第十八話 魔術師は斯く語りき
人間というものは恐怖の限界に達すると、気絶するようだ。腕の中で突然気を失った少女を眺めながらアルヴィドはそんな事を思った。
子供特有のふっくらとした肌に伏せられた長い睫毛。柔らかな紫がかった銀髪は高級な絹のように滑らかで触り心地がいい。
何時までも触っていたくなるような感触に自然と指先を髪に絡めた時だった。
「それ以上本人の許可無く触るのならこの私が相手をしますわよ、オリフィエル家の坊や」
侍女であるにも関わらず、自分の行動を諌めるココに視線を移した。艶やかな金髪を一つに纏め上げた女性は給仕服に身を包んでいながらもその姿は凛としており美しい。
何処からどう見ても侍女というには不釣合いな外見をしていると思う。更に付け加えるのであれば主従関係すら無視したその価値観をどうにかしろ言いたい。
憤怒大陸を統治する大魔術師の息子であり、次期当主と言われる自分を相手におおそれた事を口にするなど愚か過ぎる行為だ。
常識を持っていればけして口にせず、大人しく主人の言う事に従うのが筋というものを。
もっともそんな指摘をした所で彼女に通じるとは思っていなかった。何せ相手はあのココ・ブラウンだ。
その美しい外見に惑わされる事なかれ。母上などとは比べ物にならぬ化け物だと知っているアルヴィドは形だけでも謝罪する事にした。
心の篭らぬ謝罪にココは柳眉をひそめたが、それ以上とやかく言うことも無く、気絶した主をアルヴィドの腕から救出する。
そして端整な顔立ちを歪めながらキッと睨みつけてきた。完全に敵視されてしまったようだ。
「それにしてもあの皇妃もとんだ茶番をしてくれたものだわ。あまつさえリディア様に紅茶をかけるなんて以ての外よ!」
「紅茶をかけたのか?……母上が?」
驚きの発言に問い返せば深く頷き返す。母上が、紅茶をかけた。……この娘に?
初めて間近で見る娘を凝視しながら考え込むアルヴィド。ココのいうことが本当ならばそれはある意味不味いのではないだろうか。色んな意味で。
しかし、この場であれこれ考え込んでいると折角逃げてきた相手に見つかる可能性があった。今にもその場から立ち去りそうな雰囲気を醸し出すココにアルヴィドは提案する。
「ここは人目に付く。一先ず娘の手当てをすべくリナーシャの所へ行かないか?」
「何で私があの娘の所へ行かなくちゃならないのよ」
「……不可抗力とはいえ負傷させたのは私の責任だ。後で顔に傷が出来たから責任を取れと言われても面倒だから確実に治せる相手を選んだだけだ」
「まぁ!失礼な人だこと。自分からぶつかっておいてその言い方はないのではないの!?そもそも貴方があんな隠し通路から現れるのがいけないのでしょ!」
「だから謝罪はした。とにかく、この場から離れるぞ」
未だに納得しないココの腕を無理やり掴むと、移動魔法を起動する。突然の移動にココが小さな悲鳴を上げるが気にしない。数秒で回廊から離宮にある一室へと移動した。
全体的に白で統一された室内は日の光が差し込み、明るい構造をしている。高級家具で統一された空間は一目で金を費やされているのが分かるほどだ。
円卓に肘を立てながら座っているのは若い女性だった。流れるような黝い長髪に感情の篭らぬ灰菫の瞳。
感情の起伏があまりないのか、端整な顔立ちが動く事はあまりない。
一方、反対側に座っているのは全長三十センチ程の人形だ。菫色のドレスを着た人形は神妙な表情を浮かべながら目の前に座る女性と女性が手に持っているカードを見比べている。
ゲームに熱中しているのか、突然現れたアルヴィド達に気づく事無く手札を引き抜いて行く二人に痺れを切らしたココが盛大に溜息を零した。
「……リナーシャ様、客人が来たって言うのに無視はないのでは?」
怒りを孕んだ声に漸く第三者の存在に気づいたのか、部屋の主であるリナーシャは瞳を熊とらしく瞬いた。
「まあ……久しぶり。母から聞いていたけど、貴女が本当に侍女をやっていたなんて驚きだわ」
「先程の茶会で一度拝見したはずですが?」
「とても声など掛けられる雰囲気じゃなかったじゃない。あの皇妃と他の令嬢たちのせいで」
「侍女に気安く話し掛けたりなどしたらリナーシャ様の品格を疑われますよ、他の令嬢たちに」
