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雷鳴のラストピース  作者: 雨車狸
第三章 『白薔薇のレクイエム』
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第三章17 『母という存在』

 結局、早朝にタバコを吸いにホテル前へ出てきた岩井を、翔太郎と心音は半ば強引に捕まえた。


「……で? 何でお前らは、朝の五時台から俺を拉致ってんだ」


「岩井先生、説明はさっきしましたよね? とにかくレンタカーを借りましょう。急がないと」


「急ぐって……。一応教師の立場から言わせてもらうが、合宿から抜けるってのはどういう意味か、分かってるんだろうな?」


 岩井は眉間に皺を寄せ、露骨に嫌そうな顔をする。

 心音は申し訳なさそうに俯き、翔太郎の袖をそっと握った。


 そこで翔太郎が即座に切り返す。


「今日中に蒼岬に戻りますよ。俺も心音も日帰りです。それにこの夏合宿の成績は2日目から9日目の8日間で決まるって、先生が言ってたじゃないですか」


 岩井の顔が、ぐっと険しくなる。


「……確かにそうだな」


「むしろ、課題をやらない日は自由に時間を使って良いって言ったの、先生ですよ?」


「……それも言ったな」


 翔太郎は一歩も引かない。

 その横で心音がかすかに震えているのを見て、翔太郎はさらに言葉を続けた。


「心音のお母さんの危機なんです。学園の教師として、生徒の家族を見捨てるわけじゃないですよね?」


「……」


 岩井の顔が引きつる。

 自分のクラスの生徒の中でも、翔太郎はかなりのトラブルメーカーだ。

 翔太郎自身がトラブルを起こしている訳ではない。

 どちらかと言えば、トラブルを引き寄せる側である。


 そんな彼に脅しとも取れる一言を言われ、思わず額に手を当てた。


「一応言っておくが、レンタカーを借りたり高速を乗ったりと、俺、今手持ちがそんな──」


「はい出た。そういうのレシート控えて、ちゃんと学園の経費で落としてください」


「えぇ……」


 とんでもなく面倒くさそうな顔をする岩井。

 しかし翔太郎は、すかさずトドメを刺しにいく。


「それとも、また俺たちが勝手に抜け出して良いんですか? 前に学園島に襲来した不審者の事件を解決したのも、俺たちですよ?」


「その件については、お前らが勝手に自分たちで調査を進めてたという前提があるがな」


 しかし、翔太郎たちが動いてゼクスの野望を阻止したおかげで、巷を騒がせていた連続異能放火殺人事件が終結したことには、間違いない。


 そういう意味では、零凰学園は翔太郎に大きな借りがあると言っても良い。

 岩井の頬が引きつり、肩がガクッと落ちる。

 その瞬間、彼は観念したようにポケットから財布を取り出した。


「……ったく、分かったよ。レンタカー借りりゃいいんだろ。もう好きにしろ」


「助かります、岩井先生!」


「すみません……ありがとうございます……!」


 心音が深々と頭を下げると、岩井はさらにめんどくさそうに頭を掻いた。

 そこからは早朝とは思えないほどに、慌ただしかった。


 岩井が近場のレンタカー屋へ走り、半ば強制的に手続きを済ませ、三人は夜明け直前の国道へ飛び乗る。


 そして──車内。

 エンジン音の中、岩井が深いため息をついてつぶやいた。


「鳴神、お前は絶対ろくな大人にならないと思うぞ」


「岩井先生みたいにはならないようにしますから、安心してください」


「お前、本当にいい性格してるな。……はぁぁぁぁ。日の出の海を見ながらタバコを吸ってただけなのに、なんで俺がこんなことに巻き込まれてんだ」


「言葉には気を付けてくださいよ。俺の隣には現在進行形で、母の無事を願ってる同級生が泣きそうな顔で座ってるんですから」


