第96話 酒場と物流と盗賊の件(十四)
借家の中へ入った瞬間、外の光が少しだけ遠くなった。
金曜の午後はまだ明るい。けれど、戸を閉めてしまうと、その明るさは壁と窓に柔らかく受け止められて、部屋の中ではもう夕方の手前みたいな静けさになる。甘い匂いの残る服と、河原の水気を思い出させる靴の重さが、その静けさの中でようやく自分のものとして戻ってきた。
マリナはその場で一度だけ目を閉じた。
呼吸が深い。
深く吸って、ゆっくり吐く。それだけで背中の奥に貼りついていた緊張が少しずつほどけていく。四日間の街道、その途中で挟んだ酒場の熱、そして今日の営業。頭の中では全部が続いているのに、体だけが先に終わりを理解し始めていた。
「……はあ」
今度は隠さずに息が漏れる。
横でレイナも、同じように肩を落としていた。
「先生、今の、すごく分かります」
「そうでしょうね」
返す声に力が入らない。だが、それが嫌ではない。今はもう、張るべき場面ではないのだと全身が知っている。
ユウトは戸のそばで立ったまま、数秒だけ動かなかった。
別に迷っているわけではない。たぶん、自分の中の切り替えが少しだけ遅れているのだ。師匠のいる厨房、客の流れ、焼きたての匂い、声を掛ければすぐ返ってくる仕事場の熱。その真ん中からいきなり借家の静けさへ戻ってきて、体だけが一瞬ついて来ていない。
「黒崎くん」
呼ぶと、ユウトが顔を上げる。
「はい」
「もう終わりですから、立ったまま固まってないで座ってください」
「……はい」
素直に返して、一歩動く。
その一歩が、思ったより重かった。足元を整えて中へ入る動きにも、普段の軽さが少し足りない。疲れているのだろう。戦闘と営業が続いたうえに、火曜の夜からの流れまである。見た目ではまだ立っていられても、体の芯にはもう十分に重さが溜まっているはずだった。
ダインはその様子を見て、短く言う。
「今日は寝た方がいい」
それは命令でも忠告でもなく、ただ事実をそのまま置いたような言い方だった。
「そうですね」
マリナも頷く。
「何か軽く食べたら、もう休みましょう」
「賛成です」
レイナがすぐに言う。
「さすがに今日は、凝ったことしたくありません」
その一言に、少しだけ空気が和らぐ。
誰もが同じことを思っていたのだろう。
台所へ立ったレイナは、迷いのない手つきで鍋を取り出した。難しいものは作らない。残っている豆と乾燥肉、少しの野菜を刻んで、温かい汁ものにする。体へ入って、胃を温めて、余計に疲れないもの。そういう料理が必要な日だ。
マリナは水を汲み、器を出す。ユウトも言われる前にパンを切り始めた。けれど、刃を入れる動きがほんの少しだけ遅い。雑ではない。むしろ丁寧すぎるくらいだ。疲れている時のユウトは、力が抜けるというより、一つ一つを確かめるように動く。
その手元を見ていると、マリナの胸の奥に静かなものが溜まる。
火曜の夜、酒場であれだけ振り回されて、翌朝にはギルドへ行き、街道へ出て、盗賊を叩き潰し、戻って、また次の日も別の街道へ出た。湿った谷の土も、橋板の冷たさも、川へ入った時の水の重さも、まだ足の裏や膝の奥に残っている。
その上で、今日は金曜の店に立った。
甘い匂いの中で客に声をかけ、皿を受け渡し、列の流れを切らさないように目を配り続けた。その全部がようやく終わって、今こうして借家の中へ戻ってきたのだと思うと、肩や背中に溜まっていたものが一気に重さを持って沈んでいく。
「先生」
レイナが鍋を見ながら言う。
「塩、これくらいでいいですか」
「もう少しだけ薄くして。今日はみんな喉が乾いてるから」
「分かりました」
湯気が立つ。豆と肉の匂いが、昼の甘さを少しずつ押し流していく。厨房でも売り場でもない、借家の夕方の匂いだ。
食卓を囲んだ時には、全員ほとんど無言だった。
