったりしますからね」
笑い合いながら、話は終わったものと了解して、アリスは秘書課のドアへ手を掛ける。城戸が呆れたようにため息をついた。
「白築さん。まさか、仕事に戻ろうとしていないですよね。今日は白築さんが帰ってもまわるようにしますので、おとなしく帰ってください」
「少しも……仕事しちゃだめですか」
「だめですね」
そのとき「あれ?」と聞き慣れない男性の声が耳に届く。アリスは声のしたほうへと顔を向けた。
濃いブラウンの髪に、よく日に焼けた褐色に近い肌色で長身の青年がそこに立っていた。
ひとめ見て高い仕立てとわかるスーツ姿で、人好きのする笑みを浮かべた顔は俳優のように整っている。
城戸が、いち早く反応した。
「芦屋専務。こんな朝早くからお越しになっていたんですね」
そう言ってから、アリスに「青海クルーズの芦屋専務です。会長のお孫さんでもあります」と軽い紹介をし、相手側には「秘書課の社員です」とアリスのことを言う。
芦屋は、面白そうに目を輝かせてアリスを見つめてきた。
「海の顔が見たくて、朝イチで仕事にかこつけて来ちゃったんだけどね。ところで俺は、勘の良さには自信があるんだ。噂は耳に入っている、海の彼女だろ。間違いない、あいつはこういう素朴で仕事だけしているタイプが好きだからな。当たってる?」
最後の呼びかけは、自分だろうか城戸だろうか? とアリスは横目で城戸の様子を窺う。あくまで城戸との会話なら、自分に水を向けられたと先走って口出しをするわけにはいかない。
城戸は穏やかな笑みを浮かべていた。
「そんなにわかりやすいでしょうか」
途端、芦屋は明るい笑い声を弾けさせる。
「わかりやすいよ、海も城戸も。ちょうど一香姫がこんな感じだっただろ。仕事一筋で、あまり自分に手をかけていないけど、素材が良いからいつでもすごい美人に見えるっていう。海の彼女は……えーと」
すごく濁された……! と、アリスは芦屋の心中を察した。
(「一香姫」は、海さんのお姉様ですよね! お会いしたことはありませんが、月とすっぽんでしょうから、海さんつながりとはいえ私への言及が難しいのはわかります。タイプが似ていると言われただけでも、びっくりで)
それと同じくらい気になるのは、数年前日本を出て行ったきりの一香のことをよく知っている口ぶりであることだ。
海や城戸とは昔馴染みなのかな? とアリスが思いを馳せていたところで、笑顔の芦屋がさらりと言った。
「城戸は一香姫に入れ込んでいたからね。まだ海外支社に異動願いは出していないのか? 海の子守はそろそろお役御免でいいんじゃないかな。それとも、一香姫のことはもう諦めて、そっちの子に乗り換える感じ?」
いきなり、ネタにされている。
会話の流れに緊張したアリスをにやにやとしながら見て、芦屋は気安い口ぶりで話を続けた。
「今日、海に会いに来たのは『春日』のクルーズに香空の社員を招待する件だ。せっかくだから海の彼女もどうぞ。仕事のほうは城戸がどうにか調整して」
「承知しました」
アリスを置き去りにしたまま、城戸があっさりと請け負う。
(「春日」は「白鳳」の前身の豪華客船で、芦屋さんは運営会社である青海クルーズの会長の孫で専務ということは、社内では海さん同様にプリンスと呼ばれている方なのでは? 王子様の友達は王子様ですか……)
余計なことを言わないようにしていたアリスだが、その分全部顔に出てしまったらしい。
芦屋はアリスの顔を見て満足そうに笑うと「それじゃ、よろしくね」と言って悠々と去ろうとした。
城戸がすかさず「表までお見送りしますよ」と声をかける。
ちょうどそのタイミングで、急いで走ってきたらしい海が「芦屋!」と名を呼びながら姿を見せた。
「俺に資料を出せと言いながら、さっさと帰るな」
「ああ、そういえばそうだった。でも用事は終わったんだ。海の婚約者を見に来ただけだし、見つけたから」
「私もしかして、とことん話の肴にされてます……?」
耐えきれず、アリスはついに口を挟んでしまった。
芦屋はぱちぱちと瞬きをしてから、いたずらっぽい調子で海に向かって言う。
「城戸と逢引していたみたいだけど、大変だね。三角関係?」
「は?」
海が、微笑みを浮かべながら聞き返した。
笑っているのに、恐ろしく好戦的な顔つきである。
飲み会の場で、香空の社員たちを震え上がらせていたときよりも、さらに凄みがあった。
しかし、芦屋はまったく臆することもなく楽しげに言った。
「恋愛は理屈じゃないからねえ。ま、面白いことは歓迎だ。いいぞもっとやれ。今後が楽しみだな。待てよ。横浜から函館までの短期のクルーズでも、二泊三日あるからな。俺にも口説くチャンスはあるかな? 参戦してみるか」
ものすごく不穏なことを口走っている。
(こういう、現実の複雑な人間模様からしか栄養が摂取できないタイプ、苦手……! なぜ引っ掻き回そうとするんですかね。城戸さんのような大人の男性が私をどうこう思うことなんか絶対あり得ないのに。それを言ったら海さんみたいなプリンスが……うう、やめよう)
思考が後ろ向きだ、とアリスは首を振る。
言いたいことを言いたいだけ言った芦屋は、ご満悦な様子でアリスに向かって笑いかけてきた。
「楽しみにしてる。待ってるからね」