「鳴神くん、私は別に泣いてないからね?」


 心音が小さく抗議するが、その声は震えていた。

 翔太郎はそっと心音の手に触れ、安心させるように微笑んだ。


 岩井はバックミラー越しに二人を見て、面倒くさそうに、しかしどこか諦めたようにぼやく。


「……一応、これで前回の事件解決の借りは返したからな」


「ありがとうございます」


 車は東へ向かって走り出す。

 心音の大切な人の元へ。




 ♢




 風雲台医療センター。

 都内最大級の異能力総合病院。

 その威容は、まるで巨大な白い砦のようだった。


 レンタカーがエントランス前に滑り込むと同時に、心音はほとんど飛び降りるようにして走り出した。

 翔太郎と岩井も続く。


 ここは、聖夜の魂喰い事件の被害者である水橋美波が、かつて長く入院していた場所。

 そして、現在進行形で心音の母が、十年以上前に海外の宗教団体に「生贄」として精神を破壊された後、唯一治療を行えた病院でもある。


 翔太郎は病室に入る前に、玲奈、アリシア、涼介の三人に事情と状況説明をメールで行っていた。


 心音の母が危ないこと。

 今日中には絶対に戻ること。

 その中でも、特にアリシアには個人的に強くメッセージを打っておいた。


『アリシア。今、そっちには俺がいない。組織の襲撃は無いとは思うけど、四季条の行方も掴めてないし、玲奈のこと、ちゃんと見ておいてくれ』


 既読がついてから数秒後。

 そして返ってきたのは、感情を抑えた淡々とした文面。


『任せて。そっちも心音のこと、お願い』


「任せろ」


 そう呟きながら、翔太郎は病院に入りながらスマホの電源を落とした。

 ここから先は、外界の雑音を一切入れないためだ。


 三人は、案内された手術室前のベンチに並んで座った。

 心音はずっと俯いたまま両手を胸元で握りしめ、固く祈るようにして動かない。

 肩は小刻みに震え、呼吸も浅い。


 翔太郎は横目で彼女を見ながら、少しでも心音が安心できるように近くで待つ。

 岩井は腕を組み、長時間の運転の影響で眠そうに欠伸をかいた。


 時間だけが、思い出したようにゆっくり進む。


 時折、手術室の奥から響く叫び声は、もはや人のものとは思えないほど歪んでいた。

 心音の体はそのたびに強張り、膝の上に置かれた拳は白くなるまで握りしめられている。


「お母さん……!」


 言葉の震えが、そのまま彼女の恐怖の大きさを物語っていた。


 翔太郎は背中を軽く支えるだけに留める。

 下手に慰めの言葉をかければ、張り詰めた心音の心が壊れてしまう気がした。

 岩井もまた、珍しく口を閉ざしたまま、険しい顔で手術室を睨むように見つめていた。


 廊下の白い光は変わらず静かに灯っているのに、空気だけが凍りついていた。


 数時間後。

 ようやく奥の機械音が落ち着き、扉が開いた。

 担架に横たえられた女性が運び出される。


「お母さんっ!!」


 心音がすぐさま駆け寄ると、彼女から母と呼ばれた女性は静かに目を閉じていた。


 白髪が混じり、肌の色は青白く、頬はこけている。

 眠っているというより、魂を置き去りにされた空殻のようだった。

 例えば、担当医から死んでいると言われれば、それを信じてしまいそうな程に酷い有様である。


「──とりあえず、危機は脱しました」


 担架の後ろから、長時間、この女性の手術を行なっていた医者が額の汗を拭いながら、息を切らして出てきた。


「昨日の暴走と、自傷による衰弱死……それだけは避けられました。ただし……自我が戻らない状況は、依然として変わっていません。今は命を繋いだ、という段階です」


 その一言が落ちた瞬間、心音は糸が切れたように膝から崩れ落ちた。


「そ……うですか……よかった……。本当に……よかった……」


