第2話 変わり果てた世界
それからしばらくして、レイは中央庭園の一角に設けられた休憩所で、ノヴァから届いた診断結果に目を通していた。
エルゼリアが淹れてくれた茶を飲みながら、空中に浮かぶ制御画面を操作する。先ほどより詳しい情報が得られるようになっていたものの、アークの接続状況に大きな変化はなく、内部の主要設備はいまだ応答を返していなかった。
『マスター。接続可能な制御系統の一次診断が完了いたしました』
「どうだった? 何か分かったか?」
『一部の通信経路に致命的な不整合を確認しました。現在、自己修復可能な項目から順次パッチ処理を実行中です。ただし、内界深部へのアクセスルートは依然として確立できません』
「分かった。深部へのルートは無理にこじ開けなくていい。引き続き、直せるところだけ修復を進めておいてくれ」
『了解しました。タスクを継続します』
報告を終えたノヴァとの通信が切れると、レイは制御画面を閉じた。少なくとも、手をつけられる箇所がまったくないわけではないらしい。接続できる範囲を少しずつ広げていけば、故障の原因を特定するための情報も集まってくるだろう。
「何か分かりましたの?」
向かいに座るエルゼリアが尋ねてくる。
「少しだけな。すぐに完全復旧とはいかないけど、ノヴァが直せそうなエラーを見つけてくれたよ」
「ふふ、それは何よりですわ」
「ああ。まずは、その辺りの修復から手をつけていくよ」
レイは茶杯を手に取り、温かい茶を一口飲んだ。
口の中に広がる香りは、以前と変わらないものだった。エルゼリアは昔から茶を淹れるのが上手く、研究の合間にこうして飲ませてもらうことも多かった。休憩所の外では庭園の花々が風に揺れ、近くの木立からは鳥の声が聞こえてくる。
「……やっぱり、エルゼリアの淹れてくれたお茶は格別だな」
「あら。光栄ですわ」
「これ、睡眠前と同じ茶葉か?」
「ええ。宮殿の冷温庫に保管してあったものですわ。お口に合うようでしたら、まだたっぷりございますよ」
「じゃあ、休憩のときはまた頼もうかな」
「ふふっ。ええ、喜んでお淹れします」
エルゼリアは嬉しそうに微笑み、空になりかけていたレイの茶杯へ新しい茶を注いだ。
その様子を眺めていたレイは、ふと休憩所の外へ視線を向けた。
庭園の先には、遥か遠くまで青空が広がっている。木々の向こうを流れる雲の形も、空の色合いも、一見すると以前と変わらない。ただ、イリスが測定していた周辺環境の数値には、眠りにつく前の記録と一致しない項目が幾つもあった。
「……そういえば、外の様子もちゃんと確かめとかないとな」
「あら、下界のことかしら?」
「ああ。イリスの測定結果がちょっと気になっててさ。自分の目で景色を見ておきたいんだ」
エルゼリアはレイの視線を追い、宮殿の外へ広がる空を見上げた。
「でしたら、展望回廊へ参りましょうか。あちらからなら、下界の様子もよくご覧になれますから」
「そうだな。よし、行ってみるか」
レイが頷くと、少し離れた場所で花を眺めていたミレアが、二人の会話を聞きつけたらしく顔を上げた。
「あっ、私も行くー!」
「ああ、一緒に行こうか」
ミレアは嬉しそうに駆け寄ると、レイの手を取った。
三人は休憩所を後にし、庭園を抜けて、宮殿の外周へと続く回廊へ歩き始めた。
中央庭園から続く道には白い石柱が等間隔に並び、その間を抜ける風が花の香りを運んでくる。石畳の両側には背の低い植え込みが続き、ところどころに設けられた長椅子には、柔らかな陽光が差し込んでいた。
宮殿の中枢部から外周へ向かうこの道は、レイにとって馴染み深い場所だった。以前は気分転換を兼ねて散歩に訪れることも多く、研究が行き詰まったときなどは、ここで仲間たちと何気ない会話を交わしながら考えを整理したものだった。
