巻之七 「淡路かおる大道筋孤剣行」
「ぐはっ!!」
峰打ちで弾き飛ばされた宮本武蔵の身体は、今は脱サラした夫婦がカフェを営んでいるらしい町屋の軒先に、受け身も取れずに転がった。
宮本武蔵の左の胸から脇腹にかけては大きく切り裂かれ、そこからはパサパサに乾燥した塵がボロボロと崩れ落ちている。
愛刀・了戒を取り落としてしまった宮本武蔵は横向きに倒れると、力なく上体を起こした。
「見事だったぜ、かおる殿…あんたの勝ちだ…!」
苦しい息の下でようやく紡いだ切れ切れの言葉だったが、悔恨もなければ憎悪もない、実に爽やかで清々しい敗北宣言だった。
「どうした…かおる殿…?無敗の俺から勝ち星を取ったんだ…?もっと喜んでくれなくては、俺としても、負け甲斐がないぜ…?」
武蔵とは対照的に、いささか釈然としない表情を、勝者である私は浮かべていたようだ。
「これは、対等とは言い難い立ち合いでしたね…私の身体はナノマシンとサイフォースで強化された物ですし、貴方は怨霊武者として蘇生した御身…貴方と私が、共に小細工無しの生身の人間として相対していましたなら、結果は違っていたかも知れません…」
このように語る私に向かって、宮本武蔵は力なく首を横に振った。
「違うな、かおる殿…負けは負け、勝ちは勝ちだ…武芸者としての名を高めるために、俺も色々な手を使ったからな。体格の差も、そして運も実力のうちだ。俺もあんたも、現状で出せる全力を出して戦った。それでいいじゃないか…俺は最後にあんたと戦えて、本当に良かったと思っている…これで俺は、満足して逝ける…」
私は思わず、「あっ!」と鋭い叫び声を上げてしまった。
折れ砕けて転がる武蔵の木剣と太刀が、急激に朽ち果て、錆びを吹き、そしてみるみる崩れていく。
それはあたかも、数百年分の経年劣化をビデオ動画の早回しで見ているかのような光景だった。
この分では持ち主である宮本武蔵の仮初めの命も、もはやそう長くないだろう。
その証拠に、彼の肉体の至る所から、塵がボロボロとこぼれている。
怨霊武者として現世に蘇った古の剣豪は、今まさに朽ちようとしていた。
宮本武蔵が最後に刃を交えた剣士。
この栄誉ある立場を得た私が、手向けとして彼にしてあげられる事は、果たして何だろうか?
「最後に何か、言い残す事はございませんか?」
既に風化してしまった武蔵の右手を取ってあげる事は、もはや叶わない。しかしながら、辞世の言葉を聞き届けてあげる事くらいなら出来るだろう…
「そうだな…もし…もし、輪廻と言う物があるのならば、再び人として生まれたいな…それも乙女として、この時代に。」
「何故?」
私の問い掛けに、武蔵は小さく笑った。
「なあに…また、あんたに会ってみたいんだ。ただ、今度は敵ではなく、あんたの戦友としてな…」
それはまた、随分と高く買われたものだ。
「もしもその願いが成就したのなら、人類防衛機構に入隊し、堺県第2支局への配属を希望なさい。私は必ず待っています。サイフォースの力が衰え、特命遊撃士の資格を失ったとしても、特命教導隊の武術指導教官として必ず人類防衛機構に留まります。ですからその時のために…」
私に皆まで言わせずに、宮本武蔵は顔を上げた。
既に限界が近いのだろう。
希代の剣豪には似つかわしくない、ひどく緩慢な動作だった。
「ああ…あんたの顔と名前、しっかりと魂に刻ませて貰う!生まれ変わっても、あんたに巡り会えるようにな…その愛刀の銘は『千鳥神籬』。その名前は、淡路…」
皆まで言えず、宮本武蔵の身体は塵に還った。
猿飛佐助の時とは違い、既に衣服や得物も朽ちつつある。
一片の悔いもなく成仏出来た。
そのように好意的に解釈してあげても、罰は当たらないだろう。
「良い立ち合いでした。貴方のような武人から御教示頂けるとは、この淡路かおる、剣士として万感の思いです。」
愛刀である千鳥神籬を鞘へ納め、静かに一礼して合掌した私は、先のコンビニへと再び足を進めた。
猿飛佐助の妨害で飲み損なった2本目の日本酒を、改めて購うためにだ。
此度は何人の妨げもなく、目当ての日本酒を自販機で購う事が出来た。
封を切る前に思い直した私は、同じ日本酒をもう1本買い求めると、宮本武蔵と打ち合った所へと引き返した。
かなり風化が進んでいたものの、宮本武蔵が身に付けていた着物と袴は、辛うじて原型を留めていた。
「間に合いましたか…」
私は唇を笑いの形に歪めると、購った日本酒の1瓶を開栓して、その中身を風化しつつある着物と袴に振り掛けた。
「この末期の酒は私に奢らせて頂きますよ。貴方の生きた時代の物とは違いますし、さほどの高級酒ではございませんが、お口に合えば幸いです。」
私の呟きに応えるように、日本酒の染み込んだ武蔵の着物と袴は、風化が加速して瞬く間に形を失い、一陣の風に吹き散らされていった。
それを見届けた私は、自分の分の日本酒を開けると、一気に飲み干した。
「決して高級酒ではないはずなのに、今日は随分と味わい深く感じます。貴方はそうは思いませんか?」
私の問い掛けに応じる者はない。
応えるはずの相手は、既に塵に還っている。
これで、あの立ち合いの余韻として残されているのは、路面に転がるトレンチナイフだけになった。
「貴方がやり残した仕事は、特命遊撃士である私達が引き受けましょう。残る怨霊武者を殲滅し、これを成仏させる…正直言って、通達を頂いた直後は、『これでは平家の落武者狩りをする農民のようだね。』と茶化す友達と同調していました。しかし、これが貴方達の安らかな眠りに繋がるのなら…」
私はトレンチナイフを拾い上げて遊撃服の懐にしまうと、背を向けて静かに歩き始めた。
ローファー型戦闘シューズの靴底が、サイコロの描かれたタイルを踏みつける。
私は怨霊武者の残党を追い求めて大道筋に出ると、大小路の方角へ進んでいた。
日頃は自動車が慌ただしく行き交うこの道路も、今走り回っているのは、第2支局所属の武装特捜車や自衛隊車両だけになってしまっていた。
堺市と大阪市の2つの県庁所在地を繋ぐ阪堺線の路面電車も、大小路の停留場で乗り捨てられている。
そんな戒厳令下の大道筋を、私は太刀を腰間に差して歩いている。
千鳥神籬。
邪悪の尖兵を斬り捨て、人類の未来を切り開くために振るう業物だが、今日ばかりは亡者の魂を救済する介錯の刃として振るおう。
堺県庁所在地、堺市。
この街に再び、生きとし生ける者の笑顔と喜びが甦る、その時のために…