 涙が床に落ちる。

 翔太郎はその背にそっと手を添え、胸の奥が締め付けられるような思いを抱く。


「本当に、ありがとうございました……!」


 医療スタッフたちは、安堵する暇も、心音の感謝をまともに受け取る暇も無いまま、担架を押し、母親を病室へと運んでいった。




 ♢




 夕暮れが病院の窓を赤く染め始めた頃。

 担当医から意識が戻ったとの連絡が入り、翔太郎と心音は再びナースステーション前に呼ばれた。


「……分かりました。それでは、私と彼の二人分の面会をお願いします」


 心音は受付と話し、自分と翔太郎の分の面会時間を確保した。

 その間も、緊張なのか指先を固く握っている。


「俺も行っていいのか?」


「うん」


「……親子水入らずで話してきてもいいんだぞ?」


 そっと気遣うように翔太郎が言うと、心音は小さく首を振った。


「……やっぱり、ちょっと怖いから。鳴神くんにも一緒にいてほしい」


 震える声。

 翔太郎は頷く。


「分かった。そういう事なら俺も一緒に行く」


 横から岩井が立ち上がる。


「じゃあ、邪魔者は外で待ってるとするか。どう考えても俺は場違いだろうしな……。それにヤニ切れてきた。近くのコンビニ寄ってくる」


 ぶっきらぼうに言い残し、岩井は手を振りながら廊下の奥へと歩き去った。

 病院に残ったのは、翔太郎と心音の二人だけ。


 二人はすぐに病室へと向かい、扉を開いた。

 夕焼けに染まる窓際のベッドで、心音の母は静かに座っていた。


 その翡翠色の瞳は美しく澄んでいるのに、何も映していなかった。

 まるで、外の世界も、訪れた二人も、そこに存在していないかのように。


「お母さん……」


 心音の声は、ひどく小さかった。

 それでも、その声に宿る震えと必死さは、翔太郎の胸に鋭く突き刺さる。


 彼女はベッドに近づき、ぎゅっと掌を握りしめながら言葉を続けた。


「お母さん、今日はね。お客さんを連れて来たの」


 母は返事をしない。

 視線すら動かない。

 ただ夕焼けに染まったビル群だけを、虚ろな翡翠の瞳に映し続けている。


「彼は2年A組の鳴神翔太郎くん。2年生になってから仲良くなった男の子で、私の大事な友達。今日は鳴神くんも、お母さんの体調を心配して来てくれたんだ」


 翔太郎は少し戸惑いながらも、軽く頭を下げた。


「……4月に転入して来た鳴神翔太郎です。心音には、いつもお世話になってます」


 もちろん、何も反応しない心音の母にその言葉が届いているかは分からない。

 それでも翔太郎は、心音が独りで喋っている状態を作りたくなくて、言葉を出した。


 心音は小さく息を吸い、笑顔を作って続ける。


「前にも言ったけど、私、零凰学園の十傑になったの。色々課題とか頑張って、友達とかもたくさん出来たし、毎日楽しくやってるよ」


「────────」


 母は瞬きすらしなかった。


 心音は笑顔をさらに引き攣らせる。

 無理していることが、翔太郎にもはっきり分かる。


「最近、同じ十傑のアリシアがね、よく笑うようになったの。前までずっとムスッとしてた感じだったけどさ、自分から誰かに話しかけたり、表情が柔らかくなったり、素直になると凄く可愛いんだ」


「確かに。最近のアリシア、だいぶ変わったよな」


 翔太郎が合わせて言うと、心音は一瞬だけ救われたような目をした。

 それでも、すぐにまた母の方へ向き直る。


 心音は親友のアリシアについては、定期的に母に話していた。

 学園では数少ない、心音の母が入院していることを知っている人物の一人である。


「今日ね、私たち、三浦半島から来たの。海、すごく綺麗だったよ。東京湾とは全然違うよね。あ、そうだ。私が3歳か4歳ぐらいの時にも、お母さんが海に連れてってくれたよね?」