隣を歩くミレアは、先ほどから庭園で見つけた小さな出来事を楽しそうに話している。目覚めたときに部屋の窓から見えた鳥が知らない種類だったことや、いつも遊んでいた場所に変わった形の葉が落ちていたことなど、本人にとってはどれも興味深い発見らしい。
「それでね、その鳥さん、おっきな羽が四枚もあったんだよ!」
「四枚? 翼が二対あるってことか?」
「うんっ! でも、ビューンってすっごく速かったから、ちゃんとは見えなかったかも」
「へえ。そいつは面白そうだな。一度見てみたい」
レイが興味を示すと、ミレアは嬉しそうに顔を輝かせた。自分の見つけたものに関心を持ってもらえたのが嬉しかったらしく、今度はどの辺りを飛んでいたのか、身振りを交えながら説明し始める。
そんな少女の話に耳を傾けながら歩いていたレイは、ふと隣のエルゼリアへ顔を向けた。
「それより、エルゼリア。宮殿の各区画の方はどうだった?」
「主要な居住区画には、特に目立った異常は見当たりませんでした。ただ、いくつかの生活設備がオフラインになっているようですので、皆で手分けして確認を進めております」
「そっか。庭園も綺麗だったし、建物の基礎も無事みたいだから、ひとまず安心ってとこかな」
「ええ。フローラも、花々の状態を熱心に確かめているところですわ」
「フローラなら、庭のことは全部任せて大丈夫そうだな」
「ふふっ。そうですね。ただ……ヴォルディアがまた尻尾で花壇を塞いでしまっているようですので、そちらの方が心配かもしれません」
「……またやってるのか、あいつ」
レイが苦笑すると、エルゼリアも口元に手を添えて小さく笑った。ヴォルディアに悪気がないことは分かっているが、あの巨体では少し身体の向きを変えるだけでも周囲の植物に影響が出てしまう。フローラが何度注意しても、気がつけば同じことを繰り返しているのだから、二人のやり取りは当分なくならないだろう。
そんな会話を交わしているうちに、回廊の先が大きく開けてきた。
石柱の間隔が広がり、足元の石畳が緩やかな曲線を描きながら、宮殿の外周へと続いている。頭上を覆っていた屋根が途切れると、視界いっぱいに青空が広がり、吹き抜ける風もそれまでより強くなった。
展望回廊だった。
天空宮殿の外縁に沿って設けられたこの場所からは、周辺の空域だけでなく、遥か眼下に広がる地上の景色まで見渡すことができる。かつてはここから見える風景を眺めながら、レイが新しい機械の構想を練ることも珍しくなかった。
だが、回廊の先へ進んだ彼は、手すり越しに広がる光景を見て足を止めた。
「……へえ、こいつは驚いた」
眼下には、見渡す限りの雲海が広がっていた。
厚く重なった白い雲の間から、ところどころに緑色の大地が覗き、さらに遠くには幾重にも連なる山脈が霞んでいる。太陽の光を受けた雲の表面は淡い金色に輝き、その隙間を流れる風が、白い波のような模様を作り出していた。
美しい景色だった。
しかし、レイが目を奪われたのは、その美しさだけが理由ではなかった。
雲の向こうに見える山々の形も、大地を流れる河川の位置も、彼の記憶にあるものとは一致しない。かつて宮殿の周囲に広がっていた地形を思い浮かべても、目の前の風景に重なる部分は見当たらず、遠くには見覚えのない巨大な湖まで広がっていた。
「……ずいぶん、景色が変わったな」
レイは手すりに片手を置き、遠くの山脈へ目を凝らした。宮殿そのものが別の場所へ移動している可能性もあるが、今のところ、それを確かめる手段はない。いずれにせよ、目の前に広がる大地が以前と同じ姿をしていないことだけは確かだった。
「やっぱり、レイもそう思う?」
隣からミレアが顔を覗かせた。
