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【コミカライズ】この人、私の婚約者ですから!と嘘に巻き込んだ御曹司がなぜか話を合わせてくるんですが!?  作者: 有沢真尋
【第二章】

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9,月が綺麗ですね

「お邪魔します……入ります」


 ちゃぷ、とアリスはバラの花びらが浮かんだ乳白色の湯に片足ずつ入る。

 バラの花束は前日海が出席したとあるイベントで贈られたものということで、先に入った海が花びらを浴槽に浮かべて準備してくれていた。

 アリスは後から入り、目を瞑っていてくださいねと念押しをして髪と体を洗って、海から離れた反対側から湯船に肩まで浸かった。


「もう目を開けて大丈夫?」


 髪から水を滴らせた海が、笑いながら尋ねてくる。


「大丈夫です!」


 思わず、目の前をよぎったバラの花びらを握りしめながら、アリスは力強く答えた。

 キャンドルは浮かべていなかったが、窓が大きく取られていることもあり、外からの仄かな明かりがあるのでバスルームの照明はつけていない。

 その薄暗い中で、海がゆっくりと目を開けた。


「……離れてるね」


 こ、これは「近う寄れ」ですか……!? と内心で慌てふためきつつ、アリスは真っ赤になって言い張った。


「とりあえず今日はこのくらいで」

「今日はということは、次があるの? 嬉しいな」


 無邪気な笑顔が本当に幸せそうで、直視したアリスは心臓が痛くなるのを感じて口をぱくぱくさせる。言葉が出てこない。

 特に追い詰めるつもりはないらしい海は、ゆっくりと視線を窓へと向けて「なかなかいいでしょ?」と軽い口ぶりで言った。


「はい! お高いホテルに泊まっているみたいです! 何かリラックスできるものを持ち込んで何時間でも入っていたいです。あと、シャンプーもボディソープもすごくいい匂いです! いつも寝るときに海さんから良い匂いするなぁと思っていたんですけど、これだったんですね! 香空(かのあ)で使っているものですか?」


 だんだん早口になり、まくしたてるように言ってからアリスはハッと息を呑む。


(甘い空気が消える! 仕事の話をしている場合じゃない。もっと違う話題を)


 にこにこしている海を見ながら、なんとか頭を働かせつつ話題を変えようとした。


「すみません、思いっきり仕事の話をしてしまいまして。シャンプーといえばシャワールームにあるシャンプーもソープも好きです。詰め替えのスタイリッシュなボトルに入っているからメーカーがわからなくて、いつも聞こうと思っていたんですが忘れてしまっていて……あれ? 私はまた仕事の話をしていますか?」


 やっちゃった、とアリスはがばっと両手で顔を覆う。

 海は、あはははと笑い声をたてて背を反らし、バスタブの縁に腕を乗せた。

 アリスが顔を上げると、ちょうど首筋から鎖骨までのきれいなラインが視界に入ってきて、目のやり場に困る思いで視線を泳がせることになった。


「良いって話を聞くといろいろ試したくなるけど、試作品もあるんだ。シャワールームにあるのは、香空で実用化している。こっちのバスルームにあるのは試作段階で、この先『白鳳(はくほう)』のオリジナルアメニティとして導入予定。名称としては白鳳オリジナル、かな」


「『白鳳』……! 再来年就航の豪華客船ですよね。香空がマネジメントの一部を請け負っているというのは知っていたんですが、以前の部署では全然携わることはなくて。暁子(あきこ)副社長のお仕事に同行するようになって、話を聞く機会が増えました。弓倉部長……海さんが中心になって進めていると」


 暁子の接待の席に同席するわけではなくとも、何かと「白鳳」に関する話題は耳にしている。とはいえ、暁子はさほど関わっておらず、あくまで香空側でのメインは弓倉海ということらしい。


(今回は「白鳳」全体のプロデュースとして大物プロデューサーの名前が前面に出るそうですが、実質的には海さんがかなりの部分を担当しているとか……!)


 大空家のプリンスは末恐ろしいねえ、すでに恐ろしいから、と各界の重鎮に話を振られて、暁子がまんざらでもない様子でほほほと笑っているのを何度も目にしてきた。

 その「恐ろしい」プリンスは、いまアリスの前でバラの花びらを手ですくいあげながら、穏やかに笑っている。


「香空の役割は、外資系で主流になっているマネジメント・コントラクトに近いかな。船舶会社に香空のノウハウを提供するんだ。具体的には内装やアメニティの選定と開発、レストランやショップの出店、メインとなる接客スタッフの派遣及び育成も請け負っている」


「香空の強みは世界に通用する人材育成とは聞きますが、私自身、このところ続けてグループ店を回っていてまさにそれを実感しています。現場スタッフのホスピタリティがすごいんですよ。お客様の多くがリピーターになるのもわかります」