「他の令嬢なんてどうでもいいですもの。それにアルヴィドの花嫁なんかになるつもりなんてこれっぽちもないし」
そう呟きながらココの隣で立っているアルヴィドに漸く視線を向けた。指先は宙に浮かんでいるトランプを選ぶように揺れ動いている。
相手の機微を少しでも見逃さないようにしている人形とは違い、リナーシャは余裕そうに端のカードを抜き取ると、自身の手札と一致するカードを一緒に捨てた。
そして悔しそうに顔をしかめる人形へとカードを付きたてながら瞳を細めた。
「で?何しに来たのよ。花嫁選びが終わるまで必要最低限会わない約束だったでしょ。冗談じゃないわよ、アンタの花嫁なんて」
「ああ、お前とだけは死んでもゴメンだ」
仮にも花嫁候補の一人だと言うのに、その相手に対して容赦の欠片もない言葉が吐き捨てられる。もっともアルヴィドもその言葉には同感だったため首肯する。
他の花嫁候補が今の会話を聞いたら昏倒しそうな会話だが、本人達は気にした様子もなく続けた。
昔から二人の関係は今のまま変わらない。親しいというよりも、親同士の繋がりがあるから子供の頃から色々と会話を交わしている関係でしかない。
そこに恋愛や親友と言った感情は皆無だろう。何せ目の前の女は自分よりも更に百歳は年上なのだ。
得体の知れぬ年寄りなんぞ相手にするわけも無く、アルヴィドの好みからもリナーシャはそれほど当てはまっていないため花嫁候補といえども一番選ばれる可能性が低い存在だ。
しかし、それはあくまで仮定であり、どうなるか分からぬ状況であるためかリナーシャは普段以上に不機嫌そうだった。そもそも言葉の節々に棘が垣間見える。
ココが居る手前あからさまな態度には出さないが、二人きりの時などもっと露骨だ。
そういう意味合いではこの場合ココ様万歳と言うべきなのかもしれない。
これ以上この場の空気が悪化する前にどうにかしたいのだが、当の本人がババ抜きに夢中の為どう話題を切り出せば良いのか悩む。
人形は悩み選んだ末、引き抜いたのがババだったのか悔しそうに呻き声を漏らしながら円卓の上を転げ回っていた。
綺麗にセットされた金髪が乱れても気にする様子が無いのは流石と言うべきか。あの姿になって既に千年以上が経っていると聞いているが、心まで女にはなっていないらしい。
外見が可憐なだけに外見と行動が一致しない光景に自然と溜息が零れ落ちる。……大悪魔の癖にあまりにも情けない姿だとしか言葉が出て来ない。
これまで幾つもの悪魔を見てきたが、この悪魔だけは一生尊敬出来そうになかった。むしろこんな悪魔を尊敬などしたくない。
子供のように頬を膨らます人形を眺めながら酷く楽しそうにしているリナーシャに視線を戻す。得意のポーカーフェイスで相手をかく乱しながら先程の続きを喋りだす。
「で?私としては逃げ場としてここを提供する気はないのだけど?」
「この娘の傷を治して欲しい。用件はそれだけだ」
「傷?」
リナーシャはその言葉に初めてココの腕に抱き締められている少女に気づいたのか、怪訝そうに呟いた。
「……貴方、そんな小さな子に何しでかしたのよ」
「ぶつかっただけだ」
「ぶつかっただけって……それで傷を負わせたわけ?最悪ね、人として」
呆れた様に溜息を零すと、ババ抜きを中断し此方に歩み寄ってくる。ココの腕の中で気絶している里愛の頭部を確認すると冷たい視線をアルヴィドに向けた。
先程からココといい、リナーシャといい、冷たい視線にしか晒されていないのは気のせいだろうか。そんな事を考えるアルヴィドを他所にリナーシャは深い溜息を零した。
「可哀想にこんなに赤く腫れて……このまま放置したら血が死んで青痣になっていたわね。私の所に連れてきたのは正解って所かしら」
そう呟くと掌を里愛のおでこにかざす。淡い光が里愛の頭を包みこむと、すぐに消えた。確認すれば綺麗に赤みも消え去り、幾分か顔色も良かった。
内心安堵するアルヴィドを他所にリナーシャは不思議そうに里愛を眺めながら呟く。
「それにしても何でこの子こんなに濡れているの?」
「リディア様に向かって皇妃が紅茶をぶっかけたからに決まっているでしょ」
「あら、それはとんだ災難ね。良かったわ、早々に切り上げて」