「私もね、起きてからずーっと変だなぁって思ってたの。前はあんなお山、なかったよね?」
「ああ。少なくとも、俺の記憶にある景色とは完全に別物だな」
「じゃあ、ここって一体どこなの?」
「それを今から、徹底的に調べるところだよ」
レイが答えると、ミレアは納得したように頷き、再び手すりの向こうへ身を乗り出した。その様子を見たエルゼリアが、少女の肩へそっと手を添える。
「こらミレア、あまり手すりから身を乗り出してはいけませんよ?」
「大丈夫だよー?」
「ええ、あなたが落ちる心配はしておりませんわ。ただ……勢い余って、せっかくの手すりを壊されては困りますからね」
「もーっ、そんなことしないもん!」
ミレアが頬を膨らませると、エルゼリアは楽しそうに笑った。レイもつられて笑みを浮かべたが、すぐに視線を眼下の大地へ戻す。
雲の切れ間には緑豊かな平原が広がり、森林の間を縫うように川が流れていた。その流れに沿って細い道らしきものが続いており、さらに目を凝らすと、平原の一角に人工物と思われる小さな集まりが見える。
「……あれ、建物か?」
レイは視線を動かしながら、傍らに控えていたイリスへ意識を向けた。
短い応答音とともに、薄い翼状の機構を備えた偵察機が近づき、彼の肩ほどの高さで静止する。
「イリス、あの辺りの座標を光学拡大できるか?」
『了解しました。対象座標を光学ズームします』
イリスの光学機構が淡く光り、レイの視界に半透明の映像が重なった。遠くに霞んでいた平原が拡大され、森の中を走る細い道や、建物の屋根が次第にはっきりと見えてくる。
そこにあったのは、小規模な集落だった。
石造りの建物が幾つか並び、その周囲を木製の柵が囲っている。集落から伸びる道には荷車らしきものが見え、近くの畑では小さな人影が動いていた。建築様式はレイの知るものとは異なっていたが、何者かが生活している場所であることは間違いなさそうだった。
「……なるほど、集落があるんだな」
レイは映像を眺めながら、興味深そうに目を細めた。
建物の構造や道の造りを見る限り、周辺には一定の文明が存在しているらしい。遠くには集落同士を結ぶ街道のようなものもあり、その先がどこへ続いているのか気になった。
「何か見つかりましたの?」
エルゼリアが隣へ歩み寄る。
「ああ。あの平原のあたりに集落があるみたいだ。石造りの建物もあるし、生活道路も通ってる」
「まあ。それは興味深いですわね」
「そうだな。一体どんな種族たちが暮らしてるんだろうな」
レイは映像の拡大率を変えながら、集落の周辺を確かめた。屋根の形状や建物の配置には一定の規則があり、中央には小さな広場も設けられている。そこを行き交う者たちの姿は今の距離では詳しく判別できなかったが、荷車の動きや畑の様子から、日々の営みが続いていることは窺えた。
そのとき、イリスが短い電子音を発した。
『周辺大気の分析結果を更新しました。マスターの既存の観測記録と比較して、エネルギー粒子の分布に重大な差異が確認されています』
「分布が違う?」
『はい。局所的な魔力濃度の変動も観測されており、周辺環境への影響を継続してサーベイ中です』
レイは表示された数値へ目を向けた。大気中には、魔力に由来すると考えられる反応が広く分布している。その存在自体は珍しいものではないが、以前の観測記録と比べると濃度の偏り方が異なり、いくつかの項目には見慣れない反応も混じっていた。
「……なるほど。こいつは面白いな」
思わず呟くと、隣にいたエルゼリアが小さく笑った。
「レイ様、そのお顔は……」
「ん?」
「何か、厄介で新しい研究を思いつかれたときの、悪いお顔ですね」
「人聞きの悪いこと言うなよ。まだそこまでは考えてないさ。ただ、ちょっと気になるデータがあっただけで」