 母の瞳に、揺れはなかった。


「お母さん、覚えてる? あの時ね、私……」


 そこから心音は止まらず話し続けた。

 まるで沈むのを必死に防ごうとするみたいに。


 幼い頃に母と行った海の思い出。

 入院してからの経過と、零凰学園での出来事。

 最近仲良くなった氷嶺玲奈のこと。

 今回の合宿の課題が、どんなものなのか。

 そして、いつもどんな思いで母の病院に通っているのか。

 この前贈った、ガーベラの花言葉のこと。


 話はとりとめなく続き、途切れない。


 しかし──どれだけ話しても。

 どれだけ声を震わせても。

 母の顔はただ、窓の外に向いたままだった。


 その時間は、およそ十五分以上。

 翔太郎の時計を見れば、もっと長く感じるほどの沈黙だった。


 途中、心音の声が掠れ、それでも喋ろうとしているのが痛いほど伝わる。


「今日、来れてよかったよ。お医者さんから、暴れたって聞いて……すごく心配して……っ」


「心音、もう無理すんな。少し休んでも──」


「ううん、大丈夫。お母さんにも、ちゃんと聞いて欲しいから……」


 そう言う彼女の笑顔は、壊れたガラスのように不安定だった。

 翔太郎は思わず歯を食いしばる。

 見ているだけで胸が痛むのに──母自身は、何ひとつ悪くないという現実が、余計に胸を締め付ける。


 心音はぽつりと、最後の言葉を落とした。


「……じゃあ、合宿終わったら……また来るね」


 立ち上がる彼女の肩が、小刻みに震え続けているのを見逃さなかったことで、それは母に向けた言葉というより、自分に向けた言葉のように翔太郎は思えた。


 彼は母に頭を下げ、病室から出る心音の後を追う。


 扉が閉まった瞬間、カクッと音が聞こえたような気がした。心音が背中から崩れ落ちるようにドアの前へ座り込んだのだ。


「…………」


 もう声も出ない。

 ただ、耐えていたものがすべて重力に負けて落ちたように。

 翔太郎はすぐ横にしゃがみ込み、そっと肩に触れた。


「ちょっと歩かない? もし良かったら、なんか自販機で奢るけど」


 それだけで、心音の肩が小さく震えた。

 夕暮れの光だけが、二人の沈黙を優しく包んでいた。




 ♢




 風雲台医療センターの屋上庭園は、夕暮れの光がオレンジから紫へと移り変わる途中だった。

 人影はなく、風の音だけが医療機器のわずかな唸りと混ざって柔らかく響いている。


 翔太郎は自販機の前で二本の缶を取り出し、そのうち一本を心音に差し出した。


「病院の自販機にデッドガードが売ってるなんて意外だな」


「……確かに。患者さんが飲んだりしたら、どうするんだろうね」


 心音はようやく少しだけ笑みを作ったが、その目はまだどこか遠い。


 二人は庭園のいちばん隅のベンチに腰掛け、並んで缶を開けた。

 炭酸の弾ける音が、夕暮れの静けさの中でやけに大きく聞こえる。


 しばらく黙って、缶を少し傾けながら。

 やがて心音がぽつりと口を開いた。


「……聞かないの?」


「何を?」


 心音は缶を膝の間で、ぎゅっと握りしめた。


「私のお母さんが、なんで……ああなってるのか、とか」


 翔太郎は横目で心音を見る。

 その横顔は、さっきより少しだけ脆かった。


「聞いてほしいのか?」


 その問いに、心音はすぐ答えなかった。

 言葉を選んでいるのでもなく、迷っているのでもない。

 ただ、喉に溜まった何かが重すぎて、声にならないだけのようだった。


「……」


 風が少し強く吹き、心音の髪を揺らした。


 翔太郎はただ黙って隣にいる。

 急かさず、ただ逃げない。

 しばらくして、心音が小さく息を吸った。


「私の両親はね。二人ともA級能力者だったの」


 語り始めた声は、薄いガラスみたいに震えていた。


「お父さんは、地面から木を生やすタイプの能力者で、お母さんは、特殊な力を持つ花を咲かせる能力者。戦うというより……誰かを支えて、守るほうが得意な人たちだった」


「うん」


 翔太郎は短くうなずいた。


「二人は、国家直属の能力者だったから、高給なのと引き換えに政府から要請が来たら、断れなかったの」


 国家直属の能力者とは、実力の高い能力者のみなれる凄腕の使い手たちだ。

 翔太郎の周りには剣崎が該当するし、玲奈の兄である凍也も、政府からの案件をいくつもこなしている口ぶりだった。


 しかし、任務の危険度は警察や消防隊、自衛隊に比べて遥かに凌駕し、時には海外の紛争地帯に行かされるケースも存在する。


「私が5歳の時、二人は海外に派遣されたの。当時、どんどん勢力を広げてた異能カルト宗教団体を、現地の能力者と協力して止めにいくために」


 言葉を重ねるごとに、心音の顔が痛むように歪む。


「そこでお父さんは──教祖の男に殺された」


 翔太郎は目を伏せた。

 その一言に込められた重さが、痛いほど伝わってくる。


 心音の父の死因。

 しっかりとは知らなかったが、彼女の口から他殺である事が判明した。


「お母さんは、カルト宗教団体が目論んでいた“儀式”の生贄として使われた。死にはしなかったけど、他の能力者に助け出された時には、もう精神が壊れてたらしいの。それ以来……あんな感じになっちゃった」


 心音はデッドガードの缶を見つめたまま、力なく続ける。


「満月を見るとね、よく暴れるの。その“儀式”で何をされたのかは知らないけど、満月の夜に行われたから……心が覚えてるんだと思う」


 歯を食いしばる気配が、隣から伝わってきた。


「事件は一応、宗教団体を壊滅させて終わったけど……敵味方問わず犠牲は多かった。教祖の男だけは国外に逃亡して、まだ捕まってない」


 そこまで言うと、心音の声は糸みたいに細くちぎれそうになった。


「だから、あんな姿でじっと外を見てるのも……悪いのはお母さんじゃないのに。責めることなんて、できないのに……。でも、ああして無反応だと、私……どうしていいか分かんなくなるの……」


 心音の指が、握ったデッドガードの缶をかすかに震わせた。


「……事件の後、私ね。親戚の家をたらい回しにされたの」


 夕風が一瞬止まり、言葉だけが静かに落ちていく。


「誰も悪くないんだよ。みんな事情があるって言い訳して……それでも、結局私はどこに行っても邪魔者で……。どうしても限界だった時、どうして私を一人にしたのって……お父さんとお母さんを恨んだこともあった」


