#5 ばいばい
一週間と少しが経った。
嶺から連絡は来なかった。朔は業務を続けていた。情報を集めて、整理して、出力する。エナジードリンクを飲んで、眠くなったら倒れて、起きたら続きをやる。コンビニには三日に一回行った。嶺がいなくなったということは、変数が一つ消えたということだった。公安との接触ルートが消える。情報の流れ方が戻る。組織への報告の内容は変わらない。変数が減っただけで、他は変わらなかった。
甘いものが減った。コンビニのスイーツに戻った。棚に並んでいるものを選んで買う。コンビニのショートケーキはクリームが多すぎる。プリンは後味が単調だ。チョコレートのやつは悪くない。悪くはなかった。ただ、ファミレスのパフェと比べるとサイズが違う。パンケーキ屋のふわふわと比べると質が違う。スターバックスのフラペチーノと比べると複雑さが違う。ソフトクリームは前の店と設計が違った。
比べる必要はなかった。コンビニスイーツはコンビニスイーツで、それで充分だった。充分なはずだった。なのに比較の演算が走った。不要な演算。原因が不明。バグか何かだと朔は判断した。特に意味はないと処理した。
*****
十日目の深夜、零時前に業務用連絡先に一行打った。
「〇〇公園で待ってる」
近所の公園だった。コンビニより近い。徒歩三分。なぜそうしたかの理由を、打ってから確認した。甘いものをいっぱい食べさせてもらった。関係が終わるなら、別れくらい言っといてもいいかと思った。それだけだった。慰霊の概念は持っていない。餞別の概念も持っていない。ただ、甘いものをもらった相手に何も言わずに終わるのは、朔なりの計算として何かがずれる気がした。社会性ではない。社会性の何かがあるとは思っていない。ただ、甘いものは価値のあるものだった。それを提供してもらった事実がある。終わるなら一言あってもいい。それだけのことだ。
嶺から返事が来るまで十五分かかった。
「今からか?」
「そう」
「わかった」
それだけだった。
朔は公園のベンチに座った。
街灯が一本。ベンチが三つ。砂場と滑り台と水飲み場が一つ。夜の公園には誰もいなかった。風が少しある。コートは持っていなかったので、パーカーの上に別のパーカーを重ねて着てきた。甘いものは持ってこなかった。コンビニに寄ろうとは思わなかった。今日の目的は甘いものを食べることではなかい。甘いものが絡まない嶺との接触は、今回が初めてだ。
嶺が来た。二十分後だった。コートを着ていた。夜に対応している服装だった。顔色は、ソフトクリームを叩き落とした日より少し落ち着いていた。落ち着いたというより、変化の幅が小さくなった感じだ。絶望の質が定常化したのかもしれなかった。定常化しているかどうかは確認できない。外側からしか見えない。
「なんで公園なんだ」
挨拶もなしに嶺が口を開く。朔は気にしないが、嶺もたいがい社会性が高いとは言えない。
「家の近くだから」
「俺はお前の家を知らんが」
「近所の公園って言った。家の場所は言ってない」
嶺は少し口をつぐんで、ベンチに座った。朔との間に空間を空けた。街灯の光が斜めに当たっている。
「……なんで連絡してきた」
少しの沈黙の後、嶺はいきなり切り出してきた。その言葉に朔は普段の口調のまま返事する。
「ばいばいくらい言っとこっかと思って」
「ばいばい」
嶺が繰り返す。
「そう。甘いもんいっぱい食わしてもらったから。終わるなら一言あってもいいかと思った」
「それが理由か」
「それ以外の理由はない」
嶺はコートのポケットに手を入れていた。夜の風が少し強くなった。砂場の砂が少し動いた。しばらく嶺は黙った。公園の中心の方を少し見た。街灯の届かない暗い方向だった。
小声で、「……こいつから来た」と聞こえた気がした。朔に向けていない声だった。
「なに」
「いや」
嶺が向き直った。街灯の光が正面から当たって、嶺の輪郭が暗がりから戻ってきた。声のトーンが変わっている。業務の低さでも、意気消沈が定常化したときの平坦さでもない、別の種類の声だった。
「朔」
初めて嶺に名前を呼ばれたな、と朔は認識した。
「なに」
「俺と来い」
今まで観察してきたどのパターンとも一致しない何かが出ていた。怒りではなかった。落ち込みでもなかった。
「は?」
朔は嶺の顔を見た。前後の言葉が全く接続しない。素で朔は気の抜けた声を出した。馬鹿になったのかとも思った。
「組織から抜けろ。俺がお前を引き取る」
「何それ」
「そのままの意味だ」
夜の風が砂場の砂を少し動かした。朔はベンチの塗装の剥げた部分を指で触れた。嶺の言葉の意味は処理できた。処理できたが、なぜ嶺がそれを言うのかの理由が出てこない。
「公安じゃなくなったのに?」
「関係ない」
「じゃあ、なんで」
「お前が死ぬから」
朔はすぐには返さなかった。「死ぬ」という言葉だけが先に確定して、理由の計算がついてこなかった。
「死なないけど」
「死ぬ」
断言。嶺の言い方は珍しく断言だった。声に迷いがなかった。
「お前は口が軽い。いや、口が軽いというより、機密の概念がない。わかってるだろ」
「うん」