レイは苦笑しながら、もう一度観測結果を確認した。
魔力の性質が変化しているのか、それとも土地や環境によって分布が異なるだけなのか。現状では判断できないが、少なくとも調べる価値はありそうだった。
アークの復旧を進めるうえでも、外界の資源について知っておく必要がある。
かつて使用していた材料が、今も同じように手に入るとは限らない。逆に、以前は存在しなかった鉱物や植物が見つかる可能性もある。未知の素材が持つ特性によっては、これまでとは異なる機構を開発できるかもしれなかった。
レイはそんなことを考えながら、雲の向こうへ広がる大地を眺めた。
「……一度、下へ降りて自分の目で見てみたいな」
その言葉に、エルゼリアが顔を向けた。
「下界へ、でございますか?」
「ああ。せっかく知らない土地に来たんだし、直接この目で見てみたい。どんな生き物がいて、どんな技術体系が築かれてるのか……気になることが多すぎるな」
「お気持ちは痛いほど分かりますが、まだ周辺の安全すら確認できておりません。レイ様が直接お出かけになるのでしたら、相応の護衛と準備が必要かと」
「もちろん分かってる。今すぐ飛び出すつもりはないよ」
レイはそう答え、展望回廊の向こうへ視線を移した。
見知らぬ土地に降り立てば、どのような危険が待っているか分からない。自分には魔力も特別な身体能力もない以上、最低限の情報を集め、必要な装備を整えてから行動するべきだろう。
何より、アークが機能不全に陥っている現状では、機械設備に頼った対処にも限界がある。
「まずは宮殿とアークの現状を把握して、それからだな」
「ええ。絶対にその方がよろしいかと存じます」
エルゼリアは満足そうに頷いたが、すぐに何かを思いついたように微笑んだ。
「もし下界の調査が急務でしたら、私が先遣として赴いてまいりましょうか?」
「エルゼリアが?」
「はい。周辺の状況を確かめる程度でしたら、お茶を淹れるより造作もございませんし、必要とあらば障害となるものを物理的に排除してまいりますわ」
あまりにも自然な口調だったため、レイは一瞬だけ返事に迷った。
エルゼリアにとっては、確かに大した問題ではないのかもしれない。しかし、下界にどのような種族が暮らし、どのような社会を築いているのかも分からない段階で、彼女を送り出すのはまだ早いだろう。
「いや、ストップ。まだいいよ。今はイリスたちで情報を集めるだけにしておこう」
「……ちぇっ。残念です」
「それに、せっかくの未知の世界なら俺も一緒に行きたいしな」
レイがそう付け加えると、エルゼリアは小さく目を細めた。
「ふふっ。やはり、そちらが本音でいらしたのね」
「まあ、否定はしないけどな」
「でしたら、その際はぜひ私も護衛としてお供させてくださいませ」
「ああ。頼りにしてるよ、エルゼリア」
その言葉を聞いて、エルゼリアは嬉しそうに微笑んだ。彼女の背後に浮かぶ七つの棺は、風に流れる銀髪とは対照的に、微動だにせず静止している。
レイにとってエルゼリアは、昔から頼りになる仲間だった。
彼女がどれほど強大な力を持っていても、レイが接する態度は変わらない。頼みたいことがあれば理由を伝え、判断に迷うことががあれば意見を聞く。エルゼリアもまた、レイの考えを尊重しながら、ときには冗談を交え、必要なときには遠慮なく助言してくれる。
そんな関係が、この宮殿ではずっと続いてきた。
「レイっ、あそこ、何か飛んでるよ!」
隣から声をかけられ、レイは顔を向けた。
ミレアが手すりの向こうを指差している。
視線を向けると、雲の切れ間から小さな影が飛び出してきた。