 そこまで言った瞬間、心音は唇を噛み、ぐっと俯いた。


「それでも、病院だけは来なくちゃって思ってた。行かなくなったら……私には家族がいるってことまで、否定しちゃう気がして……」


 声は震えながら、どこか自分を責め続けている響きを持っていた。


「矛盾だらけなのに……“お母さんが無事でいてくれればそれでいい”って、どうしても思えない自分が嫌で……。やっぱり……お母さんの無事をただ願えないだけの私って、娘失格なのかな」


 その言葉は、まるで長年胸の奥に溜まっていた毒がゆっくり漏れるようだった。

 翔太郎はゆっくりと隣に寄り、触れないギリギリの距離で、真っ直ぐな声を落とした。


「心音が──悪い訳じゃない」


 紫の空を背に、翔太郎の横顔はどこか暖かい光を宿していた。


「実際、俺は入学したてのとき……心音にめちゃくちゃ助けられてるよ。零凰学園のことを何も分からない俺に、推薦生の偏見も無く、色々親切にしてくれた」


 心音の肩が、少しだけ揺れた。


「アリシアだって……心音がいなかったら、今みたいに笑えなかったと思う。あいつ、心音の前だと表情が他の人とは全然違うし」


「……そんなこと」


「玲奈だってそうだ。カレンが襲って来たあの日に、心音が友達になってくれてから……毎日少しずつ明るくなった。表には出さないけど、玲奈も心音のことを凄く大切にしてる」


 玲奈とアリシアという、あのコミュ障二人と短期間で親しくなるというのは翔太郎も実践しているが、心音も似たようなものだ。


「他の皆もそうだよ。心音と一緒にいたがってる。絶対に、心音は悪い奴なんかじゃない」


 誰かに寄り添って、支えることが出来る人間が悪人のはずがない。


「心音が一番辛い思いしてるのに……それでも、お母さんのところにずっと通ってるんだろ? そんな娘が失格なわけ、あるかよ」


 その言葉は、夕暮れの静寂の中でひどく真っ直ぐで、ひどく優しかった。


 しばらく心音は動かなかった。

 胸の奥に押し込めていた何かが、ひとつ、またひとつ溶けていくみたいに。


 翔太郎の声が風に混じるたび、夕風がさらりと髪を揺らすたび、心音の身体がかすかに震えるのが分かった。


 やがて──


「……ふっ」


 涙を堪えたせいで、笑顔が少しだけ歪む。

 それでも確かに微笑んでいた。


「──ありがとう。キミのおかげで、ちょっと元気出た」


 その笑顔は、沈む陽の薄い橙に照らされて、どこか懐かしい輝きを帯びて見えた。

 その瞬間──心音は自分の胸が、ほんの一瞬だけ浮くように軽くなるのを感じた。


(なるほどね……)


 胸が温かくなるこの感覚に、心音は思わず悟った。

 あのクールな玲奈も、あの無愛想なアリシアも、こんな風に彼に優しくされたのだと。


 別に恋とかじゃない。

 でも、心が救われてしまうこの瞬間だけは……確かに分かってしまった。


 ──彼が、誰かの光になれる理由を。


 けれど、どれだけ胸が揺らいでも、感謝だけは、ちゃんと自分の中にまっすぐ残った。


「アリシアも玲奈も、鳴神くんのことをあんなに信頼する訳だ」


 そんな心音の笑顔に、翔太郎は一瞬だけ息を呑んだ。


(……あれ?)


 山奥の夕暮れ。

 差し込む光の中で、泣きながら笑った少女の影。

 けれど、記憶は靄に包まれて掴めない。

 次の瞬間には、霧みたいに消えていく。


(なんか、どっかで……?)


 翔太郎は首を傾げ、そっと視線を落とした。

 隣では、心音がさっきより軽くなった表情で、残りの炭酸を喉に流し込んでいた。


 そして、小さく深呼吸をしてから立ち上がる。


「──そろそろ戻ろっか。岩井先生も、待ってると思うし」


 夕暮れの光が、心音の横顔を優しく縁取る。


「今日は本当にありがとね、鳴神くん。君が一緒に来てくれて……本当に良かった」


 その言葉は、さっきよりずっと強い声で。

 けれど、どこか照れくさそうに。

 翔太郎はただ「おう」と返して、二人はゆっくり階段へ戻っていくのだった。

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