そう呟きながらそのまま濡れたドレスの方にも手をかざすリナーシャ。手を振りかざしただけで濡れていたドレスが一瞬で乾いた。
勿論乾いただけではなく、紅茶の染みも消えていた。まるで最初から紅茶などかかっていなかったような光景だ。その技術だけは感心したように頷くアルヴィド。
「相変わらず事象の回帰に関してだけは上手いな」
「失礼な奴ね。私は不変の魔女の娘よ?このくらい出来なきゃ母に笑われるわ」
不変の魔女と言えば時空間を操る事で有名な大魔術師だ。その分野に関しては右に出る者は不変の魔女を置いて他に居ないだろう。
特に時空間を操れる魔術師などそう簡単にいるものでもなく、直系の子ですら才能がなければ時を操る事など不可能なのだ。
だが、親子ニ代に渡ってその実力は健在である。しかし、娘でもその母を今だ越える事は出来無いのだから大魔術師の称号は凄いとも言えるだろう。
子ですら親を越せぬ現実。同じ能力を使えると言うのに実力だけで言えば天と地ほどの差があるらしい。
実際不変の魔女の戦いを見た事がないから明確な事はいえないが、あの大悪魔である暴食のグラトニーを人形の器に閉じ込めるだけの実力は持っていると言う事だ。
それだけで十二分な実力を有していることがわかる。仮に他の大悪魔を人形の器に閉じ込めろと言われても出来るものじゃない。
つまり、不可能な事を可能にしている不変の魔女はある意味で化け物じみた存在であった。それに比べたらアルヴィドなど毛の生えたひよこ程度に違いない。
「親が偉大だとお互い苦労するな」
「全くよ。人数合せの為だけに花嫁候補にさせられた私の身にもなってほしいものだわ」
感嘆とした様子で呟いているが、ほとんどその表情は変わっていない。変化に乏しいのも親子共々似ていると言うが、未だに不変の魔女の姿を見た事がないアルヴィドにはよく分からなかった。
むしろ本当の姿を見た事がある者などいるのか疑問だった。実の娘ですら見た事がないというのだから他者を信用しないにも程があるというものだ。
まあ、他人を信用出来なくなるような出来事があったらしいが、詳しい事は知らない。
それを知っている唯一の当事者であるグラトニーは今でも黙秘を続けているためアルヴィドが知る由もなかった。
目的であった娘の治療は終わり、この場に居る必要が無くなったアルヴィドは壁に掛けられた時計を確認する。
時間はそれほど経っていないが、あまり長居すると見つかる可能性があるため他の場所に避難する事にした。
「さて、そろそろ退出するか」
「そうね。いい加減ここに押しかけてきても可笑しくない頃合だもの」
どうやらリナーシャはアルヴィドを追い駆けていた相手の事も分かっているようだ。何でもお見通しだと言わんばかりの言葉に思わず顔をしかめる。
気まずさを通り越して苦々しさ満載だ。思わず呆れた様に此方を見てくるココに咳払いをしながら告げた。
「ということでココ、後日謝罪しに行く」
「……しょうがないですわね。リディア様の傷も治った事ですし、私も失礼させて頂きますわ」
令嬢を抱きかかえなおしながらココは部屋を後にする。アルヴィドも次の移動場所を決めると直ぐに移動してしまった。残されたリナーシャは再び戻った静かな空間に安堵しながら口元を綻ばせた。
そして円卓に突っ伏したまま動かない人形に気づいたリナーシャは首を傾げた。
「どうしたの?」
「いーや。あのリディアって娘の事考えていたんだが……あれも相当に不運だな」
「あ、やっぱりそう思う?」
「だってあの性悪女に紅茶をぶっ掛けられたんだろ?それって……なあ?」
歯切れ悪く言葉を濁す人形にリナーシャは机に散らばったトランプを切り直す。
「そうだよねぇ……意外過ぎるよね。まあ、この場合リディアって子の不運ぶりが発揮されたって所かしら」
「まあ、他の奴がどうなろうと知ったこっちゃないんだが……何せあの娘はあの野朗が選んだ娘だからなぁー。何もなけりゃいいんだが……」
珍しくこの先を心配する人形に他の者にはけして見せる事のない笑みを零しながら切り終わったトランプを配りだす。
未だに一勝もしてない目の前の人形は何としても自分に勝ちたいのだろう。
やる気を出し、奮闘するその姿に更にこみ上げる笑いを堪えながら母が帰ってくるまでトランプに興じるのであった。