鳥のようにも見えるが、翼の形が少し変わっている。二対の翼を交互に動かしながら、風に乗って上昇してくるその姿は、先ほどミレアが話していた生き物に似ていた。
「ん……あれか。確かに翼が四枚あるな」
「でしょでしょ! ほら、あっちにもいっぱいいるよ!」
少し離れた場所にも、同じような影が幾つか見えた。群れで飛んでいるらしく、互いに一定の距離を保ちながら、雲の上を滑るように移動している。
「イリス、あの生物のデータもスキャンして記録しておいてくれ」
『了解しました。対象の形態、および飛行特性のトラッキングを開始します』
イリスの光学機構が小さく動き、飛翔する生物の姿を追い始めた。レイはその様子を興味深く眺めながら、四枚の翼がそれぞれどのような役割を果たしているのか考えていた。
前後の翼が異なる角度で動いていることから、単純に揚力を増しているだけではなさそうだった。旋回するときの動きも独特で、体勢を崩すことなく急激に進路を変えている。
「……本当に、知らないものばかりでワクワクするな」
思わず浮かんだ笑みには、戸惑いよりも楽しさが滲んでいた。
見慣れない地形、未知の生物、過去の記録と異なる魔力の分布。確かめたいことは山ほどあり、アークの復旧に必要な材料を探すだけでも、相当な調査が必要になるだろう。
だが、何も分からない場所だからこそ、調べる価値がある。
見たことのないものが存在するなら、その仕組みを知りたい。今までの技術で対応できない問題があるのなら、新しい方法を考えればいい。
レイにとって、それは昔から変わらない楽しみだった。
「レイ様」
エルゼリアに声をかけられ、レイは顔を向けた。
「そろそろ、広場へお戻りになりませんか? 皆も、今後のことを相談したいようですし」
「ああ、そうだな。外の探求は、もう少し情報が集まってからにしよう」
レイは手すりから身体を離し、イリスへ観測の継続を指示した。
宮殿の周辺に生活圏が存在することは確認できたし、環境の変化についても、調べるべき項目がいくつか見つかっている。今後の方針を決めるには、もう少し情報が欲しいところだった。
「ミレア、戻るぞー」
「はーい!」
少女は元気よく返事をすると、再びレイの手を取った。エルゼリアも隣に並び、三人は展望回廊から中央庭園へ向かって歩き始める。
帰り道では、ミレアが先ほど見つけた四枚翼の鳥について、まだ興奮した様子で話していた。どこから飛んできたのか、何を食べるのか、宮殿の庭にも来るのか。次々に飛び出す質問に、レイは分かる範囲で答えながら、詳しいことはイリスの観測結果を見てから考えようと伝えた。
するとミレアは、少し考え込んだあと、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今度一緒にあの子たちを探しに行こうね!」
「ああ。安全な場所だってちゃんと分かったらな」
「絶対だよ、約束!」
「分かった分かった、約束だ」
そんなやり取りを交わしながら、三人は庭園へと戻っていった。
広場では、先ほどと変わらず仲間たちがそれぞれの時間を過ごしていた。遠くの森ではガルドーンが静かに佇み、頭上では漆黒の骨鯨オルヴェインが雲の間を泳いでいる。花壇の向こうからは誰かの笑い声が聞こえ、風に揺れる木々が柔らかな葉擦れの音を響かせていた。
レイは庭園へ続く石畳を歩きながら、これから調べたいことを思い浮かべていた。
アークの復旧、周辺環境の観測、未知の素材の調査。
やるべきことは多いが、どれも急いで結論を出せるものではない。それに、せっかく皆が揃って目覚めたのだから、まずは宮殿の状態を確認し、今後について話し合う時間を取るのも悪くないだろう。
レイは隣を歩くエルゼリアとミレアへ目を向け、それから庭園の奥へ歩みを進めた。
♢