「香空のロイヤルスイートは国内トップクラスの値段だからね。ただ『白鳳』は、価格帯ではさらに上をいく。一泊数百万の部屋もあるんだ。そのレベルでの接客技術は付け焼き刃でどうにかなるものではないから、香空に人材提供の打診がきたんだ。でも現実的に難しい。国内クルーズならともかく、世界一周に出ると三ヶ月は海の上だ。能力的には適任でも、生活ががらっと変わることを考えると受けられない事情のあるスタッフもいて……」


 真剣に聞き入っていたところで、海が手を頭上まで持ち上げて、はらりとバラの花を乳白色の水面に落とした。


「ごめん。俺もいま、思いっきり仕事の話をしてしまった」


「ああっ、そうですね! 『白鳳』には興味もありましたし、海さんの話が面白くて聞き入ってしまいました!」


「興味を持って聞いてもらえるとね、嬉しくなるから。でもせっかくのプライベートだし、起きているアリスは久しぶりだから、ゆっくり夜景でも見ようか」


 ふわっと笑いかけられて、アリスは我に返り状況を思い出す。

 海は「こっちにおいでよ」と呼びかけてきた。


「……海さんのそばに……」

「何もしない……つもりなので。風呂では」


 う、とアリスは頬を真っ赤に染める。


(そんなに正直に言わなくてもいいのに!)


 心の中で叫びながら、そうっと距離を詰めて、海の胸に背を預ける形で腕の中になんとか収まった。

 海が、満ち足りたような息を吐き出して低い声で呟く。


「見て、月が出てる。綺麗な夜だね」


 * * *


 海が先に浴室を出て、アリスは後からゆっくりと出た。

 出掛けに海が「アメニティの試供品たくさんあるから出しておくね。もし良ければ好きなの使って」と軽く言っていたが、いざアリスが出たときには、ただでさえ高級ホテル感のある洗面台にずらりと高級メーカーのボトルが並んでいて「選べない……」と唖然とした。


「バスローブまである……。これも『白鳳』の? 着たことないんだけどな」


 まさか一泊数百万円の部屋用の……? と恐れ多い気持ちを抱きつつ身支度を整え、ドライヤーで髪を乾かして出てみると、ゆるい私服姿の海がキッチンで立ち働いていた。

 とてもいい匂いが漂っている。


「髪乾いた?」


 振り返って、にこりと笑いかけてきた。

 その耳元にはピアスが煌めいていて、もう夜遅くでこれからどこかに出かけるわけでもないのにこの隙の無さがさすがプリンス、とアリスは改めて感動してしまった。


「海さんは外で会うとすごくかっこよくて威厳があって別世界のひとなんですけど、プライベートエディションも得体の知れないかっこよさですごいですね」


 思ったままのことを壊滅的な語彙力ながら素直に口にすると、海は笑みを深めて「ありがとう」と照れた様子で言いつつ、話を続けた。


「好きなひとの前では、だらしない姿を見せられないから。外向きのスタイルが良いと言ってもらえるのも嬉しいけど、家で会っても一番カッコイイって思っていて欲しい。俺そのへんは負けず嫌いだよ」


 瞳に、好戦的な光が宿る。


(さすが弓倉部長。意地張って生きててすごいな)


 アリスとしては「ご自宅なんですから気を抜いてください」と言いたいところではあるが、海はおそらく気を抜かない方が楽な性分なのだ。


「私は気だるげな海さんを見ても『そんなところもいいな』と思いそうなんですが、今みたいにいつでもどの角度から見ても完璧な海さんは海さんらしくて尊敬します。一昔前の旧家の若様みたいです。家族の会食でも必ずスーツで、隙のない服装をずっと難なくしていそうなイメージです」


 言い終えてから、あれ? と気づく。

 さーっと血の気が引くようなぞっとした感じと、頬に血が上ってくるような感覚が同時に襲いかかってきた。血の巡りが忙しすぎる。


(さっき、海さんは「好きなひとの前では」って言ってた……! 流した……! すみません、そっちよりもむしろ海さんの矜持に気を取られていまして……! 彼女失格!)


 海はにこにこと笑いながら口を開く。


「俺はどんなアリスも大好きだよ。風呂上がりにノーメイクでバスローブ姿なんて、寛いでいる感じがすごくいいよね。他のひとには見せちゃだめだよ。ね?」


 笑顔なのに圧が強い。

 だめだよのひとことに、周囲の空気が歪むほどの力が入っている。

 話題が変わったことで、アリスはひとまず今度はきちんと受け答えをしようと気持ちを集中させながら口を開いた。


「はい。実家以外で、ひととプライベートを過ごすことはありませんので。最近副社長のおかげで、香空の良いお部屋にも宿泊する機会を頂けたんですが、まさか部屋でモーニングというわけにもいきませんし。さすがにそれはわきまえていますから」


 アリスは一般社員なので、本来なら出張先では従業員の仮眠用エリアでの宿泊が妥当だ。

 だが、暁子が「香空ブランドを知る良い機会だから」と、毎回アリスの給料では泊まることもできないような部屋を先方に用意させているので、恐れ多くもありがたく利用させてもらっている。