匙が器に触れる音、パンをちぎる音、熱い汁を飲む時に少しだけ細くなる息。そのくらいしか聞こえない。疲れている時の静けさは、気まずさとは違う。誰も無理に喋らなくていいと分かっている静けさだった。
最初に口を開いたのは、食事が半ばを過ぎた頃のレイナだった。
「でも、終わりましたね」
ぽつりと落ちた言葉は、誰に向けたものでもないようで、ちゃんと全員に届く。
「そうですね」
マリナが答える。
すると、ユウトも小さく頷いた。
「終わりました」
その声には、達成感よりも実感がある。ようやく言葉に出来た、という感じに近い。
ダインが器を置いて短く言う。
「四日続いた」
「続きましたねえ」
レイナが息を混ぜた笑いをこぼす。
「火曜からずっと濃かったです」
その言い方に、マリナも小さく頷いた。
酒場のあの熱から始まって、物流の話が差し込まれ、翌朝にはギルドへ向かい、街道へ出て、盗賊を潰し、戻って、また別の街道へ出た。湿った谷の冷たさも、橋板の硬さも、渡し場の流れの重さも、まだ体に残っている。その上で、今日は金曜の店へ立ったのだ。重いのは当然だった。
そこで不意に、ユウトが顔を上げた。
「先生」
「何ですか」
「今日は、来られて良かったです」
まっすぐな声だった。
何に対してかは、聞かなくても分かる。店に、だ。師匠のいる厨房に、金曜のあの流れの中へ、間に合って戻ってこられたことに対して。
マリナは一瞬だけ返す言葉を探し、それから正直に答えた。
「ええ」
それだけでよかった。
「私もそう思います」
言い切ると、ユウトの肩からわずかに力が抜ける。やっとそこで安心したのだろう。終わったあとになっても、どこかで気にしていたのかもしれない。
レイナがそれを見て、少しだけ目を細めた。
「先生、今日は本当に素直ですね」
「疲れてるからです」
「便利な言葉だなあ」
「便利なんです」
今度は自分でも少し笑ってしまう。その笑いに力はない。けれど、力がないからこそ今の空気に合っていた。
食事を終える頃には、窓の外の光がかなり柔らかくなっていた。
金曜の午後は、営業を終えたあとの店にとっても、戦闘を終えたパーティにとっても、少しだけ不思議な時間だ。まだ日がある。だが、今日一日の山はもう越えている。その半端な時間が、かえって疲れを表へ出しやすくする。
片づけは手早く済んだ。
レイナが器を洗い、マリナが布で拭き、ユウトが卓を整える。ダインは戸締まりを見てから、自分たちの部屋へ先に引いた。必要なことだけを済ませ、余計な音を立てない。
その背中を見送りながら、マリナも今日はもう何も足さない方がいいと思った。
けれど、ユウトはまだ少しだけ起きていた。
卓の前に座ったまま、何かを考えるでもなく、ただ指先で木目をなぞっている。ぼんやりしているようで、完全に気を抜ききれていない顔だった。
「黒崎くん」
呼ぶと、すぐに顔が上がる。
「はい」
「まだ起きてますか」
「起きてます」
「見れば分かります」
思わずそう返すと、ユウトは少しだけ考えるように目を瞬いた。
「そうですね」
素直すぎる返しに、また少しだけ空気が緩む。
マリナは卓の向かいへ座った。
近い距離だが、酒場の時とも、戦場の時とも違う。今はただ、疲れた者同士が同じ机を挟んで座っているだけだ。
「今日は本当に、よくやりました」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
褒めようと思っていたわけではない。ただ、今日一日を振り返れば、それが一番正確な言葉だった。
ユウトはその言葉を聞いて、ぱちりと目を開いた。
「先生」
声が少しだけ上ずる。
「褒めてますか」
「そういう受け取り方はしなくていいです」
「でも褒めてます」
「……そうですね」
否定しきれない。
「褒めています」