グランヴェルト王国北方に位置する監視塔では、普段と変わらない朝の見張りが続いていた。
見張り台に立つ若い兵士は、石造りの胸壁に片肘をつきながら、遠くの街道へ視線を向けていた。国境に近いとはいえ、この地域ではここ数年大きな争いもなく、監視塔での任務も比較的平穏なものだった。
街道を行き交う商隊を確認し、ときおり森から姿を現す魔物に注意を払う。何か異常があれば隊長へ報告し、必要に応じて周辺の部隊へ連絡を回す。
今日もいつもと同じ一日になるはずだったが、ふと北方の空を見上げた兵士は、奇妙なものが視界に入ったことに気づいた。
「……ん?」
遠くの山脈の上に、巨大な影が浮かんでいた。
最初は厚い雲かと思ったものの、よく見るとその輪郭は妙にはっきりしている。周囲の雲が風に流され、少しずつ形を変えているのに対し、その影だけはほとんど動かず、同じ場所に留まっていた。
兵士は眉を寄せ、監視塔の脇に置かれた遠見筒を手に取った。
北方の空へ向け、慎重に焦点を合わせる。
「……何だ、あれは」
遠見筒の向こうに映ったのは、灰色の岩盤だった。
巨大な岩の塊が、空中に浮いている。
下面には無数の亀裂や岩の突起があり、その周囲を白い雲がゆっくりと流れていた。さらに視線を上へ動かすと、岩盤の縁からわずかに緑が覗き、その向こうには人工物と思われる細長い尖塔が幾つか見える。
しかし、大地の上に何が広がっているのかまでは分からない。見上げる角度のせいで、その大部分が巨大な岩盤の陰に隠れているのだ。
「……浮いてる、よな? あれ」
兵士は遠見筒を下ろし、肉眼で空を見上げた。
見間違いではない。山脈との間には明らかに空が広がっており、巨大な岩盤は地上のどこにも繋がっていなかった。
魔法で物を浮かせること自体は、この世界でも知られている。小型の荷物を運ぶ術式や、一時的に人間の身体を浮かび上がらせる魔法なら、兵士も見たことがあった。
だが、目の前のものは、そのどれとも比較にならない。
岩盤の端から端まで、どれほどの距離があるのか見当もつかなかった。遠く離れた監視塔からでも空の一角を覆うほどの広がりがあり、その周囲を流れる雲と比べても、途方もない大きさであることだけは分かる。
「おい、ちょっと来てくれ!」
兵士が声をかけると、近くで別の方角を見張っていた同僚が振り返った。
「どうした?」
「北の空だ。あれ、お前には何に見える?」
同僚は言われた方向へ顔を向け、しばらく黙って空を見つめていた。
「……でかい雲、ってわけじゃなさそうだな」
「だろ? これ、覗いてみろよ」
差し出された遠見筒を覗き込んだ同僚は、少しずつ角度を変えながら巨大な浮遊物を観察し始めた。やがて上部に覗く尖塔へ気づいたらしく、驚いたように声を上げる。
「おい、建物みたいなのがあるぞ」
「やっぱりそう見えるよな?」
「ああ。けど、一体何なんだこれ……島が空に浮かんでるのか?」
「俺に聞かれても困る」
二人は顔を見合わせた。
空に浮かぶ島。
言葉にしてみても、いまいち実感が湧かない。そもそも、これほど巨大なものを浮かせる魔法が存在するなど、兵士たちは聞いたこともなかった。
「……何かの魔法、なのか?」
「さあな。少なくとも、俺たちが知ってるような規模じゃないだろ」
「だよなあ……」
同僚はもう一度遠見筒を覗き込み、岩盤の輪郭をゆっくりと追った。
灰色の岩肌はどこまでも続き、その上部に見える尖塔は、地上にある王国の城とも少し違う形をしていた。上から垂れ下がる雲が岩盤の側面を覆っているため、全体の構造を確かめることは難しいが、少なくとも単なる自然の岩塊ではなさそうだった。
「……これは、隊長に報告した方がいいよな」
「ああ。さすがに俺たちだけでどうこうできる代物じゃない」