 接客担当者も、内輪だからと砕けた態度で接してくることもなく、丁重に客として扱ってくれた。

 アリスとしては、恐縮しつつも香空の底力を味わう得難い体験の連続となっていた。


「国内、あちこち行っていたよね。ほんとお疲れ様。どこか気に入ったところあった?」

「どこも最高でしたね!」


 答えながら、アリスはカウンターの内側に回り込んでみた。

 何を作っているのだろう? と手元を覗き込むと、薄いクレープの皮が何枚か出来上がって皿に積まれていた。


「もしかして海さん、晩御飯まだでしたか!?」


 惣菜っぽいクレープを作るつもりのようで、すでにハムやサラダの具材がそばに揃えられている。相変わらず、手際が良い。


「十六時くらいに軽く……。取引先で、海外とのオンラインミーティングに参加していたから、会食はなかったんだ。それで、飲みながら少しだけ食べようかなと。アリスは?」


「食べたいです! 今日はすごく為になる飲み会だったとは思うんですが、緊張してあまり食べられなくて……。見ていたら、お腹が空いてきました」


 おそらく、海は最初からそれを見越して多めに作っているので、遠慮は不要なのだ。

 実際にお腹が空いていたアリスが渡りに船と喜ぶと、海はたとえようもなく優しい笑みを浮かべる。


「良かった。……今日、会社の飲み会って聞いて、アリスは大丈夫なのだろうかと少し心配になってしまって。思わず顔を出してしまったけど、行って良かった」


 ドキッと心臓が強く反応した。


(結果的には乗り切れたっぽいけど、最初はあの飲み会、はめられたかと思ったもんね)


 本当に間一髪だったなぁと思い出すアリスの横で、海は陰々滅々とした暗い声で続けた。


「もっと早く着ければ良かったんだけどね。高瀬も高瀬だ……あんな男性比率の多い場にアリスを連れていって何かあったらどうするんだ。横にいたのは営業の桐原だな。無遠慮にアリスに話しかけてどういうつもりなんだ。俺だってアリスとどこかに出かけて一緒に飲んで楽しく過ごしたいのにどうしてあいつらが先にその機会をもっていくんだ。いい加減にしろ、俺がいつまでもおとなしくしていると思うな。殺意が」


「海さん? 海さん、何か違うことを考えましょう!」


 物騒な言葉が聞こえたところで、アリスは海の述懐を強制終了させた。


「そうだ、海さんの予定ではこの土日は引きこもりかもしれないんですが、もし良ければどこかに出かけませんか? 私も海さんと一緒に出かけて楽しく食べて飲みたいです!」


 殺気を漂わせて無表情になっていた海であるが、アリスの提案を耳にすると目を大きく見開いて「うん!」と即座にとろけるような笑顔になった。落差にヤンデレの兆候を感じて少し怖いと思ったが、アリスは深く考えないでおくことにした。


「どこに行こうか? 泊まりにする? 少し遠出してもいいけど、最近のアリスは出張続きだったから、近場の方がいいかな。都内のハイエンドなホテルか、鎌倉あたりか。観光じゃなくて、ゆっくりするためだけに出かけるんだ。客室露天風呂付きの旅館とか好き?」


「大好きです! 行きましょう! 旅館ってどうしてもひとりだと行きにくいじゃないですか! 二人だと行動範囲広がって楽しいですね!」


 二人部屋を割高な料金を払いつつ一人で利用するのは厳しくて……とアリスは己の財布事情を思い浮かべていたのだが、感無量の海はそれどころではなかった。


「二人だといいよね。うん。俺も行こうと思えばどこでも行けるんだけど、行く理由がなくて今まで出不精してて。でもアリスが喜んでくれるんだったら毎週でもいい」


「体力と、その、お金が……。海さんは気にしないでって言いそうですけど、私は平民なので豪遊には抵抗がありまして。本当に、ご褒美みたいにたまにでいいです」


 海は、言われてハッと気付いたようで「そうだよね」とあっさり引き下がった。


「アリスは、それでなくてもいま出張続きだからね。家でゆっくり過ごすのも全然いいと思う。俺もいまは『白鳳』でかかりきりで、いつトラブルで呼び出されるかもわからないから、あまり東京を離れられないし。こういう夜は貴重で……」


 言いながら、海はアリスの額に口づけて「すぐできるから待ってて」と手元での調理を再開した。

 ただ待つことはできないアリスは、皿を出したりドリンクを用意したりと手伝い、二人で美味しく夜食を食べた。

 そこまでは、アリスも記憶がある。


 しかし、ただでさえ疲れていた上にアルコールを追加したこともあり、食べ終わると同時によろよろとベッドに向かうと、海がいつ寝たのかも気づくことなく、朝まで健やかに寝てしまったのだった。


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✼2026.3.3配信開始✼
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海さんドンマイ( ˘ω˘ )
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