そこまで言うと、ユウトは本当に嬉しそうに、けれど静かに息を吐いた。
「良かったです」
その良かったですには、たぶん色々入っている。渡し場で川へ入ったことも、店へ間に合ったことも、師匠の下で働けたことも、今こうして先生にそう言われたことも。
全部まとめて入っているのだろう。
マリナはそれを聞いて、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。酒場の時のような熱ではない。もっと静かで、長く残る熱だ。
「先生」
また呼ばれる。
「何ですか」
「今日は、先生もすごかったです」
「何がですか」
「全部です」
その言い方が、少し前にレイナがしたものと同じで、思わず笑いそうになる。
けれどユウトは冗談では言っていない。渡し場でも、売り場でも、ずっと見ていたのだろう。
「黒崎くん」
「はい」
「そういうことを真顔で言われると、困ります」
「困りますか」
「困ります」
「でも本当です」
「知ってます」
そこまで言ってから、自分で何を返したのかに気づく。
マリナは一瞬だけ視線を逸らし、遅れて自分の頬に熱が戻るのを感じた。
向かいで、ユウトが少しだけ目を見開く。
「先生」
「今のは忘れてください」
「無理です」
「即答しないでください」
「大事なので」
やっぱり、こうなる。
疲れている時ほど、こういうまっすぐさは逃がしてくれない。
けれど今日は、そこへ本気で抗う気力もなかった。気力がないというより、抗わなくてもいい気がしたのかもしれない。
その時、レイナが片づけを終えて戻ってきた。
部屋の空気を一目見て、すぐに全部を察した顔になる。
「先生」
「何ですか」
「私、今、空気読んで寝た方がいいですか」
「何の空気ですか」
「分かってて聞いてますよね」
「分かってません」
「分かってます」
言い合いの形を取りながらも、レイナの目は完全に面白がっていた。
「黒崎くん、今日はそこそこ頑張ったからって、先生をじわじわ追い詰めすぎです」
「追い詰めてません」
「追い詰めてます」
「本当のことを言ってるだけです」
「一番質が悪いやつです」
そのやり取りに、マリナはとうとう額に手を当てた。
「もう二人とも寝てください……」
声に力がない。
だが、それでようやく本当に今日が終わりに向かい始めた気がした。
レイナが笑いながら自分の部屋へ戻る。ユウトも、名残惜しそうにしていたわけではないのに、立ち上がる動きがほんの少しだけ遅い。それでも最後には素直に頷き、ダインのいる部屋へ向かった。
寝支度を整えて、マリナも自分の寝台へ腰を下ろす。
布団の上へ体重を預けると、背中から脚まで一気に重さが沈んだ。今日一日どころではない。火曜からずっと続いていたものが、ここでまとめて体へ戻ってきた感じがする。
隣の寝台では、レイナが布へ潜りながら小さく言った。
「先生」
「何ですか」
「今日は、いい顔してました」
唐突だった。
だからこそ、本音なのだろう。
「どの時の話ですか」
「色々です」
またそれだ。
けれど今夜は、その曖昧さが嫌ではなかった。
「……そうですか」
「はい」
レイナはそれ以上深追いしなかった。
窓の外では、もう夜が本格的に降りている。通りの音は昼よりずっと少なく、遠くで誰かが笑う声が一度だけ細く流れて、すぐに消えた。
金曜が終わる。
街道も、店も、酒場の熱も、全部を一つの塊にしたような数日だった。けれど、その終わりにこうして借家の寝台へ戻って来られていることが、今は何より大きい。
マリナは目を閉じた。
眠気はすぐに来た。
その眠気に沈む直前、頭の中をよぎったのは、川の冷たさでも、盗賊の顔でもなく、昼の店でユウトが「間に合って良かったです」と言った時の顔だった。
その顔を思い出したまま、意識は静かに途切れていった。
(続く)