そう話していたとき、遠見筒を覗いていた兵士が不意に動きを止めた。
「……待て」
「どうした?」
「あの上……何か飛んでないか?」
兵士が示した方向へ、もう一人も視線を向けた。
浮遊大地の上空を、黒い影がゆっくりと移動していた。
最初は雲の陰かと思ったが、その動きには明らかな規則性があり、ときおり色鮮やかな光が黒い輪郭の内側で瞬いている。
遠見筒の倍率を調整すると、その姿が少しずつはっきりしてきた。
「……鯨、か?」
思わず、そんな言葉が漏れた。
それは巨大な鯨に似た姿をしていたが、全身は漆黒の骨格で構成され、肋骨の隙間には色鮮やかなステンドグラスが嵌め込まれていた。大きな鰭をゆっくりと動かしながら、まるで海の中にいるかのように空を泳いでいる。
「いやいや、鯨が空を飛ぶわけないだろ!」
「じゃあ何なんだよ、あれは!」
「知るかよ……っ」
同僚は遠見筒を覗き直し、困惑したように眉を寄せた。
骨だけの鯨が空を泳ぐという光景は、巨大な浮遊島以上に理解しがたいものだった。それでも、遠くに見える異形は何かを攻撃する様子もなく、浮遊大地の周囲を悠然と旋回している。
「……魔物、なのか?」
「かもしれないな。あんなの、一度も見たことないけどな」
「それにしても、でかすぎないか?」
「それは俺も思った」
二人は再び空を見上げた。
巨大な岩盤と、その上空を泳ぐ正体不明の黒い骨鯨。どちらも、これまでの見張りで一度として目にしたことのないものだった。
しばらくして、若い兵士が遠見筒を下ろした。
「……隊長を呼んでくる。お前はここで引き続き見張っててくれ」
「ああ、分かった。頼む」
兵士が階段を駆け下りていくと、残された同僚は遠見筒を構え直した。浮遊大地の上部に覗く尖塔と、その周囲を巡る黒い骨鯨を交互に確かめながら、見えたものを記録板へ書き留めていく。
間もなく、階段を上ってくる足音が聞こえた。
「北方上空に巨大な浮遊物があるそうだな?」
姿を現したのは、長年この地域の警備を任されている年配の隊長だった。若い兵士から遠見筒を受け取ると、すぐに北方の空へ向ける。
「はい。上部には建造物らしきものが見えます。それから、周辺を巨大な飛行生物が旋回しています」
隊長は短く頷き、岩盤の輪郭から、その上に覗く尖塔へと視線を移した。
ちょうどそのとき、黒い骨鯨が雲の間から姿を現した。陽光を受けたステンドグラスが鮮やかに輝き、巨大な身体はゆっくりと向きを変えながら、岩盤の向こうへ消えていく。
「……なるほど。これは大至急、王都へ報告する必要があるな」
隊長は遠見筒を下ろすと、部下たちへ向き直った。
「早馬を出せ! 北方上空に所属不明の巨大浮遊領域が確認されたと報告するんだ。建造物と未知の巨大飛行生物も確認された旨を必ず添えておけ」
「はっ!」
「周辺の監視塔にも急ぎ連絡を回せ。いつから存在しているのか、ほかに目撃情報がないか確認しろ。それから、こちらからの接近は一切禁止する。調査が必要になるにしても、まずは王都の判断を仰ぐ!」
「承知しました!」
兵士たちはすぐに動き始めた。監視塔の下では伝令用の馬が用意され、目撃した内容を記した文書が王国の紋章入りの革袋へ収められる。
隊長はその間も北方の空を見上げていた。
あれほどのものを浮かせる技術があるというだけでも、王国にとっては重大な問題だった。しかも上部には建造物が確認されており、何者かが暮らしている可能性もある。
相手の正体も目的も分からない以上、今は不用意な接触を避けるべきだろう。
「……厄介なことになりそうだな」
隊長は遠見筒を下ろし、小さく息を吐いた。
その頃、王都へ続く街道では、一騎の伝令が馬を走らせていた。