嶺はベンチから動かなかった。コートの膝の部分が夜の風に少し揺れた。声の温度だけが、さっきまでとは変わっていた。
「機密コンプライアンスがない十三歳が組織にいたら、いつか同じことが起きる。あの子と同じことが」
「かもしれない」
「かもしれないじゃない。起きる」
嶺が立ち上がった。立ち上がってから、立ち上がったことを持て余すように公園の暗い方向を少し見た。
「俺は」
嶺が言いかけて止まった。やり直した。
「お前を死なせたくない」
風が少しあった。砂が動いた。街灯が立っていた。嶺の横顔が見えた。街灯と反対の方向を向いていた。声だけが朔に届いた。
「それだけか」
「それだけだ。でも」と嶺は続けた。声が少し落ちた。
「それで充分だろ、俺には」
朔はベンチに座ったまま嶺を見た。背中が見えた。コートが夜の風に少し動いている。データを並べた。嶺が狙撃で人を殺した。データ。嶺が上の都合でスケープゴートにされた。データ。嶺が公安を切られた。データ。嶺が今ここにいる。データ。並列で格納されていた。繋がらなかった。繋ぎたいとも思わなかった。ただ一つだけ、確認できることがあった。嶺は「潔白」のカテゴリから「殺す側」のカテゴリに移動した。
「殺す側になったの、知ってる?」
嶺が振り返った。
「……知ってる」
「殺す側の人間が、俺を死なせたくないって言ってる」
「そうだ」
「矛盾してる」
「矛盾してない。どっちも本当だ」
嶺が言い切って、朔に向き直った。街灯の光が正面から当たった。嶺の顔に、今まで観察してきたどのパターンとも一致しない何かが出ていた。何かについては言語化できない。嶺の内側の話だから確認できない。外側に出てきているものだけが朔に届いた。
「引き取る、っていうのは具体的にどういうこと」
「一緒に住む。組織から切り離す。お前の生活を俺が管理する」
「俺の生活を知ってんの?」
嶺が少し黙った。
「……全部は知らない。でも想像はつく」
「給湯器が壊れかけてて、ベッドが物置になってて、風呂が面倒なのは知ってる?」
「知らなかった」
「エナドリの空き缶が床に散乱してるのは?」
「知らなかった」
「じゃあ全然知らないじゃん」
嶺が息を吐いた。笑いでもため息でもない、どちらの要素も入った呼吸だ。
「そうだな。知らない。知れないから、踏み込めなかった。でも知りたかった」
「なんで」
「お前が心配だったから」
朔は「心配」という言葉を処理した。処理したが、意味の重さが計算できない。嶺が心配するという現象は観察できた。心配するとはどういうことかの内側は、確認できない。
「お前に死んでほしくない」と嶺は言った。その言葉には「組織にいたら、いつかあの子と同じことが起きる。俺はもう、あれを一回見てる。もう一回見たくない」という情報が含まれていることは朔にもわかる。
「俺が死ぬのと、協力者の女が死んだのは別の話だけど」
「お前には別の話かもしれない。俺には同じ話だ」
嶺がまた公園の暗い方向を見た。しばらく見た。それからベンチの前まで近づいて、座らずに立ったまま言った。
「来い。一緒に。お前が嫌だって言うなら無理強いはしない。でも来いと言いたかった」
「どうしてそんなに言いたかったの」
「お前を死なせたくないから。それだけで充分だ」
何度目かの同じ言葉だった。繰り返す理由がわからない。繰り返すことで何かが変わると思っているのか、繰り返すことでしか言えないのか、どちらかは朔にはわからなかった。
朔はベンチの塗装を見た。街灯が等間隔に立っていた。公園の砂場に光が届いていた。「殺す側」に移動した嶺が朔を死なせたくないと言っている。それはどういう構造なのかを考えた。考えたが、結論が出なかった。出ないまま考え続けるのは効率が悪い。
「で?」
「で? じゃない。答えを聞かせてくれ」
呆れたような口調で嶺が返事を要求した。
「別にいいけど」
策はあっさりと承諾する。嶺が少し動かなかった。
「……いいとは」
「行ってもいいけど」
「ほんとうに?」
「うん。ただ」
「ただ?」
朔はベンチの塗装の剥げた縁をもう一度指でなぞった。盛り上がりの感触があった。
「行ってもいいけど、パフェとか連れてってくれるなら」
嶺が完全に止まった。止まったまま、朔を見ていた。夜の公園で、街灯の光と暗がりの境目あたりで、嶺はこちらを見ていた。朔は見返した。嶺の顔に出てきていた何かが、少し変わった。変わり方については言語化できなかった。
「……ああ」
嶺がようやく言った。声が少しだけ、普段と違う質を持っていた。低いわけでも高いわけでもなかった。ただ質が変わっていた。
「それくらいなら」
「約束だから」
「ああ、約束だ」
取引成立。
朔は立ち上がった。公園を出た。嶺が隣を歩いた。甘いものは今日はなかった。なかったのに、歩きながら来週どの店にするかを考えた。SNSで確認していた店がいくつかあった。タルト専門店が先週オープンしていた。レビューがまだ少ないが、写真を見る限り悪くなかった。季節のフルーツが使われているらしかった。
来週、嶺に言えばいい。それだけのことだ。




